松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年9月4日(日)
説教題「弟子の心得」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第9章51節〜62節

 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

旧約聖書: 列王記上 第19章19〜21節

ルカによる福音書から御言葉を聴き続けて、もう一年半になりました。本日、私たちに与えられた箇所は、第九章の終わりのところにあたります。第二四章まであるこの福音書には、様々なことが書かれているわけですが、本日の聖書箇所のところから、新たな区分が始まると言われています。神学校の試験などで、ルカによる福音書の神学的な特徴を述べなさい、という問題が出題されたとすれば、第一区分が第九章五〇節まで、第二区分が第九章五一節から、と書くわけであります。

どうしてここから第二区分が始まっているのかと言うと、ここから主イエスがエルサレムに向けての旅を始められるからです。五一節にこうありました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(五一節)。今まではガリラヤ湖周辺が活動の中心でありました。そこからエルサレムへ向けて旅をされる。これが第二区分です。そして最後の第三区分となるのが、いよいよエルサレムの町に入られて、そこでの出来事、つまり十字架と復活の出来事が第三区分となります。このような答えを書けば、神学校のテストとしては、良い点を取れるでしょう。

もちろん主イエスがこれまでも旅をされていたわけですけれども、ここから明確にエルサレムに向けての旅を始められます。旅を始めるにあたって、一体どのようなスタートを切ったのか。旅の出だしが肝心なのかもしれません。スムーズに旅に入ることができればよい。しかし主イエスのエルサレムに向けての旅立ちは、散々なスタートだったと言わなければならないでしょう。

旅の準備にあたって、主イエスが入られたのはサマリア人の村でありました。サマリア人はユダヤ人と仲が悪かった。ユダヤ人は自分たちが純血なユダヤ人であることにこだわります。ユダヤ人以外の異邦人の血が混じることを嫌います。サマリア人とはかつては同じ民族でしたが、サマリア人はあるときに異邦人との同化がなされた。このような理由でユダヤ人はサマリア人を嫌っていた。サマリア人もユダヤ人を嫌っていました。主イエスが歓迎されなかった理由もそこにあるでしょう。主イエスたちがユダヤ人、しかもユダヤ人の中心地であるエルサレムを目指して進もうとしていた。だから、最初の町で、こんなことになったのだと思います。

そのサマリア人たちに対して、主イエスの弟子のヤコブとヨハネが激しい言葉を口にします。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(五四節)。こんなことを口にするなんて、間違っていると誰もが思われるでしょう。弟子たちはすでに主イエスから、自分たちが受け入れられなかった場合の対応方法を教わっていました。

「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」(九・五)。弟子たちは以前、その通りにしたはずです。しかしこのときは忘れてしまった。ついカッとなって、このような言葉を口にしてしまったのだと思います。主イエスは旅の最初のところで、弟子たちを戒めなければならなかった。

さらに、道を進んで行くと、三人の人と主イエスは出会われます。いずれも、主イエスの弟子になりたい、弟子の志願者であります。三人との間で交わされた会話の内容は、後で詳しく考えていくことにしますが、どうも会話がうまくかみ合っていないと思います。主イエスが言われたことがうまく受け止められなかったと言わざるを得ないでしょう。

このように主イエスの旅の出発点を見てみると、散々な旅のスタートだったことが分かります。自分に従っている弟子たちが、あるいはこれから従おうとする者たちが、主イエスの言われることにまったくの無理解だった。主イエスの教えが浸透していない。皆さまの中で、学校の教員をされている方、されていた方も多いと思います。一生懸命に教えたのに、生徒たちが理解を示してくれない、これはがっかりすることだと思います。

しかしだからと言って、先生を辞めるわけにはいかないでしょう。まして主イエスはなおさらです。主イエスのエルサレムに向けての旅のスタートにあたって、弟子たちが一定の水準に達したから、旅をスタートさせたというのではないのです。むしろ、ふさわしい弟子など一人もいなかったのであります。

