松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年8月7日(日)
説教題「いなくならない神」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第9章28節〜36節

 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

旧約聖書: 出エジプト記 第3章1〜10節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)

「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
(フィレンツェ/イタリア)
写真 ©Chikako.HONJO(copyright)

私の個人的な話で恐縮ですが、夏が来ると私が思い起こすのは、夏期伝道実習のことであります。牧師になる前の神学生時代、ひと夏を実習先の教会で過ごす大切な実習です。実際に説教をします。祈祷会の担当をします。その他にも、牧師が経験するであろうことを、一通り体験する実習であります。

その夏期伝道実習の中で、近隣の教会を訪ねることがありました。その地域にはどんな教会があるのか、その教会を見ておくのも、一つの良い経験になります。私がお訪ねをしたその教会の牧師は残念ながらそのときは不在だったのですが、教会を見せていただきました。そのときに、とても印象に残ったことがあります。教会の前に看板がありまして、次の日曜日の説教題が掲げられていました。その説教題はこうです。「人生の終着駅は墓場ではない」。力強い説教題で、今でも忘れることができない説教題です。

私たち人間は死ぬ。死が終わりを意味するのであれば、人生の終着駅は墓場になってしまいます。しかしそうではなく、死を乗り越える力があれば、終着駅は墓場にはならない。そして教会にはそれがある。その説教題はこのことを訴えています。私たちの信仰の中核もそこにあるわけで、私たちは死者の復活を信じています。死の壁が取り払われて、その先に進むことができるようになった。決して終着駅は墓場ではなくて、死を乗り越え、復活の命に生きることができるようになった。これが教会の信仰であります。

死の先に復活があり、命がある。このことをわきまえておかない限り、本日、私たちに与えられた聖書の箇所を決して理解することができません。先ほど聖書朗読をしましたように、この話は出来事としては何も難しいことはありません。何が起こったのはよく分かる。しかし、その意味を問われると、この出来事は一体何を意味しているのかと考えさせられると思います。その意味を考えるにあたって、やはりわきまえておかなければならないのは、死の先のことであります。私たちの前にある死の壁を打ち砕いて、その上でこの物語に耳を傾けなければなりません。

先週、私たちに与えられた箇所、ルカによる福音書第九章二六節にはこうありました。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(九・二六)。人の子とは主イエスのことです。主イエスが「栄光に輝いて来るとき」と言われています。このことを来臨とか、再臨というように言います。主イエスは二千年前に一度、来てくださったわけですが、再び来てくださる。主イエスが再び来てくださるからには、主イエスご自身がまず死を乗り越えて、今なお生きておられなければなりません。そのときと同じ姿である「栄光に輝く」(三二節)お姿が、本日の聖書箇所にも見られます。

ペトロはこのことがよく分かりませんでした。主イエスのお姿が栄光に輝いている。「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(二九節)。けれどもそれが何の姿なのかはよく分からなかった。人間ならば誰でも、自分でよく消化できないことは、人にも伝えることができないものです。私も説教をする際には、まず自分がよく理解した上でないと、結局は伝わらないでしょう。ペトロもこのことをまったく理解することができず、理解できるまでは沈黙を守らざるを得なかったのであります。

そのペトロも、この出来事を悟ることができる日を迎えました。新約聖書のペトロの手紙二の中にこうあります。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(Ⅱペトロ一・一六~一九)。

ペトロの手紙は、ペトロ自身が書いたのか、それともペトロの弟子や後継者のような人によって書かれたのか、その議論はあります。そうなのですけれども、主イエスの復活後、ペトロ自身が山の上でのこの出来事を、ここに記されているように考えていたことは間違いないでしょう。ここでも問題になっているのは「来臨」(Ⅱペトロ一・一六)のことです。主イエスが再び来てくださることを伝えるのに、自分は作り話など作る必要もなかった。私がかつて見たことをそのまま伝えればそれで十分だ。ペトロはそう考えたのであります。

ペトロがこう理解することができるようになったのも、死を乗り越える復活、その先の命を分からせていただいたからであります。主イエスの死と復活によって、死の壁が取り払われた。墓が終着駅ではなくなった。その先の命があった。そのことを分からせていただいたことによって、あのとき山の上で体験したあの出来事は、そういうことだったのかと悟ったのです。

