松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2015年12月20日(日)
説教題「神に不可能はない」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ルカによる福音書 第1章26〜38節

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

旧約聖書: 創世記18:9~15

クリスマスはとても不思議な出来事です。処女マリアから、神の子であるイエス・キリストが生まれた。聖書はそう告げるのです。初めて聖書を読まれた方が、新約聖書を開き、読み始める。そこにイエス・キリストの系図が書かれています。人の名前の羅列です。その箇所を何とか読み終えて、次のところに書かれているのはクリスマスの話です。神の子イエス・キリストが、処女マリアから生まれた。自然を超えたことが、聖書の最初のところに書かれているのです。

神を信じるキリスト者は、何もそういう超自然的な現象を信じているわけではありません。あくまでも自然現象は自然現象です。神がお造りになった自然という摂理があることはわきまえています。しかし神が人間を救うために、自然を超えた出来事を起こしてくださった。それがクリスマスの出来事です。一回限りの出来事です。神は奇跡を何でも次々と繰り出すわけではありません。クリスマスは特別な出来事です。だからこそ、不思議な出来事なのです。

本日の説教の説教題を、「神に不可能はない」と付けました。神がおられるならば、そして神が全能であるならば、「神に不可能はない」、そういう説教題が成り立ちます。問題はその神を信じるかどうかです。不思議な現象があるかどうかではありません。全能の神が私たちを本当に救おうとなさった、そう信じるならば、クリスマスの出来事は不思議ではなくなります。全能の神が、自然を超えてまで私たちを救ってくださった。そのように信じることが、信仰を持つことなのであります。

ただし、そのように信じるようになる。これは一筋縄ではいかないことです。キリスト者が最初からそのように信じていた、そういうわけではありません。本日、私たちに与えられた聖書箇所に記されているマリアが、そのことをよく表しています。

「おめでとう」(二八節)とマリアは天使ガブリエルから言われます。「おめでとう」というのは、直訳すれば喜びなさいという意味ですが、当時の挨拶の言葉でした。「こんにちは」と訳してもよいのかもしれません。しかしやはり単なる挨拶ではなく、喜びが込められた「おめでとう」という挨拶を、天使はマリアにしたのです。

マリアはどう思ったでしょうか。「戸惑い」(二九節)と記されています。マリアは困ってしまった。いや、もっと深刻でした。かつての口語訳聖書では「ひどく胸騒ぎがして」と訳されていました。先日、教会の小さな子どもから質問されました。なぜマリアは困ってしまったのか、と。

絵画の世界で、受胎告知のシーンがしばしば描かれます。ほとんどの絵画は、天使ガブリエルとマリアの二人が描かれています。ガブリエルが受胎告知をする。それに対して、たいていの場合は、マリアは従順に天使の言葉を聴いている表情をしているか、中には喜んでさえいるような表情をしている絵画もあります。もちろん絵画として描かれるわけですから、マリアがひどく戸惑っているような表情をしていると、絵にはならないかもしれません。しかし実際のマリアは非常に困ってしまったのです。なぜでしょうか。

いろいろな理由が考えられるかもしれません。マリアは天使をこれまで見たことがなく、このとき初めて見たということもあるかもしれません。あるいは、突然わけのわからないことを言われる。自分がこれから結婚をする身でありながら、いったい何が起こるか不安に思う気持ちもあったでしょう。あるいは、当時の結婚する女性は、だいたい一三歳くらいであったと言われています。マリアもおそらくそれくらいの、まだ少女と言ってよい年齢でした。落ち着いて対応などできなかったでしょう。

そういう戸惑いの中で、天使といろいろなやり取りがなされます。天使ガブリエルが告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(三〇~三三節)。

それに対して、マリアが答えます。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(三四節)。そうするとまたガブリエルが告げます。「「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(三五~三七節)。

ずいぶんとマリアに対してガブリエルは丁寧に説明をしてくれました。あなたが子を宿す、不思議なことかもしれないが、それは聖霊の力によって宿される。もう一つ、ガブリエルがつけ加えたことは、マリアの親類であったエリサベトのことです。エリサベトは子を産むことが不可能であると思われるくらい高齢でありました。ところが子を宿してもう六か月になっている。あのエリサベトもそうでしょう、ということが付け加えられます。