ふさわしい弟子がいなかったことはすぐに分かりますが、それではどういう弟子がふさわしいのでしょうか。どうすればふさわしい弟子になれるのでしょうか。この問題を私たちは考えなくてはならないと思います。

このことを理解する上で、本日の聖書箇所で一つの鍵となることがあります。それは顔です。顔がどちらを向いているかということです。人間誰でも何かの目標があると、顔をそちらに向けるものです。まっすぐに目標を見据えて、左にも右にも顔を向けることなく、ぶれないで目標に向かって進んでいく。

主イエスには明確な目標がありました。五一節にこうあります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(五一節)。ここを直訳しますと、主イエスは「エルサレムに顔を向けた」となります。新共同訳聖書はそれを決意であると理解しましたが、顔のことが問題になっているのです。

五三節後半にもこうあります。「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」(五三節)。ここでも「顔がエルサレムに向かっていた」というのが直訳です。また、五八節に主イエスのお言葉があります。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(五八節)。「枕する所」というのは、「頭を横たえる」というのが直訳になります。顔ではありませんが、頭を横たえる。つまりエルサレムのことを忘れて、顔をそらして、ゆっくり休む所もないということになります。主イエスの目の先には、顔の向いている方向はいつもエルサレムでありました。

ところが弟子たちはそうではなかった。ここにふさわしくなさを考えることができます。サマリアの村で、弟子の二人は激しい言葉を口にしましたけれども、主イエスは「振り向いて二人を戒められた」(五五節)とあります。エルサレムに顔を向けておられた主イエスを、振り向かせざるを得なくさせてしまったのです。また、本日の聖書箇所の最後のところで、主イエスがこう言われています。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(六二節)。主イエスと共に働こうと思い、鋤を手に取る。土地を耕そうとする。一緒に前を向いて進もうとしたのに、どうしても後ろのことが気になってしまう。顔を主イエスと同じ方向に向けることができないのであります。

主イエスの弟子たる者は、主イエスと同じ方向を向いていなければならないでしょう。主イエスに似た者であらなければならない。いや、正確に言うならば、主イエスに似た者になろうとしなければならない。弟子になる目的は、師匠から教えを受けることでもありましょうけれども、教えを受けることによって、師匠に似た者になる。師匠のようになっていく。それが最大の目標であります。

私たちが洗礼を受けるということは、主イエスの弟子になるということです。しばしば言われますのが、洗礼を受けたら何が変わるのだろうかという問いです。洗礼を受けた人は受けた人で、自分はすでに洗礼を受けたのだけれどもちっとも変っていない気がするという問いであります。その際に答えとしてよく言われるのは、こういうことです。洗礼を受ける自分の主人が変わる。今までは罪の奴隷だった。どうしても自分の罪に束縛されてしまう。そこから解放されて、自分の主人が神になる。だから自分は変わらないかもしれないが、自分の主人が神になる。それが洗礼を受けて変わることだと言うのです。

たしかにそれはその通りでしょう。神が私たちの主人になる。洗礼を受けた後、私たちが別人のように、劇的に変わるわけではないでしょう。しかし、私たちはキリストの弟子として、キリストに似た者とされる、似た者にされていく、これもまた事実です。皆さまが信仰の先輩として倣いたいと思っている方があるかもしれません。あの人のこんな姿が立派だと思う。自分もそうなりたい、あのような信仰者として生きたい。しかしその方が最初からそうだったというわけではありません。立派な信仰者であるならば、それはだんだんとキリストに似て来た結果であります。

信仰を持って生き始めると、だんだんと顔つきが変わってくる、言葉が変わってくる、歩き方が変わってくる。それはなぜかというと、私たちがキリストにだんだんと似てくるからであります。新約聖書のいろいろな箇所で、キリストに似るという言葉が記されています。二つだけ例を挙げますと、「御子の姿に似たものにしようと」(ローマ八・二九)という言葉や、「御子に似た者となるということを知っています」(Ⅰヨハネ三・二)という言葉を挙げることができます。いずれも、今、現時点でキリストにそっくり似ていると言っているわけではありません。だんだんと似てくる。それが私たち信仰者、主イエスの弟子としての歩みなのであります。

