松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年8月28日(日)
説教題「誰が一番偉いか」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第9章43b節〜50節

 イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

旧約聖書: イザヤ書 第52章1〜6節

説教にはいつも説教題をつけております。本日の説教題は「誰が一番偉いか」であります。説教題をつけるのは、実際に説教をする一週間以上も前のことになりますが、私はいつも説教題をつけるときにはいろいろと悩むことになります。この説教題でいいのか、もっといい説教題はないものか、そのようにしていろいろと考えることになります。

説教題はその日に与えられている聖書の単なる要約ではありません。新共同訳聖書には小見出しが付けられています。今日は小見出しの付けられた箇所でいいますと、三つの部分からなる聖書箇所をひとまとめにして、説教を聴くということになります。最初の小見出しは「再び自分の死の予告をする」であります。主イエスはすでに一回目の死と、それから復活の予告をされています。そして再びその予告をされるわけですが、聖書に書かれている話としては、たしかにこの小見出しの通りです。主イエスが二回目の予告をされるのです。

しかしこの小見出しがそのまま説教題になるかと言うと、それはあまりよい説教題にはならないでしょう。説教題は単なる聖書の要約ではなく、聖書自体にメッセージが含まれていますから、メッセージを含んだものでなければならないと思っています。今日の説教ではどんなメッセージが語られるのか。その日、教会に行くとどんなメッセージを聴くことができるのか。そのようなメッセージを含まれた、教会に行きたくなるような説教題が、よい説教であると思います。

「誰が一番偉いか」、この説教題は疑問文の形の説教題です。この問いの答えは、説教を聴くまでもないかもしれません。主イエスご自身が答えてくださっています。すでに聖書朗読をお聴きになられた皆さまは、その答えを耳にしているのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(四八節)。

主イエスのこの答えは、私たちが普段、耳にするような、一般的な答えとはだいぶ違うものであります。この問いの答えは、時代によって変わってくるかもしれません。昔ですと、例えば王様がいれば、王様が一番偉いということになるでしょう。ローマ帝国ではローマ皇帝が一番偉いということになります。中世の時代では、ローマ・カトリック教会の教皇が一番偉いということになったのだと思います。

現代では、あまり誰が偉いかという答えははっきりしなくなったのかもしれません。会社だと社長が偉い、学校だと校長が偉いということになるのかもしれませんが、どちらかというと現代はあまり偉さという基準を意識的に持たなくなりました。みんなが平等である、だから誰も偉くはないのだという考えがあるのでしょう。

しかし主イエスのこの答えは時代に左右されるものではありません。主イエスがお答えになった二千年前も、そして今も、この答えは有効です。どうしていつの時代にも有効なのかと言いますと、これは神の国での偉さの基準だからです。神の国とはこういうものだよと主イエスは言われているわけです。だから時代に左右されることはないのです。

主イエスがこのように言われる答えを知るまでは、私たちは誰が一番偉いかという問いから自由ではありませんでした。いつだって、この問いを問い続けてきたのです。聖書の元の言葉で言いますと、誰が一番偉いかという言葉は、誰が一番大きいか、大いなる者か、偉大なものか、という意味があります。人が偉さを問うているときは、人の大きさ、小ささを問うていることになります。

ここで、主イエスがお語りになられたタラントンの譬え話を思い起こす方もあるでしょう。その譬え話によりますと、あるとき主人が三人の僕に自分の財産を預けて旅に出ます。一人には五タラントン、もう一人には二タラントン、最後の一人には一タラントンです。それぞれが平等というわけではありません。違いがあります。大きさの違いがあるのです。タラントンというもともとは聖書にあった言葉が、やがて英語のタレントという言葉になりました。才能という意味です。

私たち人間同士を比べてみると、それぞれに与えられているものが違う。才能が違う。あの人はずいぶんとたくさんのタレントを与えられている。自分はそれほどでもない。そんなことを考えてしまう私たちであります。違いがある、大小がある。だからこそ、私たちはどうしても、誰が一番偉いか、誰が一番大きいかという問いから自由になれないのです。どうしてもその問いに束縛されてしまうのです。

弟子たちはここで、誰が一番偉いのかという議論を始めていますけれども、もしかすると、なんと愚かなことを弟子たちはしているのかと思われた方もあるかもしれません。主イエスの弟子たる者が、こんな議論をするなんてもってのほかだ、私ならそんなことはしない、そう思わないわけでもありません。しかしこのとき弟子たちは、このような議論が起こるような状況に置かれていたのです。

