松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年7月10日(日)
説教題「イエスとは誰か」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第9章7節〜9節

 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。

旧約聖書: マラキ書 第3章19〜24節

先ほど聖書朗読をいたしましたが、ヘロデの言葉の中に「いったい、何者だろう」(九節)という言葉がありました。この言葉を言い換えますと、本日のこの説教の説教題「イエスとは誰か」ということになります。教会の前にあります看板にも、「イエスとは誰か」という説教題が、この一週間掲げられていたことになります。教会にとってイエスという人が重要人物であることは誰にでも明らかでありますが、そのイエスという人は一体どんな人なのか。教会が「イエスとは誰か」という説教題を掲げる意味はとても大きいと思います。この問いの答え方によって、私たちの教会が立ちもすれば、倒れもするからであります。

ルカによる福音書から御言葉を聴き続けている私たちであります。もう一年数カ月になりました。私はようやく第九章にたどり着いた。そしていよいよこれからだという思いにさせられています。どうしてそのように思っているのかと言いますと、第九章で、第一のクライマックスを迎えるからであります。

ルカによる福音書を記したのは、言うまでもないことですが、ルカという人物です。ルカは使徒パウロの伝道旅行に同行をしていたようです。他の使徒たちとも会って、主イエスにかかわる話もたくさん聴いていたのだと思います。それだけでなくて、たくさんの資料を入手して、詳しく調べあげて(ルカ一・三)、このルカによる福音書を記しました。ルカは一説によりますと、医者だったのではないか、パウロの主治医だったのではないかとも言われています。はっきりしたことは分かりませんが、かなりの知識人であり、教養人でありました。ルカが記すギリシア語はかなり格調高いギリシア語なのであるようです。

それと並んで、ルカによる福音書の文章の構造を考えますとき、ルカがこの福音書を記していくときの力量はかなりのものであると感じることができます。すごい文章だと思える。感動さえ覚える。どうしてなのかと言いますと、第一のクライマックスに向けて、ルカは「イエスとは誰か」という問いの答えを徐々に明らかにしていっているからであります。

具体的にルカがどのようにこの福音書を記してきたのか、振り返ってみることにしましょう。いろいろな物語が順序よく記されていきます。主イエスがお語りになったことが記されていたり、人との出会いが記されていたり、奇跡の出来事が記されていたりします。いろいろなことが記されていますが、ところどころで「イエスとは誰か」というような言葉を人々が口にしているのです。

まずは第四章二二節に遡りたいと思います。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」」(四・二二)。このとき主イエスは生まれ故郷のナザレに戻っておられました。多くの人が主イエスのことを知っていた。しかも幼少の時代から知っていた。父親のヨセフのことも母親のマリアのこともよく知っていたと思います。なぜ私たちがよく知っているこの人が、こんな恵み深い言葉を語れるのか、この人は誰だ、ヨセフの子にすぎないのに、という人々の言葉であります。

第四章三四節には悪霊の言葉があります。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(四・三四)。悪霊の同じような言葉は第四章四〇節にもあります。「お前は神の子だ。」(四・四〇)。人間よりも悪霊の方が、正しく主イエスは誰かということをわきまえているようです。

第五章二一節には、再び人々の評価が出て来ます。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(五・二一)。主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された。」(五・二〇)というように、罪の赦しの宣言をされていますが、人々は罪の赦しの宣言をするなどとは、この人は一体誰だと問うているわけです。

第七章一六節には、これも人々の評価ですが、「大預言者が我々の間に現れた」(七・一六)という言葉があります。このとき主イエスはやもめの一人息子を死人の中から甦らせました。そのときの人々の評価がこうだったわけです。

第七章一九節には、洗礼者ヨハネからの遣いの者が、主イエスにこう問うています。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(七・一九)。洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けた人ですが、このときはヘロデによって牢に捕えられていました。だから人を遣わして尋ねさせたわけですが、来るべき方、つまり救い主があなたなのかと問うているわけです。

第七章三四節には、徴税人や罪人と食事を楽しまれていた主イエスに対して、それを快く思わないものたちから、こんな評価が下されます。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(七・三四)。そしてこれも食事の席での話ですが、第七章四九節には罪深い女の罪を赦された主イエスに対して、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」(七・四九)という問いが挙げられます。

第八章二五節には、湖での嵐を静められた主イエスに対して、弟子たちがこのような言葉を口にします。「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」(八・二五)。

第八章二八節には、再び悪霊が主イエスを評価してこのように言います。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」(八・二八)。

そして本日、私たちに与えられた箇所に至るのです。人々は主イエスを様々な形で評価をしています。「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(九・七)、「エリヤが現れたのだ」(九・八)、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」(九・八)。ヘロデも評価しかねて「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」(九・九)と口にしているわけです。

ここに至るまで、「イエスとは誰か」という問いをめぐって、実に多くの評価があることが分かります。ここまでにいろいろな物語が何気なく記されているように思えるかもしれない。しかしルカは人々の口に、悪霊の口にさえも、「イエスとは誰か」という言葉を言わせているのです。そして徐々にその答えを明らかにしていき、第一のクライマックスに至るのです。