主イエスと共に歩み始めた、あるいは歩み始めようとした弟子たちは、ここではまったく主イエスと似た者ではなかったと言わざるを得ません。主イエスと顔の向く方向も違った。考えていることも違った。だから、主イエスと三人の弟子になろうとしている人たちとの会話もかみ合わなかったのだと思います。主イエスはここで三人の頭の中にあったのとはまったく違う次元の話をされていたのです。私たちも少し頭を切り替えた方が、主イエスが言われていることをよく理解できると思います。

二番目の人に対して、主イエスは「わたしに従いなさい」(五九節)と言われましたが、二番目の人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(五九節)と言いました。当然のことだと思います。父が亡くなった直後だったのか、その状況は分かりませんが、誰もがこう言うのではないでしょうか。特に当時の人にとっては自分の父親を丁重に葬ることは、最も重んじられるべきことでありました。

旧約聖書の最初には創世記がありますが、アブラハムという人が出てきます。アブラハムの子どもはイサク、その子どもはヤコブ、そのまた子どもはヨセフです。それぞれがそれぞれの父親を丁重に葬っていることが記されています。また、新約聖書のテモテへの手紙一にはこうあります。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」(Ⅰテモテ五・八)。

私たちも葬儀は大切にいたします。昨年度、私たちの教会では五人の教会員が召されました。近年ではかなり葬儀の回数が多かった年であったでしょう。葬儀は教会の中でも優先度の高いものであります。もちろん、日曜日の礼拝より優先されることはありません。しかし平日の集会を葬儀のために休会にしたことは何度もありました。それくらい私たちにとって、亡くなった方を丁重に葬ることは大切なことなのです。

多くの方が召されたということもあって、昨年度は教会の中でも葬儀の話をたくさんしました。その際に、教会の葬儀とは一体何か、葬儀では一体何をするのか、そんな質問を私はたくさん受けました。答えは単純であります。葬儀でも神を礼拝するのです。いつもと変わらず礼拝を行う。神が私たちに与えてくださる恵みを感謝して、これからの祝福や希望をいただく、普段、私たちが行う礼拝はそうでありますが、葬儀でも同じです。ただし亡くなられた方がおられるという状況ですので、神がその方を私たちに与えてくださったことを感謝して、そして残された私たちのこれからの祝福と希望をいただく。これが葬儀になりますが、結局は礼拝と同じなのであります。

主イエスがここで言われている「自分たちの死者を葬らせなさい」(六〇節)という言葉は、神への感謝がなき、そして祝福と希望のない葬儀のことです。主イエスの弟子になるということは、そういうことと決別することです。恵みなき、祝福なき、希望なき命を生きていたのが、恵みがあり、祝福があり、希望がある命に生きるようになることです。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(六〇節)と主イエスは言われています。神の国とは、そのような恵み、祝福、希望があるところです。あなたがたは私の弟子として、そのために働きなさいと言われているのです。

三番目の人はこのように言っています。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(六一節)。本日、合わせて旧約聖書の列王記上をお読みいたしました。預言者エリヤがエリシャを召し出すという話です。召し出すというのは、自分の後継者としての使命を与えることですが、エリシャにとって、それは家族との別れをも意味していました。そこでエリシャは「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(列上一九・二〇)と言いました。エリヤはそれを許可しました。ですから三番目の人も、エリヤとエリシャのことが頭にあって、こう言ったのだと思います。ところが主イエスはこう言われたのです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(六二節)。ちょっとの間、別れの挨拶をするくらいよいではないかと言いたくなります。何と厳しいことを言われるのかと思いたくなります。

