松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年12月17日(日)
説教題「罪深き世に来られるキリスト」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ルカによる福音書 第2章1~7節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

旧約聖書: イザヤ書1:2~3

アドヴェントの第三のろうそくを灯して、本日は礼拝を行っています。来週はいよいよ第四のろうそくを灯し、クリスマス礼拝を行います。今日から三週にわたって、いつも御言葉を聴き続けているコリントの信徒への手紙二から離れて、ルカによる福音書から御言葉を聴いていきたいと思っています。

ルカによる福音書をはじめ、新約聖書には四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つです。どの福音書も主イエスのことを伝えている書物です。しかし角度が違います。それぞれの角度から、主イエスのことを伝えているのです。四つの福音書の中で、とりわけルカによる福音書は、主イエスの登場を遅らせてきたところがあります。

マタイによる福音書の最初には、イエス・キリストの系図が書かれています。主イエスの物語に入る前に、こういう系図を書いていくのです。旧約聖書の登場人物たちを挙げながら、主イエスにまでどのように至っているのか、そのことを書いていきます。そしてその後が、主イエスのクリスマス物語です。主イエスの系図を最初に掲げた上で、誕生の次第を語っていくのです。

マルコによる福音書の最初の言葉は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ一・一)という言葉です。マルコによる福音書には、クリスマスの物語は記されていません。救い主である主イエスが来られる少し前に、主イエスの道備えをした洗礼者ヨハネのことをごく短く取り上げ、主イエスが最初から登場している内容になっています。

ルカによる福音書は後回しにすることにして、ヨハネによる福音書の最初はこうです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ一・一)。これは序の部分のところで、「言」という表現がたくさん出てきます。この「言」はイエス・キリストのことを指していると言われ、もう最初のところから主イエスのことが触れられています。

それら三つの福音書に対して、ルカによる福音書では、主イエスの名は一箇所だけにしか出てきません。天使からマリアに命じられた「イエスと名付けなさい」(ルカ一・三一)というところに、「イエス」が出てくるだけです。代わりに洗礼者ヨハネの両親のことが長々と取り上げられ、洗礼者ヨハネの誕生物語が記されていきます。長い第一章が記され、そしてようやく第二章の今日の聖書箇所のところで、主イエスがお生まれになるのです。

どんなに華々しく主イエスが第二章で登場するのかと思いきや、かなりあっさりしている印象を受けます。洗礼者ヨハネの方が不思議に満ちた登場の仕方をしているくらいです。幼子の主イエスの周りにはほとんど何もありません。布きれ一枚と飼い葉桶だけです。

絵画の世界では、クリスマスの絵は無数に書かれています。クリスマスの場面では、幼子の主イエスやマリア、ヨセフの頭のところに、聖人を表すような輝かしい輪が描かれていたり、救い主誕生を讃美している天使たちが取り囲んでいたり、羊飼いたちや東方の博士たちが救い主を拝みにやって来たり、何かと賑やかです。画家たちはクリスマスを飾り立てようとするのです。しかしルカによる福音書では、幼子の周りにほとんど何も描かれていません。

主イエスのお姿を描くよりも、むしろ主イエスの周りの世界を詳細に描いていると言った方がよいでしょう。わずかな記述ですが、十分すぎるくらいの記述が、一~三節にあります。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」(一~三節)。わずかこれだけですが、しかし当時の世界の様子がよく分かる記述です。世界は忙しく、目まぐるしく動いていたのです。

今もこの状況は変わっていません。為政者たちがいます。その思惑によって、世界の民がその荒波の中で翻弄されています。マリアとヨセフもそうでした。私たちもそうです。そういう世界の様子を描きながら、その片隅で救い主の誕生を描いていく。それがルカのクリスマス物語です。

アドヴェントというのは、クリスマスの到来を待つ時期です。クリスマスのための備えをします。昨日、こどもクリスマスが行われました。教会にいつも来ている子どもたちだけでなく、久しぶりの子や初めての子も多く来てくれました。こどもの教会の教師をはじめ、様々な準備をしてきました。これからクリスマス礼拝や祝会、キャンドル礼拝などもあります。そのための準備をしている私たちです。

しかし二千年前の最初のクリスマスは、何の準備もすることができませんでした。マリアもヨセフも、救い主の両親になる準備などは何もできていませんでした。世界にも救い主がお生まれになるための場所を空けておくことができませんでした。そういう人間の現実のただ中に、救い主がお生まれになったのです。それが最初のクリスマスでした。

