松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年8月21日(日)
説教題「混迷の中に立つ神」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第9章37節〜43a節

 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。

旧約聖書: 詩編 第103編6〜22節



レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
出血の止まらない女を癒すキリスト (Jesus healing the woman with a flow of blood ) / パオロ・ヴェロネーゼ (Paolo Veronese)

キリストの変容 ( Verklärung Christi ) / ラファエロ (Raffaello Sanzio)
バチカン美術館 (Musei Vaticani)
ヴァチカン(Vatican)

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先週の月曜日は八月一五日、終戦記念日でありました。そのような日にもかかわらず、私がとっている新聞は休刊日でした。あれ、というふうに思っていましたら、案の定、そのことを問題にする人も多かったようです。翌日の八月一六日の新聞に、読者からのこのような川柳が載っていました。「敗戦日休刊するとは平和ボケ」。

私は毎朝、朝の食事をしながら、新聞に目を通しておりますが、必ず読むのが読者からの投稿の紙面であります。読者が短い文章を投稿している紙面でありますが、その紙面の片隅に、いくつかの川柳が載せられております。川柳は俳句のようなもので、季語が不要だったり、字の制約が緩かったりと、俳句よりももっと気楽なものです。投稿してくる方は、とても短い言葉で世の中の出来事を、少し皮肉を込めて表現している場合が多い。この川柳もそうでありましょう。

おそらく昔は、八月一五日を休刊日にするなどということは考えられなかったでしょう。たしかに今年のカレンダーは、月曜日が八月一五日にあたります。お盆の休みを考えれば、八月一五日を休刊にするのが、新聞社としては一番よかったのでしょう。しかしこの川柳が表しているように、それは平和ボケをしているのではないか。そう思われた方も多いと思います。平和であることが当たり前になっている。平和の恩恵を忘れてしまう。それが平和ボケということだと思います。

平和ボケに関する話にこれ以上、踏み込むことはよしますが、私たち信仰者も、ある種の信仰ボケに陥ってしまうことがあるかもしれません。主イエスがいてくださることが当たり前になっている。神が恵みの神であることが当たり前になっている。いつでも神よと呼びかけて、主イエスを通して祈ることができるのが当たり前になっている。このような信仰ボケに陥ることがあるかもしれません。

もちろん、このような信仰の事柄が当たり前になっているのは、良いことであります。神の存在をすぐ近くに感じている。いつも神と向き合い、神に祈り、神が助け、守り、導いてくださる。これは信仰者としてあるべき姿であります。

しかしこれが本当に当たり前なのかと問わなければならないと思います。神は、当然、私のそばにいてくださるはずだ。当然、私の祈りを聞いてくださるはずだ。当然、私を助け、守り、導いてくださるはずだ。そういうふうに思ってしまったら、どこか傲慢になっているところがあると思います。こういう状態を信仰ボケと呼んでも差し支えないと思います。私たちが当然だと思っている信仰の事柄は、神がそうしてくださらなければ、当然のものではなかったのです。私たちが何かをしたからではなく、ただ神が恵みによって、なさってくださった出来事がある。だからこそ、当然でなかったことを、当然のことにしてくださったのであります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、信仰ボケとは程遠い世界が描かれています。信仰なき世界であります。主イエスご自身が、この世界を評価してこのように言われています。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(四一節)。主イエスはこの世界を信仰のない、よこしまな時代と見ておられる。それが主イエスの評価です。

そんな世界の様子を、ラファエロという画家が描いています。私の前回の説教のときに与えられた聖書箇所は、本日のルカによる福音書の箇所の一つ前のところでありました。主イエスが三人の弟子を連れて山に登られる。祈っておられるうちに、主イエスのお姿が変わり、服が真っ白に輝く。モーセとエリヤが表れて主イエスと語り合う。ペトロが少しおかしなことを言いましたが、雲の中に包まれて、気がつくと主イエスしかおられなかった。こういう箇所から御言葉を聴きました。その説教の中で、一つのモザイク画を紹介いたしましたが、本日の説教では、「キリストの変容」というラファエロの絵を紹介したいと思います。

この絵はヴァチカンにある絵ですが、大きな絵です。私の背丈の二倍はあろうかという絵です。縦長になっています。縦長になっているのは理由がありまして、絵の上半分と下半分で違う場面が描かれているからです。上半分は前回のシーンが描かれています。光り輝く主イエスの左右にモーセとエリヤがいる。その足もとに三人の弟子たちが、目をくらませるようにして地面に伏している。上半分はそのような光景が描かれています。

