松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年7月31日(日)
説教題「自分の十字架を背負って」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第9章21節〜27節

 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

旧約聖書: 申命記 第1章29〜33節

先日、教会員の方から、こんな質問を受けました。説教と奨励とはどう違うのか、という質問です。教会では牧師が話をする。日曜日の礼拝ではもちろん説教が語られる。しかし説教という言葉以外にも、奨励という言葉を耳にする。それでは説教と奨励とはどう違うのか、という質問です。

しばしばなされる一つの理解は、牧師が話をすれば説教、信徒が話をすれば奨励、という理解であります。そのような理解を持っている教会もありまして、牧師が何らかの都合によってその日の礼拝を留守にして、信徒が御言葉を語る場合、それを説教ではなくて奨励とする。週報の礼拝の式順の中にも、「説教」ではなく、わざわざ「奨励」と印刷をする。それも一つの理解であるかもしれません。

しかし、私はこの理解では少し不十分ではないかと思っています。奨励は訓読みをしますと「奨め」とも読めます。もう少し丁寧に言うと、祈りの奨めです。松本東教会で水曜日の朝と木曜日の夜に祈りの会を持っていますが、私がそこでする話は奨励です。祈りの奨めになるような話をして、それに促されて祈ることができればよいわけです。

これに対して、説教は聖書の説きあかしです。聖書を通して、今ここで私たちに与えられる神の語りかけを聴く。説教者が牧師であろうと信徒であろうと、それは変わりのないことだと思っています。松本東教会のこどもの教会の礼拝が、この礼拝に先立って行われています。私もふた月に一度くらいは説教をいたしますが、こどもの教会の教師たちが中心になって説教をしています。みんな信徒です。信徒であるから説教ではなくて奨励であるのかと言いますと、もちろんそんなことはありません。説教は説教なのであります。

奨励では祈りの奨めの話になれば、ある意味では自由に語ることが許されるのかもしれませんが、説教ではそういうわけにはいきません。説教は聖書の説きあかしでありますから、まずは聖書が何を語っているのか、そのことを聴きとらなければなりません。このことは説教者にとって、極めて大切なことであります。

先週の週の前半、特に私は忙しくしておりまして、ほとんど出掛けることになりました。月曜日には、信州説教塾の例会がありました。説教塾は説教者のための説教の勉強会です。全国各地で行われています。信州説教塾もその一つです。いつもは松本で、数名の牧師が集まって学びをしているのですが、先週の月曜日は説教塾の主宰者である加藤常昭先生をお招きしました。東京から来られる講師に配慮をして、甲府方面から長野県に入ってすぐのところにあります富士見高原教会を会場にして行われました。

加藤常昭先生をお招きしたので、いつもと少し違うことをいたしまして、そこに集う牧師たちがくじを引く。そしてくじに当たった三名が、日曜日に自分が仕えている教会でなされた説教をして、批評を受けました。私は残念ながらそのくじには当たらなかったのですが、それでも他の牧師たちの説教を通して、学ばされることが多くありました。

ある牧師の説教批評の中で、加藤先生が説教の聖書からのずれを指摘されました。説教をするにあたっては当然、聖書の箇所が与えられているわけですから、聖書に基づいて説教がなされなければなりません。しかし、これはどんな牧師であろうと、こどもの教会の教師であろうと、誰にでもある問題ですが、知らず知らずのうちに聖書が言っていることからずれてしまうということが起こります。いわば急所をはずしてしまうのです。たしかに説教にはいろいろな語り口があります。一つの聖書箇所からたくさんのメッセージが聴こえてくるものです。しかしそうだとしても、やはり急所をはずすわけにはいかないのであります。

本日、私たちに与えられた箇所の急所は一体何だろうか、そんな思いにさせられている方も多いと思います。先週の前半、私はいろいろなところに出掛けていたと申しましたが、車の中で、今日の聖書箇所の朗読を音声で聴けるようにして、何度も車の中で繰り返し聴くことになりました。それを何度も聴いていても、やはり主イエスが言われている言葉の意味がよく分からない。急所は一体何だろうかと問い続けてまいりました。この主イエスの言葉を聴かされた弟子たちもまた、その意味がよく分からなかっただろうと思います。弟子たちも急所をつかみ損なっていたのです。

この箇所は、ほとんどが主イエスの言葉ですが、主イエスの言葉が二つに分けられています。前半は「人の子は」(二二節)という言葉で始まります。「人の子」とは主イエスがご自分のことを指して使われる言葉です。つまり前半は主イエスご自身のことが言われています。後半は「わたしについて来たい者は」(二三節)という言葉で始まります。主イエスに従う弟子たちのこと、この説教で神からの語りかけを聴いている私たちにかかわることが、後半のところで言われています。

前半の部分は後でもう少し詳しく考えていくことにしますが、主イエスがこの前半の箇所で言われているのは、ご自分がどのようにして死んで、どのようにして死を乗り越えていくのかということです。どのように死と生の問題に向き合っていくか、このことをまずご自分のこととして語られます。