七節のところにこうあります。「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(七節)。

昨日、こどもクリスマスが行われました。こどもの教会の子どもたちやスタッフたちによるクリスマス劇が行われました。私はヨセフ役を今年はやりました。マリアと共に、宿屋探しをする場面があります。舞台の左側の宿屋に断られ、右側の宿屋へ行ってみるけれども断られ、左側の宿屋へ行って断られそうになりますが、何とか馬小屋を貸してもらう、そんなストーリーです。馬小屋だったけれども、親切な宿屋さんがいてよかったですね、という話に聞こえそうですが、果たして本当にそれだけで済むのでしょうか。

ベツレヘムというのは、今では主イエスの生まれた町の名前として有名になっていますが、当時は田舎町でありました。昔の田舎町です。ある聖書学者の指摘ですが、そんな田舎町には商業的な宿屋などなかったのではないかと言われています。実際、かつての口語訳聖書では「宿屋」ではなく「客間」と訳されています。宿屋でも客間でもどちらでも訳すことができる言葉です。

さらに別の人がこのように指摘しています。当時のベツレヘムの町は、住民登録のための人が多くいたため、客間も雑魚寝だったのではないか。雑魚寝というのは、あまりよい言葉ではないかもしれません。取るに足らない様々な種類の魚が、所狭しと入れ物に並べられているのです。

しかしそういう雑魚寝の客間にも、出産間近のマリアたちが入ることができなかった。あてがわれたのは、人間の住まいではない家畜小屋でありました。小屋と言っても、当時の家畜小屋は人間が造ったような建物ではなく、洞穴のようなところだったと言われています。マリアとヨセフは、人間の住む場所から追い出された。そういうところで主イエスはお生まれになったのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、イザヤ書の冒頭のところです。「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。」(イザヤ一・二~三)。家畜小屋にいるような牛やろばは飼い主を知っている。それなのに人間は造り主である神を知ろうとしない、そんな皮肉が込められた言葉です。

世界の救い主であるイエス・キリストがお生まれになったのに、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(七節)という有様です。かつての口語訳聖書では、「客間には彼らのいる余地がなかったからである」となっています。親切な宿屋さんがいてよかったですね、という話では済みません。客間です。私たちの家が問題になります。果たして私たちはイエスさまをお迎えできるのか。私たちの客間の問題になるのです。

だいぶ前のことになりますが、こういう説教を聴いたことがあります。自分の家には、いくつかの部屋があります。お客さんを迎えるとき、どの部屋に案内するか。お客さんを通すことができるリビングルームのソファーに腰かけてもらって、お茶を出し、そこでお客さんをもてなします。しかしリビングルーム以外はなかなか通すことができない。見せられない部屋がたくさんあります。そこで、それらの部屋には入られないように、きちんと鍵をかけておくのです。

でもこのお客さんは、実はイエスさまなのです。イエスさま、さあリビングルームにだけどうぞ、他の部屋には決して入らないでください、というわけにはいきません。私たちが、どの部屋の鍵も開けることができるマスターキーを持っていますが、そのマスターキーをイエスさまにお渡しすることができるかどうかが問われているのです。

もちろん、自分の家の物理的な話しではありません。救い主キリストをお迎えする私たちの心の話です。イエスさま、ちょっと今は都合が悪いので、外へ行っていてください、そう言いたくなる私たちかもしれません。イエスさま、しばらく目をつぶっていてください、私がいいと言うまで開けてはいけませんよ、そう言いたくなる私たちかもしれません。イエスさま、ここまではオッケーですが、この先には決して立ち入らないでください、そう言いたくなる私たちかもしれません。

そうではなく、さあ、イエスさまをいつでも私たちの救い主としてお迎えしよう、準備が整っていなくてもお迎えしよう、そういう説教でした。今日のルカによる福音書の聖書箇所と重ね合わせてみると、どのように思われるでしょうか。

先週、ある方の家の「家屋祝福式」という祈りの時を持ちました。半年前に「起工式」という祈りの時も持ちました。半年前は夏の暑い日でしたが、空き地にテントが立てられ、その中で「起工式」を行いました。その何もなかったところに、このたび家が建てられた。家を建てるというのは、大事です。そういう人生の大事に際して、祈りをもって臨むということは、素敵なことだと思います。「起工式」ではこれからのことを祈り、「家屋祝福式」では完成を感謝し、これからの祝福をやはり祈るのです。