この議論が起こる前に一体何があったのか。それは私たちが最近、御言葉を聴き続けて来ましたルカによる福音書の箇所に記されています。主イエスが三人の弟子たち、ペトロとヨハネとヤコブを連れて、山に登られました。山の上で主イエスのお姿が光り輝き、そこに旧約聖書を代表するような二人の人物、モーセとエリヤが登場して、主イエスと語り合う。三人の弟子たちはその出来事を目撃しました。山の下には九人の弟子たちが残されていたことになります。山の下には悪霊に取りつかれた子どもがいまして、九人の弟子たちが主イエスなしで、その悪霊を追い出そうとしていたけれども、それができなかった。主イエスが山の上から降りて来られるのを待たなければならなかったのです。

そして本日与えられた箇所の最初のところにありましたが、主イエスが再びご自分の死の予告をされます。そのときの弟子たちの様子はこうでありました。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(四五節)。弟子たちはここでも主イエスの言われている言葉の意味が分からなかった。尋ねることすらできなかったのであります。

弟子たちはこのとき自信喪失の状態にあったと言ってよいでしょう。山の下に残された九人はもちろんです。山の上に主イエスと一緒に登った三人も、山の上での出来事を理解できずにいました。それゆえ、当時は誰にも話すことができなかった。山の下で十二人が合流した後も、やはり主イエスの話されることがよく分からない。こんなはずではなかった、弟子たちはそう思いつつ、ますます自信を失っていくことになりました。

そのような状況に置かれ、誰が一番偉いかという議論を始めたのです。自信に満ちあふれていれば、こんな議論をする必要もなかったのかもしれません。しかし自信を失った者たちが、自分たちの中での大きさを確認するかのように、偉さの議論を始めるのです。「自分たちの中には、まだ大きさはあるよな、小さな者になっていないよな」という形で議論が起こったのであります。

このことは、続く四九節の箇所からも確認することができるでしょう。弟子の一人であるヨハネは主イエスに対してこう言います。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」(四九節)。ここで問題になっているのは、自分たちのグループと、相手方のグループとの偉さであります。自分たちのグループ内で、個々人の偉さや大きさを比べるようなこともありますが、グループ間で偉さや大きさを比べあうことも、よくなされることであります。

このときの弟子たちもそうだったのでしょう。ヨハネがここで主イエスを「先生」と呼んでいるように、当時は誰かしらの先生につく。その先生のグループの一員になって、その先生からの教えを請う。弟子たちにとって、自分たちは主イエスの直接の弟子であるという自負があったのでしょう。自分たちは良い先生についたものだ。他のグループとは違う。

ところが他のグループの中には、主イエスの直接の弟子でないにもかかわらず、主イエスの名を使っている者がいる。具体的にはどのようにしていたのかは分かりませんが、「主イエスの名によって…」という言葉を用いて、癒しを行ったりしたのでしょう。しかも自分たちができなかった悪霊を追い出すことをその人たちがやってのけている。弟子たちにとって、それは我慢のならなかったことでしょう。自分たちは主イエスの弟子で、他のグループよりも偉いのだから、やめさせようとした、ヨハネは弟子たちを代表して、そのことを言っているのです。

私たちも弟子たちの気持ちが分かると思います。どうしても自分たちの偉さ、大きさから自由になることができません。人と人との間で比べることがあります。グループとグループの間でも比べることがあります。人間の目に違いが映ってしまいますと、どうしても人間の心の中には、大きさを比べる心が働いてしまうのです。一番上になりたいという思いもあるでしょう。より上に行きたいという思いもあるでしょう。

それだけではありません。一番下だけにはなりたくない。下の方ではなく、せめて平均よりは上でいたい。そういう思いが、人に順位を付けることにつながるのだと思います。そして自分をその中に位置づけて、自分は上の方だとか、一番下ではないという形で、安心を得たいのであります。弟子たちがここでしていたのも、そういうことであります。

ここで主イエスの言われている言葉にもう一度、立ち返りたいと思います。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(四八節)。主イエスがここで教えてくださっている偉さは、私たちの心の中に生じる考えとはまったく違うものです。主イエスは「誰も偉くない」などと言われているのではない。「みな平等である」と言われているのでもない。「偉くなれ」とか「偉くなるな」と言われているのでもない。誰が一番偉いのかという定義をしてくださっているのです。

主イエスはこの問いに、すぐに言葉でもって答えられているのではありません。主イエスはまず行動を示してくださっている。「イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて」(四七節)と記されています。おそらく近くに子どもがいたのでしょう。