しかし主イエスがここでも言われているのは、神の国のことであります。神の国のために働こうとし始める。主イエスと一緒に、鋤に手をかけて畑を耕そうとする。しかしちょっと待ってくれと口を挟む。ちょっとの間だけでいいから、あなたは引っ込んでいてください。目をつぶっていてください。あなたの優先順位を下げさせてください。そういう心を、主イエスはふさわしくないと言われているのです。

主イエスに従うふさわしさは顔をどこに向けているのかであると先ほど申し上げました。それはどんなことがあっても、優先順位が変わらないということだと思います。最優先のところにいつも顔を向けている。それが主イエスの弟子としてのふさわしさであります。

このことで私が思い起こすのは、私が教育実習に行ったときのことです。私は中高のミッションスクールで聖書の授業を教えることができます。その免許を持っています。この免許を取得するための最後のプログラムとなったのが教育実習です。キリスト教主義の中学・高校へ三週間、実習に行きました。実際に聖書の授業をしました。朝のチャペル礼拝で説教もしました。

しかし実習はそれだけではありませんでした。指導してくださる先生も伝道者です。私の神学校の卒業生は、毎年だいたい二〇名から、多いと三〇名くらいいますけれども、そのうちの一人か二人くらいはキリスト教主義の学校の聖書科の先生になります。生徒たちに伝道するわけです。ですから私の指導者も、同じ伝道者でした。私を指導してくださった期間中、伝道者としての心得を語ってくださいました。

そのときに、伝道者として何を優先すべきなのかという話が、とても印象深く残っています。その先生はこう言われました。「第一に神、第二に家族、第三にミッションである」。ミッションというのは、伝道者としての務めであります。牧師ならば牧師としてのミッション、聖書科の先生ならば先生としてのミッションということになるでしょう。それよりも優先されるべきは家族である。家族という土台があって、初めて伝道ができる。私たちが結婚するときも、先輩の伝道者によく言われたことですが、「よき伝道者の家庭を築いてください」というメッセージでした。伝道をするにあたって、家族を犠牲にしてはいけないということです。その先生はそのようにアドバイスしてくださいました。

しかし家族の上になるものがあります。それは神です。どんなことがあろうとも、神が一番の優先順位であるというのが、先ほどの先生のアドバイスです。八月に夏期キャンプが行われましたが、そのとき、小学生のある子から、私はこんな質問を受けました。「神さまと奥さんとどっちが大事?」。もちろん私は即答しました。「神さまだよ」と。「へぇ、そうなんだ」とその子は感心したように言っていましたけれども、キリスト者であるならば、誰もがそう答えることができるのであります。

これは厳しいことでしょうか。そのように義務のように答えなければならないのでしょうか。たしかに主イエスに従う、神を一番の優先順位に持ってくる、いつも顔をそちらに向けていなければならない、それは厳しいことであるかもしれません。主イエスに従う道は平たんではありません。

しかしキリストの弟子がこのような優先順位を持っていることは、何と幸いなことだろうと私は思います。どんなときでも神が一番の優先順位でいてくださるのです。たとえ私たちの家族に何があろうとも、神が一番でいてくださる。あるときは家族やその他のことの方が、優先順位が上になってしまい、神の力が及ばなくなるときがあるというのではありません。どんなときでも神が私たちの主でいてくださる。洗礼を受けた方の主人が神でいてくださることは、いつも変わりがないのです。

主イエスの旅はなお続いていきます。弟子たちを引き連れての旅です。誰もふさわしい者はいません。誰も神を一番の優先順位としている者はいません。誰も神と同じ方向に顔を向けている者もいません。できの悪い弟子ならば放り出されてもよさそうなものです。しかしそんな弟子たちを主イエスは弟子にしてくださり、ご自分の旅に引き連れて、旅を開始されたのであります。私たちは主イエスに従う者です。主イエスの背を見つめて歩み始める者です。ふさわしくないかもしれない。しかし私たちはこのお方に似るのです。変わっていくのです。主イエスに従う歩みの中で、変わっていくのであります。