それでは下半分は何かと言うと、本日の聖書箇所にかかわる場面が描かれています。山の下には主イエスの残された弟子たち、つまり九人の弟子たちが残されたわけですが、九人が左側に描かれています。そして下半分の右側には何が描かれているのかと言うと、悪霊に取りつかれた子を中心に、おそらくその家族や知り合いの人たちでありますけれども、その者たちが描かれている。弟子たちは悪霊を追い出すことができずに、右往左往している。悪霊に取りつかれた子の周りにいる者たちは、なぜあなたがたは悪霊を追い出すことができないのか、弟子たちを非難しているのであります。

ラファエロのこの絵はとても有名な絵ですが、それまでにも、山の上でキリストのお姿が変わる場面を描いた絵は、何枚もありました。しかしラファエロは続く場面、つまり本日、私たちに与えられた箇所の山の下での場面を、合わせて描きました。二つの場面を同時に描いたのは、ラファエロが最初だったのかは分かりませんが、ラファエロの影響はやはり大きく、同じような構成の絵を後の時代の人も描いています。

私はラファエロの信仰がこの絵に表れていると思います。主イエスが山の上で光り輝くお姿をされた。モーセとエリヤと語り合っていた。そのとき山の下で何が起こっていたのかというと、信仰なき世界がそこにはあった。主イエスが共におられず、右往左往している弟子たちの様子を描く。主イエスがそこへ降りて来てくださったという信仰を、ラファエロはその絵に込めるのであります。

主イエスが山から、信仰なき世界へ降りて来てくださったのであります。先ほども引用しましたが、主イエスの評価は「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(四一節)でありました。

「信仰のない」とは、信仰が見いだせないということです。つまり不信仰です。「よこしまな時代」の「よこしま」は、漢字で書くと「邪」と書きますが、かつての口語訳聖書では「曲がった時代」と訳されていました。まっすぐでないということです。それから「時代」という言葉ですが、「世代」とも訳せるようです。「今の若い世代は…」などと言うときの世代のことです。この言葉を「時代」と訳すのか、「世代」と訳すのか、二通りあるわけですが、結局は同じことを言っているのだと思います。

私たちもよく「今は時代が良い、悪い」などと口にします。平和ボケをしているときは、今の時代は良かったと口にすることになります。逆に戦争のときに生きなければならないときは、今の時代が悪いと時代のせいにします。良いことも悪いことも、人ではない時代のせいにしているかもしれませんけれども、結局のところ、時代を作り出すのは人であります。今を生きる人間である「世代」が「時代」を作り出している。ですから、この言葉を「時代」と訳そうが、「世代」と訳そうが、結局は人間の問題となってくるのです。主イエスは人間が不信仰である、信仰が曲がってしまっていると見ているのであります。

山の下に残された弟子たちは、なぜ悪霊を追い出せなかったのでしょうか。人間が悪霊を追い出すことができないのは当たり前ではないかとお考えの方もあるかもしれませんが、弟子たちには成功体験がありました。ルカによる福音書の第九章の冒頭の箇所には、十二人の弟子たちが伝道の旅へと派遣される出来事が記されています。

「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」(九・一)。この力と権能が与えられ、実際に弟子たちはその通りに行うことができたのでしょう。ですからこのときの山の下に残された弟子たちも、あのときにできたのだから、このときにもできるだろうと軽く考えて、いったんは悪霊を追い出すことを引き受けたのだと思います。ところが、以前はうまくできたのに、今やできない。右往左往することになった。なぜでしょうか。

ルカによる福音書ではその理由がはっきりと記されていませんが、マタイによる福音書とマルコとによる福音書では、その理由がはっきりと記されています。マタイによる福音書では、この出来事の後で、弟子たちがひそかに主イエスのところに行きます。そして、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」(マタイ一七・一九)と尋ねます。そうすると主イエスからこう言われてしまいます。「信仰が薄いからだ。」(マタイ一七・二〇)。

マルコによる福音書でも、弟子たちが同じ質問をします。そうすると主イエスはこうお答えになられました。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(マルコ九・二九)。マタイによる福音書とマルコによる福音書の主イエスのお言葉をまとめますと、信仰が薄く、祈ることをしなかったから、あなたがたは悪霊を追い出せなかったのだと主イエスは言われているのです。主イエスは弟子たち、つまり人間の中に信仰を見ておられない。だから、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」(四一節)と言われているわけです。

主イエスが山の上から降りて来てくださったのは、この世界に向かってであります。信仰がなく、よこしまで、曲がった世界に降りて来てくださった。そしてただそれを嘆かれただけではない。主イエスは続けてこういう言葉を言われています。「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(四一節)。主イエスがお怒りになられているように思える言葉です。たしかに主イエスはここでお怒りになり、私たちの不信仰を嘆かれたのかもしれません。そうだとすれば、私たちもそれを受け止めなければならないでしょう。