そのクライマックスは第九章二〇節になります。二週間後に私たちに与えられようとしている聖書箇所です。少し先取りするようですが、お読みしたいと思います。「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」」(九・二〇)。これが「イエスとは誰か」という問いの答えであり、第一のクライマックスであります。

そして続く二一節からは、主イエスがご自分の十字架での死と復活の予告を初めてされる箇所が続きます。主イエスはメシア、救い主であり、しかも十字架と復活による救い主であるということが示されるわけです。

教会の信仰を持って生きている方にとっては、これは当たり前のことかもしれません。先ほど、使徒信条を告白いたしました。使徒信条は父なる神、子なる神、聖霊なる神に対する信仰を言い表しています。子なる神とはイエス・キリストのことですが、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白します。そして「十字架につけられ」「三日目に死人のうちよりよみがえり」という告白もするのです。私たちがよく知っている救い主のお姿が、使徒信条の中にも、ルカによる福音書第九書の中にも、見出すことができるのです。

しかし二千年前のヘロデにとって、あるいは当時の人々にとって、主イエスがどのようなお方であるのかは明らかではありませんでした。それは今日でも同じかもしれません。教会の前を通りかかって看板を見る。「イエスとは誰か」と書かれているけれども、使徒信条に言い表されている主イエスを信じておられない方は多い。だからこそ、ルカは主イエスの姿を少しずつ明らかにしていき、第一のクライマックスに至る、そのような書き方をしているのであります。

ルカが書いてくれているように、私たちもこの福音書を「順序正しく」(一・三)たどっていけばよいのですが、残念ながらヘロデはそうではありませんでした。ヘロデはガリラヤ地方の領主でした。自分の領内の人々が主イエスのことをいろいろと評価していることを聞いて、戸惑ってしまったようです。七節の始めのところに「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。」(七節)とあります。「これらの出来事」とは、十二人の弟子たちが伝道の旅に派遣されていましたから、弟子たちによって伝えられた主イエスの出来事、第九章に至るまでのすべての出来事のことだと考えられます。

七節の始めのところの言葉によりますと、ヘロデが戸惑ったのは、「これらの出来事」によって戸惑ったかのように思えますが、そうではありません。元の言葉に照らし合わせるならば、七節後半から八節にかけて記されておりますように、主イエスに対する人々の様々な評価に対して戸惑ってしまったのであります。ヘロデが戸惑ったのはもっともなことでありました。ヘロデはガリラヤ地方の領主です。領主として、自分の思い通りに治めたいと思っていました。

最初にヘロデの悩みの種となっていたのが、洗礼者ヨハネでありました。民衆が皆、ヨハネのところに行って洗礼を受けていた(三・二一)。一つの運動に発展していった。ヘロデにとっては面白くないことだったでしょう。しかもヘロデは「自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められた」(三・一九)のであります。そしてヘロデはヨハネを牢に入れてしまった。ついには首をはねてしまった。ヘロデにとっては厄介者がいなくなった、やれやれという思いだったと思います。

ところが、人々が「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(七節)と言いだす始末。さらには「エリヤが現れたのだ」(八節)と言いだす人や、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」(八節)と言いだす民衆まで現れます。

本日、旧約聖書のマラキ書を合わせてお読みいたしました。旧約聖書の最後の言葉になります。二三節のところにこうあります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ三・二三)。当時の人々にとって、偉大な預言者エリヤが再びやって来ることはよく知られていたことでありました。そのエリヤがやって来たのだと言う人や、エリヤではなく他の預言者がやって来たと言う人がたくさんいたのであります。ヘロデにとっては、自分が治めている人々がこのようなことを口にしたのでありますから、心穏やかでない思いがしたのは当然のことであります。

「イエスとは誰か」。ヘロデや当時の人々は戸惑ってしまったのですが、ルカによる福音書から御言葉を聴き続けている私たちは、自然と正しい答えへと導かれるはずです。そしてこの問いにどう答えるのかということは、極めて重要なことです。重要だからこそ、ルカはこの福音書の第九章に至るまで、一貫してそのことをずっと書いてきたのです。

主イエスが誰かという問いに対する答えは、今まで見てきましたようにたくさんあるわけですが、今までの答えに加えて、主イエスを単なる道徳的な教師と見る見方もあります。例えば「敵を愛しなさい」(六・三五)という教えを主イエスは語られました。この教えを真剣に受け止めて、実践しようと志す人がいるとしましょう。「敵を愛しなさい」というような箇所や「人を裁くな」(六・三七)というような箇所にアンダーラインを引いていく。この教えが大切だと考える。しかしその人は主イエスのこの言葉だけしか受け止めません。別に主イエスが救い主であるかどうかなんてどんでもいいことになる。主イエスが十字架にかかろうが、主イエスが復活されようが、そんなことは関係なく、ただ主イエスが語られた言葉だけを大切にする。このような場合、「イエスとは誰か」という問いの答えは、「イエスとは優れた道徳の先生だ」ということになってしまうのです。