後半の部分は私たちにかかわることですが、やはり私たちの死と生の問題が語られています。「十字架を背負って」(二三節)という言葉がありますが、十字架を背負ってどのように生きるかということが言われている。命を救うということや、命を失うということも言われている。身を滅ぼす、身を失うということも言われている。最後のところには「決して死なない者がいる」(二七節)という言葉があるくらいです。いずれもが死と生にかかわることです。

つまり、後半の部分も前半の部分と同じく、やはり死と生のことが言われている。主イエスの死と生の問題が、私たちの死と生の問題にかかわって来るのです。この聖書箇所の急所は何だろうということを考えてまいりましたが、やはりここでの急所は、死と生の問題なのであります。どう死ぬのか、そしてどう死を乗り越えて生きるのかということです。

先週、私たちに与えられた箇所は、この一つ前の箇所になります。ここでは主イエスの弟子の一人であるペトロが信仰を言い表しています。主イエスから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(九・二〇)と問われます。ペトロがそれに対して「神からのメシアです。」(九・二〇)と答える。メシアとは救い主のことですが、人間が初めて口にすることができた信仰告白でありました。ルカによる福音書の最初から丁寧に読んでいきますと、主イエスがメシアであると理解していたのは、天使と悪霊だけでした。初めてペトロがこのように口にすることができたのです。

今までに誰も知らなかったこのことを、主イエスは誰にも話してはいけないと言われます。無理もありません。ペトロをはじめとして弟子たちは信仰告白ができたわけですが、実はこのとき、まだ本当に理解していたわけではなかったからです。

この信仰告白の直後に、主イエスが今日の言葉を言われているのです。あなたたちは私のことをメシアだ、救い主だと言うかもしれない。しかし私は「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(二二節)と言われます。私は死ぬのだ、あなたたちのために死ぬのだと言われる。そして復活をするのだ。そういうメシアなのだ、と言われるのです。

弟子たちにとっては思ってもみなかった救い主のお姿だったでしょう。弟子たちは自分たちを救ってくれる救い主のお姿を、それぞれに思い描いていたと思います。その理由のために、主イエスについて来ていた弟子たちもいたはずです。受け入れ難いことだと思った弟子たちもいたかもしれない。メシアならばこうであるべきだという思いを抱いていた弟子たちがここにはいました。ところが、主イエスは思いもよらないことを言われる。あなたたちが考えているようなメシアではない。そんなことのためのメシアではないと主イエスは言われる。主イエスは全世界を手に入れるためのメシアなのではないのです。全世界とは言わないまでも、地上を上手に歩むための手助けをしてくれるメシアなのではないのです。

多かれ少なかれ、私たちが直面するのは死の問題です。どう死を迎えたらよいのか。死と向き合いながらどう生きるかという問題です。ある哲学者は「人間は死に向かって投げ出された存在である」とまで言っています。たしかに死から免れることができる人は誰もいません。私たちは生まれ、そして死ぬ。この二つの点に挟まれていない人は誰もいません。二つの点の間は、多少、私たちの思い通りにできることもあるかもしれませんが、二つの点に挟まれていることからは自由にはなれません。

主イエスがメシアとして力を振るってくださるのはまさにここにおいてなのです。全世界を手に入れるなどという問題に対しては、残念かもしれませんが、私たちの救い主にはなってくださらない。そうではなくて、私たちの誰もが直面することになる、死と生の問題に対する救い主になってくださる。主イエスご自身がこの問題を引き受けてくださるのであります。

主イエスがご自分のことを指して「人の子」と言われていたことを、先ほど申し上げました。人の子という言葉は旧約聖書にたくさん出て来ます。特に詩編の中にたくさん出て来ます。なんでもないような呼び方です。特に神に対する称号というわけではありません。むしろ人間一般に対して使われる言葉です。なぜ主イエスが好んでこの呼び方を用いられたのか、それはよく分かりません。よくは分からないのですが、主イエスが人の子になった、本当の人間になったということを、私たちは忘れるわけにはいきません。

そのことを私たちはどこか当然だと思っているかもしれませんが、神が人になってくださったのです。私たちと同じ人間に、同じ肉体をまとわれ、そして同じ死を味わうものとなってくださった。このことの意味は極めて大きい。神が人となったということは、聖書全体の急所です。神が人となった、肉体をとられたからには、死ななければならない。主イエスは生まれた瞬間から死に投げ出された存在でもあるのです。死ぬために、それも十字架での死を味わわれるために、主イエスが「人の子」になってくださったのであります。

主イエスは死を経験せざるを得ない私たちのために、人となってくださいました。神が私たちを死から救ってくださるために、神が何もされないというわけではないのです。神が人とならずに、言い換えますと死を味わわれずに、私たちを死から救いだしてくださるのではなく、もっと積極的にです。神が人となって、死を引き受けてくださるのです。私たちに先立って進み行かれ、ご自分の死に方、そして生き方を示してくださいました。私たちはこの主に従う者です。主に従う者として、私たちの死に方、生き方を変えてくださるのです。死を乗り越えて生きる力を与えてくださるのです。