しかし単純にそうとは言えないでしょう。主イエスの堪忍袋の緒が切れて、もう我慢ならないというようにして、悪霊を追い出してくださったのかというと、そうではないと思います。主イエスは弟子たちと共にいてくださった、我慢をしてくださった、だからこそ十字架の出来事が起こったのです。主イエスはこのとき山の上で光り輝くお姿をされ、モーセとエリヤと語り合いました。神の子としての栄光に輝くお姿をされた。

それほどのことをなさったのだから、わざわざ山の上から降りて来てくださらなくても、よいではないか。山の上から力を振るってくださり、この不信仰の世界を変えてくださればよいではないか。そんな思いを抱かれるかたもあると思います。主イエスはそうなさらなかった。降りて来てくださった。まだなお、弟子たちと歩みを共にされる。弟子たちの不信仰を我慢なさる。そしてついには、十字架での死を迎えることになったのであります。

神が私たちの誰にも増して忍耐してくださることを、私たちはしっかりと受け止めなければならないでしょう。本日、合わせてお読みした旧約聖書の箇所は、詩編第一〇三編でありました。八節から一〇節にかけて、こうありました。「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを/罪に応じてあしらわれることなく/わたしたちの悪に従って報いられることもない。」(詩編一〇三・八~一〇)。

この詩編の言葉を紡ぎ出した詩人は、神に忍耐が欠けているなどとはまったく思っていない。それどころか、自分たちの不信仰にもかかわらず、驚くほどの忍耐を示してくださったと言っているのであります。

神は今なお忍耐していてくださいます。主イエスが十字架に進まれ、十字架で示してくださった忍耐は、そこで終わったわけではありません。私たちの世界に今なお残る不信仰に対して、神は今このときも、忍耐していてくださるのです。

ペトロの手紙二の第三章八~九節にこうあります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ三・八~九)。

ここで問題になっていることは、遅いということに関してですが、何が遅いのでしょうか。それは、主イエスが再び来てくださる再臨のことです。前回の説教でも触れましたけれども、私たちは主イエスが再び来てくださることを信じています。主イエスが来てくださり、すべてを完成してくださることを信じています。ですからキリスト者はキリストが再び来られるときを、今か今かと待っているわけですが、ペトロの手紙二の読者たちは、主イエスはまだか、遅いではないかと思っていたのです。

実は当時の人々は、主イエスは天に挙げられたけれども、すぐにまた来られると思っていたのです。使徒パウロなどもその代表者で、自分が生きている間に主イエスが来られると信じて疑わなかったようです。パウロが書いた手紙にもそのような記述を見出すことができます。

ところが、主イエスがなかなか再臨されない。一体どういうことなのかという声に答えているのが、ペトロの手紙二のこの箇所であります。神は忍耐しておられるからだ。あなたがたが悔い改めて、一人も滅びないように今なお忍耐しておられるのだ、というのがその答えであります。

私たちの生かされているこの世界は、今なお不信仰の世界であると言わざるを得ないと思います。ラファエロが描いたあの絵の下半分の世界が、今もなお続いていると言えるかもしれません。神の忍耐は今もなお続いている。そのような世界です。

しかし今の世界が、ラファエロの描いた絵の下半分と決定的に違うことがあります。それは、私たちの世界が、主イエスがすでに来てくださった世界であるということです。主イエスが十字架にお架かりになって下さったことを知っている世界なのであります。

本日のルカによる福音書の箇所の最後にこうあります。「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。」(四三節)。私たちも主イエスが天から降りて来てくださったことを知っています。私たちの不信仰の罪を私たち自身が背負うのではなく、主イエスが私たちの不信仰を引き受けてくださった。私たちの罪が赦されるために、十字架にお架かりになって下さったのです。そのことを知り、心を打たれる私たちであります。

これほどまでのことしてくださったわけでありますから、心打たれて当然の私たちでありますが、私たちはどこか信仰ボケしているところがあるかもしれません。主イエスが来てくださったのが当然になっている。主イエスが私たちの罪のために十字架にお架かりになってくださったのは当然のことになっている。神が忍耐してくださっていることも当然になっている。

しかしこれは本来、当然のことではありませんでした。主イエスが山の上から降りて来てくださったからこそ、十字架にお架かりになってくださったからこそ、当然になったのであります。当然でないことを当然のことにしてくださった。私たちが信仰ボケをするほどのことをしてくださった。その神の偉大さに、私たちも心を打たれるのであります。