このような例は少し極端かもしれませんが、この問いの答え方によって、その後の私たちの歩き方が変わってくるのであります。「優れた道徳の先生である」と考える人は、主イエスの言葉だけをよりどころにして生活をしていくことになるでしょう。二千年前のユダヤ人、ナザレ出身の一人の男に過ぎないという人にとっては、もはやイエスという男など自分には無関係だということになってしまいます。

それに対して、ペトロのように「神からのメシアです」と答えるとなると、私たちはただそのように答えただけで、それっきりというわけにはいかなくなります。主イエスは神からのメシア、救い主なのです。私たちの救い主であり、私の救い主です。罪深い女の罪を赦してくださったように、私の罪を赦してくださる。やもめの独り息子を甦らせてくださったように、私を死の力からも解放してくださる。主イエスをこのような救い主であると信じ、主イエスを受け入れる。信仰を言い表し、洗礼を受け、キリスト者になる、キリスト者として生活していくということになっていくのであります。

先週の日曜日の午後、長老会が行われました。毎月第一日曜日の午後に長老会という会議を行っております。長老は長老選挙によって選ばれます。松本東教会では六人です。私が議長となり、長老の方々と長老会を構成して会議をするわけです。

長老会ではいろいろなことがなされます。様々な報告や議事に先立ちまして、聖書を読み、祈りをしてから、一冊の本を読み進めています。『教会と長老』という本です。東神大パンフレットと呼ばれる東京神学大学が発行している小さな本でありますが、かつての東神大の学長であり、吉祥寺教会の牧師であった竹森満佐一先生が書いたものです。『教会と長老』という本のタイトルに表れていますように、長老会をどう形成していけばよいのか、長老としての心構えはどうあるべきなのかという内容が記されています。

毎月の長老会で少しずつその本を読み進めておりまして、先週も数ページ読んだわけですが、先週読んだところに一つの問いが記されていました。長老会にとっての一番大切な務めは何か。それは信徒の入会に関することであるとその本には記されておりました。入会というのは教会に加えられることですが、洗礼を受ける方があったときや転入会の申し出があったときに、長老会で試問会というものをいたします。「試問」とは「試す」という字に「問う」という字を書くわけですが、洗礼を受けられる方や転入会をされる方を長老会にお招きをして、試問会を行うわけです。

それではいったい何を試問するのか。何を試して、何を問うのか。試問会でありますから、当然、決議をしまして、あなたの入会を認める、認めないという判断をするわけです。一体何を基準にして判断をすればよいのか。長老の方々も「難しい問題ですね…」と口々にしておりました。

そのときも私が申し上げましたが、難しい問題のようで、実はとても簡単なのであります。何を基準にして判断すればよいのか、それは教会が信じている信仰の言葉によってであります。私たち松本東教会で言いますと、日本基督教団の信仰告白になります。日本基督教団の信仰告白の後半は、礼拝の中でも告白しました使徒信条でありますので、使徒信条を基準にして判断すると言ってもよいと思います。

試問会では当然、ご本人の経験してきた信仰の事柄なども伺いますが、何よりも大切なことは、あなたは教会の信仰に同意しますか、ということです。私たちの信仰、教会の信仰にあなたもアーメンと言えますか、ということであります。アーメンということができれば、試問会は終了です。逆にアーメンと言うことができなければ、また機会を改めましょうということになるでしょう。本人がどれほど信仰深いかとか、どんな経験をしてきたかということや、どんな性格をしているかとか、どのくらい教会の活動に貢献できそうかとか、そのようなことは一切問題にならないのです。

このことを言い換えますと、「イエスとは誰か」という問いに対して、ペトロのように答えるということです。使徒信条の言葉も「我らの主、イエス・キリストを信ず」というように整えられています。その言葉に同意をして、アーメンと言う。ルカが書き記しておりますように、主イエスはメシア、救い主であるという告白に至ればよいのです。

今を生きる私たちも「イエスとは誰か」という問いにさらされます。洗礼を受けておられない方、これから試問会を迎える方はもちろんです。しかしそれだけではなくて、キリスト者としての歩みの中でも、主イエスの救い主としてのお姿が見えなくなることもあります。一体主イエスとはどのようなお方だったのか。そのことで戸惑うこともあるでしょう。

しかしヘロデのように戸惑う必要もないのです。私たち自身は戸惑いやすい。ちょっとしたことで、ぐらっと私たち自身は揺れ動いてしまうかもしれない。しかしこのお方はどんなことがあっても変わらない。罪の力、死の力に打ち勝って下さり、私たちに救いをもたらしてくださるお方です。私たちの主であり、救い主であられるお方、主イエス・キリストを信ず。今日もまた私たちの主がこのようなお方であることを思い起こし、深い感謝を献げるのであります。これが救い主である主イエス・キリストによって支えられるキリスト者としての歩みなのであります。