ですから、本日私たちに与えられたこの聖書箇所を、この光のもとで御言葉に耳を傾けますと、がぜん変わってきます。山に登り始めたのは、当時の常識から言えば、暑い日中を避けて、夕方か夜のことであったようです。つまり山の上でのこの出来事は、夜の出来事ということになります。あたりはもう暗くなっていた。ペトロたちが眠かったのもうなずけます。主イエスお一人が祈ってしまわれる。自分たちの師が祈っておられるのに、自分たちだけ先に寝てしまうわけにもいかない。じっとこらえているが、うとうとしてしまう。

しかしふと目を覚ましてみると、闇の中に光が輝いている。真っ白に輝く主イエスを中心にして、モーセとエリヤがそこにいた。モーセはイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から導きだしたリーダーです。律法もそのとき与えられました。エリヤは偉大な預言者です。つまりこの二人は旧約聖書を代表する人物たちです。

この三人が何を話していたのか。ルカによる福音書では、その話の内容まで丁寧に記されています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(三一節)、三人は話し合っていたのであります。

「最期」という言葉が出て来ました。かつての文語訳聖書では「逝去」と訳されていました。死のことであります。新共同訳聖書では「最期」と訳した。もとのギリシア語の言葉は「エクソドス」という言葉です。旧約聖書の創世記に続いて、出エジプト記がありますが、英語で出エジプト記のことを「エクソドス」と言います。同じ言葉です。出エジプト記というのは、本日の旧約聖書の箇所としてもお読みいたしましたけれども、モーセに率いられて、イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から脱出する物語です。出るわけです。出発するわけです。「エクソドス」には「最期」という意味だけではない。「出る」という意味もあるのです。

「エクソドス」を「最期」と訳すのか、それとも「出発」と訳すのか。終わりを意味する言葉として理解するのか、それとも始まりを意味する言葉として理解するのか。まるで正反対の意味であるかもしれませんが、これもやはり、死の壁を取り払って考えれば、よく理解できることかもしれません。死の壁が立ちはだかっていて、それに跳ね返されるとすれば、もはや「最期」と訳す以外に選択肢はありません。死を乗り越えての「出発」などという意味にはとれない。しかし死の先があるとしたら、墓場が終着駅でないとしたら、そこからの出発も考えられるわけです。死の壁を取り払ったときに、「エクソドス」の二面性を考えることができるわけです。

ですから主イエスがモーセとエリヤとの間で話し合っていたことは、単なる主イエスの死の話ではない。終わりの話ではない。死や終わりの話はもちろんですけれども、死の先の復活の話も、始まりの話もしていたのでしょう。主イエスがどう死を乗り越えてくださるのか、三人の間でその話がなされていたのであります。

三人がどのような様子で話をしていたのか。三人の弟子たちはその横でどのような様子でいたのか。いろいろな想像が膨らんでくるかもしれません。この場面をめぐって、優れた絵画がいくつも生み出されてきました。最も有名な絵画は、ラファエロという人によって描かれた「キリストの変容」という絵画でしょう。ローマのヴァチカンにこの絵があります。縦長の絵で、上半分に本日の聖書箇所の物語が、下半分にこの次の箇所でありますが、山の下での物語にかかわる内容が描かれております。このラファエロの絵のことは、次回の説教のときに話をしようと思っておりますが、ここでは一つのモザイク画を紹介したいと思います。

私と妻がイタリアに旅行をしたことがあります。ローマに始まり、いくつかの町をめぐりましたが、ラヴェンナという町に行きました。この町は旅行のコースからは少し外れたところにあり、効率良く旅をすることを考えるならば、この町に行かなくてもよかったのですが、妻の絵の先生に薦められて行くことになりました。このラヴェンナという町は、モザイク画で有名な町です。モザイク画は色のついた石の破片を組み合わせて、絵を作っていきます。ラヴェンナの町には、五、六世紀頃に建てられた建物がいくつもあります。この町の建物は外側から見ますと、石造りでいかにも簡素な建物という感じがします。しかし中に入りますと、建物の内側はとても見事なモザイク画で装飾をされています。

そのような建物がたくさん残っているラヴェンナの町で、一つの大きな教会を訪ねました。サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂という教会です。町の郊外の草原の中にある教会で、行くのに苦労いたしました。まだ朝一番の時間でありましたので、観光客は誰もおらず、私たちだけで広い礼拝堂の中に入りました。縦長の礼拝堂です。礼拝堂の前方の天上のところに、モザイク画がありました。とても高い天上で、その天上の部分が丸みを帯びたドーム型になっている。