先週の「家屋祝福式」において、あまり長い時間の式はできませんでしたが、讃美歌を一曲歌いました。一〇一番です。「いずこの家にも」という讃美歌です。これはクリスマスの讃美歌です。クリスマスの讃美歌の中では、あまり馴染みがない讃美歌であると言った方がよいかもしれません。工事関係者の中には、初めてこういう式に臨んだ方もおられましたので、讃美をすることに、少し戸惑いを覚えられたかもしれません。

この讃美歌の左上のところを見ると、マルティン・ルターの名前があります。作詞をしたのがルターです。当時、すでに歌われていた讃美歌を、ルターが改作をしたようです。一番から六番までの歌詞があります。元の讃美歌はもっともっと長かったようですが、この讃美歌集では六番までの構成になっています。前半の一番から三番までのところに「天使」と書かれています。後半の四番から六番までのところに「子供」と書かれています。つまり、前半が天使から告げられた言葉で、後半が子供たちの応答の言葉になります。神からの語りかけが前半で、人間の応答が後半ということになります。

前半のところで、天使はこう告げます。分かりやすい日本語にするとこうなります。「どんな家にもめでたいおとずれを伝えるために、(私たち天使は)やって来ました。マリアの子として生まれた小さなイエスさまこそ、御国においてもこの地上においても尽きない喜びです。神であるイエスさまこそ罪を清めてくださる傷のない小羊、救い主です」。

後半のところで、子供たちがこう応答します。「ようこそいらっしゃいました、貴きイエスさま、どのような物でおもてなしをしたらよいでしょうか? 心の寝床の塵を払いましょう、愛するイエスさま、静かに寝てくださいませ。飼い葉おけのそばでマリアが歌っている讃美歌に、私たちも声を合わせて、主をほめたたえましょう」。

一番では「いずこの家にも」と歌い始めます。宿屋だけの問題ではありません。私たちすべての家が問われていることです。そういうよい知らせを天使が告げてくれました。さあ、どう応えるべきでしょうか。五番では「こころの臥所」とあります。私たちの心が問われています。そして六番では、二千年前の最初のクリスマスに、マリアが讃美の歌を歌いました。その歌声に私たちも声を合わせましょう、と歌っていくのです。この家からも、あの家からも、讃美の歌声が聞こえてくる。さあ、私の家もこの讃美に加わりましょう、そのことを歌っていくのです。

今日はこの讃美歌一〇一番は歌いませんが、この説教の後で讃美歌一一五番を歌います。「ああベツレヘムよ」と歌い始める讃美歌です。クリスマスの夜、ベツレヘムがどういう状況だったか。「星のみ匂いて」とありますが、星のみが光り輝いていたということです。誰一人、起きておらず、皆が深く眠っていた。二番の歌詞では、人間がみんな眠って知らない間に、御子キリストがお生まれになった。そういう讃美歌の歌詞です。救い主の誕生を、誰一人知らなかったことを歌っている讃美歌です。

何の準備も整っていなかった私たちです。ようこそ、イエスさまと、もてなすことができる家も、もてなすことができる物も、整っていない私たちです。ちょっとそこでお待ちください、今、整えますから、そう言いたくなる私たちです。しかしイエスさまを待たせたところで、いったいいつまでお待たせすれば、私たちの準備が整うのでしょうか。

そういう整わない現実の中に、もうすでにイエスさまは来てくださったのです。準備のできていなかったこの世界に、宿屋も客間もいっぱいだった町に、誰も知らない中に、イエスさまは来てくださいました。救い主の親になる準備のできていなかったマリアとヨセフのところに、そして私たちのところに、イエスさまは来てくださったのです。

私たちは、様々な忙しさを抱えています。様々な労苦を抱えています。様々な罪を抱えています。病や死に直面することもあるでしょう。クリスマスがやって来たからといって、これらの問題が遠のくわけではありません。相変わらずクリスマスの祝いの最中にも、これらの問題に直面をしなければなりません。

しかしクリスマスの祝いは、そういう様々な問題の中でこそ祝う祝いなのです。クリスマスだからと言って、無理に私たちの今の生活を変えようとする必要はありません。むしろそのままでよいのです。そのままの生活のただ中に、救い主、キリストは来てくださいました。そのことを私たちはそのまま受けとめて、クリスマスを祝うのです。

二〇一七年のクリスマスがやって来ます。私たちのそのままの生活のところに、救い主は来られます。マリアの歌声が聞こえてきています。私たちも、その歌声に声を合わせ、クリスマスを祝うのです。