ここで用いられている子どもという言葉は、本当に小さな子どもを表す言葉です。ある程度、成長をした子どもではなくて、自分の力ではまったく生きていくことができない小さな子どもであります。しかも今の時代ほど、当時の子どもは重んじられていたわけではありません。子どもはどちらかと言うと、軽んじられることの方が多かった。何かがあれば、すぐに被害を受けるのは子どもでありました。

主イエスはそのような子どもの手をお取りになった。「手を取り」と記されていますが、元の言葉では、「手」という言葉はありません。「取る」という言葉があるだけです。主イエスはかがみこむようにして、その子どもの手を取ってくださったのか、あるいは、マルコによる福音書の同じ箇所では、子どもを抱きあげたと記されています。子どもの手を取ったのみならず、子どもの全存在を取るようにして、抱き上げてくださったのかもしれません。その主イエスの行動に象徴されるように、主イエスご自身が小さくなってくださった。そしてこの子どもを大きくしてくださった。主イエスはまず何も語らずに、このような行動をされたのです。

弟子たちもおそらくハッとしたことでしょう。自分たちは偉さを比べていた。その偉さの比較をするときに、子どもはまったく眼中になかったでしょう。その子どものことを、主イエスが手を取るか、抱き上げるかして、ご自分のそばに置かれる。そして言われるのです。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(四八節)。

主イエスはこの子どもを受け入れてくださいました。そして弟子たちに言われるのです。「あなたがたはこの子どもが目に留まっているか。あなたがたもこの子どもを受け入れる用意はあるか。わたしの名によってこの子どもを受け入れてくれ。なぜなら神の国では、最も小さな者が重んじられているからだ。小さなものを受け入れることは、私を受け入れることであり、父なる神を受け入れることなのだ」。主イエスはそう言われるのです。

神の国というのは、神の支配と置き換えることができます。支配と言いますと、何らかの力によって支配するのではないかと思うところがあります。それは偉さによる支配と言ってもよいと思います。ところが主イエスの支配のなさり方はそのような支配ではありません。上に立って力を振るうのではない。そうではなくて、下に立って、仕えることによって、小さなものを受け入れることによって、支配がなされていくのです。大きい者が小さい者に力を振るうのではなく、大きい者が小さい者を受け入れていく。そのようにして相互で受け入れあっていく。このような形で支配がなされていくのです。

「デモクラシー」という言葉があります。民主主義ということです。デモクラシーの「デモ」は民衆を意味する言葉です。そして「クラシー」というのは政治という意味もありますが、支配という意味もあります。つまり、デモクラシー、民主主義というのは民衆による支配という意味になります。民衆が支配するのだから、誰も偉くないということになるのでしょうが、教会の場合はどうでしょうか。教会はキリストが支配をなさる、そう言ってもよいと思います。このことを表す言葉として、「キリストクラシー」と表現する人がいます。もちろんこれは造語であって、一般的に通用する言葉ではありません。教会はキリストが支配をなさる。そういう意味の言葉です。

キリストの支配は、ここでご自身が言われているように、最も小さい者を受け入れることによって始まります。互いに仕える合うことによって、下に立つことによってなされるのです。キリストに従おうとして、洗礼を受けようとされている方が学びますことは、下に立つということであります。それが仕えるということです。また、洗礼を受けた方であっても、いつもなお心がけることは、下に立つということです。洗礼を受けたから偉くなるのではない。信仰生活が長いからといって大いなる者になるのではない。そういう方こそ、下に立つのであります。教会は、そしてまた神の国は、そういうところであります。

私たちが下に立つとき、何よりも覚えるべきことは、キリストが最も低いところに立ってくださったという事実であります。本日の聖書箇所にもありましたように、主イエスはこう言われました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(四四節)。主イエスが人々の手の中に置かれることになる。手の中に置くということは、その人たちの好きなようにできるということです。殺すことさえできる。主イエスは、本来、その必要もなかったのに、人々の手の中に引き渡されてくださった。ご自分の命を投げ出してくださった。私たちがキリスト者として、新たな命に生きることができるように、私たちの代わりに死んでくださったのであります。

私たちがいただいた命の中に、キリストが教えてくださった偉さの基準があります。この基準を知っていれば、この世の偉さに捉われるひつようはない。もはや比べる必要がない。比べることによって安心を得る必要もない。キリストが最も小さな者を受け入れてくださったように、キリストは私たちをも受け入れてくださった。そのことを土台にして、私たちも互いに受け入れあう、互いに仕え合うのであります。これがキリストによる支配なのです。