ドームの真ん中のところに十字架のモザイク画が施されていましたけれども、私がとても興味を持ったのは、その上のところです。つまりドームのてっぺんのところに、上から下に向かって差し出された手が描かれていました。天を突き破るかのようにして、手が差し出されている。神の手であることはすぐに分かりました。その左右に、二人の人物が描かれていました。その二人こそが、実はモーセとエリヤだったわけですけれども、ガイドブックにもそのような解説がありませんでしたので、そのことが分かったのは後になってからのことでした。

モーセとエリヤの姿は描かれているけれども、キリストのお姿が描かれていない。聖書の物語そのものを描かずに、キリストの代わりに天を突き破るようにして神の手を描く。その教会堂は六世紀に建てられたそうですが、その礼拝堂で礼拝をしていた信仰者はどんな思いでそのモザイク画を観て、礼拝をしていたことだろうと思います。本日の聖書の物語を、天を突き抜けるかの思いで聴くことができる、そのような信仰に生かされていたのだと思います。モーセとエリヤはいわば、天国の住人のような人物です。そして父なる神の声も聞こえてくる。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」(三五節)。父なる神のそのような声さえも天から聞こえてきます。

この物語は天と地が結び合わされた出来事であります。天と地の壁が取り払われた。死の壁が取り払われてその先に進むことができるようになったように、天と地を隔てていた壁も取り払われたのです。もし死で終わってしまうならば、終着駅が墓場であるならば、地上だけの話で終わってしまいます。天と地の結びつきなど考える余地もない。そうではなくて、主イエスが死の壁が取り払われ、天と結びつくことができるようになった。神がそうしてくださったのです。神の御手が天から突き抜けて、地上に見える形で現れている。このクラッセ聖堂の上から突き出された手は、そのことを表しています。

ある人が、この聖書の物語をめぐって、とても興味深いことを言っています。エリヤとモーセは雲の中に包まれて消えてしまった。いわばまた天国に戻ってしまった。イエス・キリストにもその権利はあった。何しろ、主イエスは神の子です。地に属するよりも、天に属する方が相応しい。だからその権利はあった。しかしキリストはここに留まってくださった。地上に留まって、ご自分が死ぬことを選びとってくださったのだ。その人はこのように言っています。

この人が言うように、もしキリストがこのとき消えていなくなってしまったならば、ペトロが言うように、仮小屋が建てられていただろうと思います。イエスというお方がこの山の上でモーセとエリヤと語り合った。そして栄光に輝き、天に挙げられた。そのような記念碑のようなものが建てられていたことでしょう。それはそれで一つの宗教として成り立っていたかもしれません。イエスというお方は力ある方だった。病を癒し、悪霊を追い出し、死者までも生き返らせた。それだけではない。倫理道徳に関する優れた教えを教えた。さあ、私たちもイエスというお方に倣って生きていきましょう。そんな宗教としてなら、成り立っていたかもしれません。

しかしそのような宗教はたちまち消えてなくなっていたでしょう。何しろこの宗教には死を乗り越える力がない。せいぜいこの地上をどう生きるかということだけであって、あくまでも終着駅は墓場になってしまう。死の壁も取り払われない。天と地の壁も隔たったまま。それだけで終わってしまったことだろうと思います。

けれども主イエスはその道を選ばれなかった。いなくならなかった。モーセとエリヤはいなくなってしまいました。モーセとエリヤは旧約聖書を代表するような二人の人物ですが、旧約聖書が不要というわけではない。むしろ、モーセとエリヤが成し遂げることができなかったことを主イエスが引き受けてくださる。すべてが主イエスに託されて、モーセとエリヤは姿を消すのであります。他に必要なものは何一つない、救いのために必要なただ一人のお方が、この地上に踏みとどまってくださったのであります。

ルカによる福音書第九章を境にして、主イエスの十字架がますます色濃くなってきます。三一節には「エルサレム」という言葉も出てきます。これから主イエスはエルサレムに向かって旅を続けられます。死ぬためにです。そして死を突き抜けて生きるためにです。天地をつなぐ出来事を成し遂げてくださる。私たちはその後に従う者たちです。主イエスの後について行けばよい。そのようにして私たちは、主イエスが取り除いてくださった死の壁を踏み越えて、その先に進んでいくことができるようになります。主イエスが切り開いてくださった道です。その道は、死を乗り越えて、新たな命に生きることができる道なのであります。