その上で、三七節の言葉に至ります。「神にできないことは何一つない」(三七節)。確かに人間には不可能。人間の常識に照らし合わせて、自然の法則から考えれば、それは不可能。しかし神には可能である。神は何でもできると、天使ガブリエルは最後の言葉として告げるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記第一八章です。アブラハムという人のところに、三人の客人が訪れます。神からの使いです。アブラハムと妻サラは、二人とも高齢になっていました。子どもがなく、とても子どもを望めるような年齢ではありませんでした。しかし客人から、来年の今頃、あなたたちに子どもが与えられている、そういうことが告げられるのです。

これを聞いて二人はどう思ったでしょうか。サラは後ろのところでそれを聞いていて、ひそかに笑いました。そんなことがあるはずがない、そういう笑いです。それに対して、客人は言います。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記一八・一三~一四)。神に不可能なことがあろうか、と言うのです。サラは慌てて、私は笑いませんでした、と言い張ります。しかしいや、あなたは確かに笑ったと言われてしまいます。

翌年、本当に子どもが与えられました。名前は「イサク」と付けました。その名前の意味は「笑い」です。サラは一年前に笑ってしまった。そんなことあるはずがない、そういう不信仰な笑いをしてしまった。しかし一年後、子どもが与えられた、喜びの笑いを笑うことができました。不信仰の笑いを喜びの笑いに変えてくださった。それがイサクの名前の由来です。

アブラハムもサラも、最初から固い信仰に立っていたわけではありません。むしろ不信仰でした。神からの約束をなかなか信じることができませんでした。いや、それどころか、不信仰な笑いさえも浮かべてしまった。しかしその不信仰が、少しずつ信仰へと変えられていったのです。

このことはマリアも同じです。アブラハムとサラとあまり変わりはないと思います。この後、天使ガブリエルが告げた通り、幼子、主イエスをマリアは産みます。そうすると間もなく、羊飼いたちがやって来ます。博士たちがやって来ます。やって来た人たちは皆、この幼子こそ、私たちの救い主。そう言って幼子を拝み、礼拝して、帰って行くのです。そのときのマリアの様子がこう記されています。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ二・一九)。

マリアのこの心の中での思い巡らしは、生涯にわたって続いていくことになりました。イエス・キリストが成人され、およそ三十歳くらいであると言われていますが、人々の前に姿を現し、様々な教えを語ります。奇跡がなされます。そして十字架にお架かりになります。三日目にお甦りになります。マリアはこれらのことを、実際に見聞きしていくのです。天使ガブリエルが自分に告げたあの言葉はいったいどういう意味だったのか。羊飼いや博士がやって来て、自分の子を礼拝したのはいったいどんな意味だったのか。心の中で思い巡らしをしながら、一つ一つの事を受けとめ直していくのです。

その中で、マリアは三八節の言葉を、何度も心の中で繰り返していたと思います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)。神を信じる信仰の言葉です。しかしマリアは最初から、こういう信仰の言葉を言えたわけではありません。本日の聖書箇所でも、最初はひどく胸騒ぎがして、ガブリエルといろいろなやり取りをする中で、ようやくこの言葉へと導かれました。さらにマリアの生涯の中で、様々な出来事が起こる中で、この信仰の言葉を繰り返し心の中で思い返していたことだと思います。

アブラハム、サラ、そしてマリア。皆が同じです。最初はそんなことはありえないと思ってしまう。不信仰な笑いさえ浮かべる。ひどく戸惑ってしまう。皆が最初はそうでした。しかしそこから始まり、様々な歩みを経て、信仰を得ていく。アブラハム、サラ、マリアだけではなく、私たち皆がそうなのです。

本日は、このクリスマス礼拝の中で、二人の方が信仰告白をされ、三人の方が受洗されました。それぞれが公に信仰を言い表したことになります。いろいろな歩みがあったでしょう。時にはサラのようにそんなことあるはずがないと不信仰に笑ってしまったことや、マリアのように不安になり胸騒ぎをしてしまったこともあったかもしれません。

しかし皆がマリアと同じ信仰告白へと導かれました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(三八節)。そのように信仰を告白し、キリスト者としてのスタートを切ったのです。

これからの人生、いろいろなことが起こると思います。人間の不可能を何度も味わうことでしょう。自分の限界を知り、または頼りにしていた人間や物の限界を知ることでしょう。そのことはキリスト者以外の人とも共通のことです。しかし私たちはキリスト者です。神に不可能なことはない、そのことを信じています。信仰告白をされた方、洗礼を受けられた方も、そのことを信じて歩む歩みが、今日から始まったのです。