ですから、私たちも主イエスの十字架と無関係に生きることはできません。それどころか、自分の十字架を背負えと主イエスは言われる。もちろん、主イエスが背負ってくださった十字架と、私たちの十字架はイコールではありません。主イエスは私たちが背負わなければならなかった十字架のすべてを背負ってくださり、死んでくださった。到底、私たちに背負い切れるものではありません。この十字架ではなくて、私たちそれぞれの十字架を背負えと言われる。救い主、メシアがあなたのために十字架を背負ってくださったのに、それでもあなたは主イエスの十字架と無関係に生きることができますか、と問われているのです。

ペトロはこのとき信仰を言い表すことができましたけれども、十字架を背負っての歩みをその後、きちんとできたというわけではありませんでした。主イエスが十字架にお架かりになるとき、メシアとしての十字架を背負おうとされているとき、ペトロは自分の十字架を捨ててしまいました。主イエスのことを知らないと言ってしまった。自分と十字架を背負おうとしているこの人とは何の関係もないと言ってしまったのです。十字架を背負われる主イエスを恥じてしまった。自分の十字架を背負うことを恥じて、十字架を捨ててしまったのであります。

ペトロがこのとき十字架を背負い続けていたら、主イエスと一緒に死ななければならなかったかもしれません。殉教をしなければならなかったかもしれないのです。十字架を背負うことが殉教することであるとしばしば言われることがあります。しかも「わたしのために命を失う者」(二四節)とまで主イエスは言われているわけですから、そのことを考えないわけにはいかないのかもしれません。

ルカによる福音書が読まれた最初の読者たちは、殉教の危機にさらされていた時代の人たちでありました。その者たちにとっては、日々、主イエスのために死ななければならない生き方をすることは、切迫した問題でありました。しかし、私たちはどうでしょうか。時代も違いますし、時代が同じだとしても、よほどの忍耐力や精神力がなければ殉教などできないかもしれません。それでは一体どういうことになるのか。殉教できるような立派な信仰者になれと主イエスは言われているのでしょうか。

主イエスの言葉にもう一度、注目してみますと、主イエスは「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(二三節)と言われています。十字架を背負うということは、殉教をしなければならないようなときにも問われることですが、殉教をする際に、一回限り問われることではないのです。日々、問われていることです。ある説教者がこのように言っています。「日々、十字架を背負うとは、毎日が殉教するようなものだ」。

殉教とは激しい言葉かもしれませんが、ある意味では、日々、私たちがしていることでもあるのです。メシアである主イエスとのかかわりを持つ歩みをする。そうすると、私たちの今日の日が変わって来るのです。私たちに与えられた一日一日が変わって来る。日々の歩みが変わって来るのであります。今までの古い歩みや考えから新しくなる。そういう歩みが十字架を背負った歩みであり、日々、私たちは古い自分に死んでいる、いわば殉教しているようなものなのです。

そのような日々の歩みの中で、私たちの死に対する考え方までもが変わってきます。主イエスは今日の聖書箇所の最後のところで、こう言われています。「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」(二七節)。主イエスが確かだと言われることは、神の国は死ぬ前にも見ることができるということです。

それでは一体どこで見ることができるのか。私たちが神の国を見たければ、どこに行けばよいのか。先に答えを言いますと、神の国は教会の中で見られるのです。今日の教会の中で見られるのです。教会は本当によいところだと思います。私がよいと言っているのは、良い人が多いだとか、雰囲気が良いだとか、そのようなことではありません。そのようなことでしたら、もしかすると教会以外のコミュニティーにも見られるかもしれません。

そのようなことではなくて、教会では神の言葉が語られ、それが聴かれています。神の国の姿がそこには映し出されています。聖餐の食卓は神の国での食卓です。悲しみの中にある者の傍らには誰かがいます。同じ信仰に生かされている者が、共に神に祈っているのです。この交わりにも神の国が見られます。主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にある。」(一七・二一)と言われました。私たちの間に、この教会に神の国がすでに存在しているのであります。

教会は主イエスを救い主と信じる者たちによって建てられていきます。主イエスの十字架での死と、三日目に復活されたことによって、生かされている信仰者たちがここにはいます。もはやそれ以前の古い自分ではなく、新しい人として生かされています。死を乗り越えることができる力がこのお方にはあるからです。その力をいただいて、自分たちもまた、十字架にお架かりになった主イエスとは無関係に生きることはしない。自分を救ってくださった方のために、日々を生きる。そのような新しい生き方に生かされている者たちが、ここにいるのであります。神の国がここにあるのです。主イエスの十字架の死と復活によって、すべてが変えられます。私たちも、この世界も、教会も、すべてが救い主である主イエス・キリストによって新たに変えられているのであります。