松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年9月24日(日)
説教題「人間が諦めても、神が希望を与えられる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: マルコによる福音書 第5章21~43節

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

旧約聖書: イザヤ書40:27~31

本日の礼拝は、逝去者記念礼拝であります。逝去された方々を覚え、神を礼拝する特別な礼拝です。この礼拝を終えた後、中山霊園の教会墓地へ場所を移し、墓前礼拝を行います。教会墓地へお二人の方の納骨も行う予定です。

逝去者を記念する礼拝。決して誤解をしてはならないのは、逝去された方々を、つまり死者を祀ったり拝んだりしているわけではないということです。キリスト教会では葬儀の際にも、徹底的にそのことに注意を払います。拝むべきなのは死者ではなく、神であり、イエス・キリストです。

私たちはイエス・キリストに集中します。折りが良くても悪くても、神を礼拝し、イエス・キリストに集中するのです。死に直面している場面では、折りが悪いと言わざるを得ないでしょう。しかしそういう場合でも、私たちは礼拝をします。葬儀の礼拝の際に、私がいつも申し上げているのは、この礼拝を通して神が悲しむ私たちに慰めを与えてくださること、そして故人が私たちの間に与えられた感謝を神に献げたいこと、それらのことを申し上げています。

それゆえに私たちは葬儀で礼拝をするのです。今日も特別な礼拝ですが、いつもと変わらぬ礼拝をします。とりわけ、イエス・キリストのお姿に注目しながら、御言葉を聴いていきたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、マルコによる福音書第五章二一~四三節です。少し長い箇所だったかもしれません。二回にわけて説教をするくらいのほうが、ちょうどよかったかもしれません。それゆえに今日は聖書の一つ一つの言葉の詳細な解説をすることはできません。全体的な流れを踏まえつつ、主イエスのお姿に注目をしたいと思います。

よく言われることですが、今日の聖書箇所はサンドイッチのような構造をしているところがあります。どういうことか。二つの話があります。一つが会堂長ヤイロの娘の話です。二一節から二四節前半、ちょうど段落が区切られていますが、そこでいったんヤイロの娘の話が中断し、三五節から再開されます。その間の二四節後半から三四節は、十二年間も出血の止まらなかった女の話です。二つの話が、サンドイッチのパンと中身のように入り組んでいるのです。

なぜこんな構造になっているのでしょうか。それは、独立した話ではなく、繋がりがあるからです。いろいろな共通点を探ることができるでしょうが、何よりの共通点は、十二という数字です。まずは二五節にこうあります。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。」(二五節)。そして四二節にこうあります。「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。」(四二節)。

まるで別の生活をしていた、年齢も違う二人です。しかしこの二人にとって、この十二年間はどのような十二年だったのでしょうか。出血が止まらなかった女にとって、苦しみの十二年間でした。二六節にこうあります。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(二六節)。ひどく苦しめられた。医者も手の施しようがなかった。医療のための費用がかかるわけです。全財産を注ぎこんだけれども、ますます悪くなるだけだった。そういう十二年間だったのです。

会堂長ヤイロの娘は生まれてから十二歳になるまでの十二年間です。どのような十二年間だったのかはよく分かりません。生まれてすぐに病気を抱えていたのか、途中からだったのか、つい最近、死の病にかかったのか、それはよく分かりませんでしたが、この十二年間の生きてきた命が尽きようとしていた、そして尽きてしまった。そういう十二年間でした。

この二つの話に共通しているのは、病であり、そして死です。人間は病や死の現実に向かって、何とか立ち向かおうとします。あの手この手を尽して、いろいろなことをしようとします。しかし最終的には必ずどうしようもない現実が待ち受けています。その現実に直面している人たちが、今日の聖書箇所に出てくるのです。

その現実に直面し、私たちは何をするでしょうか。いったい何ができると言うのでしょうか。それが問われていることです。

先週の月曜日から火曜日にかけて、横浜の方で行われた、ある集会に出かけてきました。発題を担当することになっていたのが出掛けて行った理由ですが、多くの方のお話しを伺うことができました。その集会の講師となっていたのが、お二人の方で、スコットランドと中国から来日された神学者の方たちでした。

集会も終盤に差し掛かり、質疑応答の時間になった時、日本のある牧師が葬儀について、質問をされました。その質問に対して、スコットランドの神学者がこのようなことをお話しされました。

その方のスコットランドの実家のすぐ隣が墓地でした。小さい頃から墓地と隣り合わせの生活をしていたということになりますが、その先生が小さかった頃、昔のことになりますが、その頃はお墓が非常に簡素だったそうです。特に飾り立てたものは何もない。昔は人がなくなると、すぐにお墓に赴き、葬儀もしないのだそうです。墓地で埋葬式だけを行う。祈られるのは、死者のための祈りではなく、残された家族とか友人たちが、キリストの希望に生きることができるように、そのことを短く祈り、埋葬をする。そして終わったら、みんなでウイスキーを飲むとのことでした。

ところが、ここ二、三十年くらいの間に、お墓に変化が現れるようになったと言うのです。スコットランド教会にも世俗化の波が押し寄せてきます。昔は日曜日になると、ほぼみんなが教会に来ている状況だったけれども、ここ最近は必ずしもそういう状況ではなくなってきた。もちろん、キリスト者であることを止めてしまったわけではなく、幼児洗礼を受け、中学生くらいになると信仰告白をし、教会で結婚式を挙げ、死ねば埋葬式をしてもらう。クリスマスくらいは教会に行くのかもしれません。しかし教会離れが少しずつ起こっている。そういう状況になってしまった。

それと共にお墓に変化が現れたと言うのです。どういう変化か。簡素だったお墓に、いろいろなものが飾られるようになったと言うのです。写真が飾られ、華々しくお花が飾られ、故人の持ち物が飾られ、お酒が置かれ、いろいろなものが置かれるようになりました。一見すると華やかになったと言えるかもしれません。しかしスコットランドのその先生は言うのです。なぜそのことが起こっているのか、それはキリストへの希望が薄れているからだ、人間の手で何とかしようとしていることの表われではないか。私たちもそういう現実のことはよく考えてみなければなりません。

今日の聖書箇所の三八節のところにこうあります。「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て…」(三八節)。当時、人が亡くなると、「泣き女」と呼ばれる人が雇われたようです。泣き女だけではなく、笛吹き男という人もいたようです。当時の一般的な習慣で、死の現実に直面をし、この人はこんなに多くの人から涙を流して泣かれるくらいの人だった。ある意味では飾り立てるようにして、そのようにする。

これは二千年前の主イエスの時代だけの話ではなく、世界中どこでもこのような習慣が見られます。日本でもそうです。僧侶を何人も呼んでくるとか、華々しい祭壇で飾るとか、スコットランドのお墓で起こっていることが、世界中どこでも見られると言えるでしょう。

なぜ、人間はそんなことをするのでしょうか。病や死、人間にはどうしようもない現実ですけれども、何とかそれに抵抗しようとする努力だと言えます。どうしようもない病や死の現実を前に、人間の手でできることを必死でやろうとする。しかし厳しく言えば、死や病という圧倒的な力に対して、ゼロに等しい空しい努力としか言いようがありません。

教会では、葬儀においても礼拝をする、そのように説教の冒頭で申し上げました。人間の手で何とかできることをしようというわけではありません。むしろ、人間の手でできそうなことすらも、すべて止めてしまいます。そしてキリストに集中するのです。この現実の中にキリストがいてくださる、そのことを受けとめていくのです。

キリストが病や死の現実の中で、どのように振る舞ってくださったのか。そのお姿を見ていきたいと思います。主イエスのところに、大勢の群集が押し寄せてきます。その群衆の中に、出血の止まらない女もいました。主イエスの服の房に触れさえすれば、癒してもらえる、そう信じて手で触れます。そうすると癒される。

問題はその後です。主イエスが癒されたこの人のことを、ある意味では必死で捜し出そうとされます。弟子たちも、こんなに大勢の人がいたのだから、捜し出せるはずがないでしょうと言いますが、それでも主イエスは捜し出そうとされます。三三節にこうあります。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。」(三三節)。

この女は恐れます。主イエスに怒られてしまう、そういう恐れではなく、本当に神が自分の身に働いたという恐れです。そう申し出た女に対して、主イエスは言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(三四節)。服に触れさえすれば癒してもらえる、主イエスに望みを懸ける、その信仰によってこの人は救われたのです。

サンドイッチの外側であるヤイロの娘の話では、主イエスはどのように振る舞われたのでしょうか。三五節で、会堂長の家の人たちは言います。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(三五節)。死を迎えてしまった、もう希望はない、諦めの言葉です。

それに対して主イエスはこう反応されます。「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。」(三六節)。「そばで聞いて」という言葉が出てきました。かつての口語訳聖書では「聞き流して」となっていました。

他の人たちは、死によってすべてがストップしてしまっている状況で、「聞き流して」次に進める状況ではありませんでした。せいぜい泣き女を雇うくらいです。しかし主イエスは「聞き流して」次に進んでいかれた。会堂長の家に到着します。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(三九節)と主イエスは言われますが、人々は主イエスをあざ笑います。

家の中に入り、そこで主イエスは言われます。「タリタ、クム」(四一節)。これは、わざわざその意味まで書かれています。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。「タリタ、クム」というのは、主イエスも使われていたアラム語という言葉の響きそのものです。

聖書の中には、いくつか元の言葉の響きそのままで残されている言葉があります。最たるものは「アーメン」です。世界中、同じ言葉が用いられています。祈りの最後に付けられることが多い言葉です。本当に、その通りに、という意味です。「アーメン」、「アメーン」、「エイメン」など、アクセントや微妙な響きは違うかもしれませんが、世界共通の、主イエスも使われた言葉です。

「タリタ・クム」。この言葉は日常生活でもよく使われた言葉であったようです。例えば、なかなか子どもが起きない。遅刻しそうになっている。早く起きなさいという意味合いで、使われた言葉でもあります。そのように気軽に使えた言葉でしたが、しかしこの死の現実に直面している場面では、主イエスしか使うことができなかったことです。そしてその言葉通りになったのです。

キリストの教会は、この聖書箇所に記されているイエス・キリストにこだわってきました。教会は二千年の間、伝道をし続けてきました。主イエスがここで行った同じ奇跡を起こしてあげる、同じ奇跡が起こるよ、そのように言って伝道したのではありません。たとえ同じ奇跡が起こらなくとも、病や死を乗り越えることができる力をお持ちの主イエス・キリストを宣べ伝えて、教会は伝道してきたのです。

病や死に対して、何もできない現実が私たちにはあります。まさに今日の聖書箇所に記されている人々の姿が、私たちに姿でもあります。そしてスコットランドの墓場で最近起こっているように、ゼロに等しい微々たる抵抗をするくらいが、私たち人間のできる範囲です。

しかしそういう私たちに対して、死を乗り越え、力を与えてくださるお方がおられます。「タリタ・クム」と言ってくださるお方がおられます。三四節では、出血の止まらなかった女に対して、「安心して行きなさい」と言われています。平和のうちに、平安のうちに歩みなさいというお言葉です。死や病を乗り越えることができない私たちに、キリストが共に歩んでくださいます。私たちの健やかな歩みが、キリストと共にあるのです。