松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年7月17日(日)
説教題「尽きない命の糧」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第9章10節〜17節

 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

旧約聖書: 列王記下 第4章42〜44節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)

「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

「二匹の魚とパンのモザイク」パンと魚の教会
ガリラヤ湖の北西岸、イスラエル

主イエスが五千人に食べ物を与える。この奇跡の物語は、人々に大変大きなインパクトを与えることになりました。多くの人がこの奇跡に驚き、そして喜んでこの奇跡を語り伝えていくことになったのです。この出来事を直接経験した弟子たちもこの物語を一生懸命語ったでしょうし、教会の人たちも喜んで耳を傾け、そして今度は自分も語り伝えていったのだと思います。

この奇跡の物語は、四つの福音書すべてに記されております。松本東教会ではルカによる福音書から御言葉を聴き続けておりますが、この物語が記されているのは、ルカによる福音書だけではない。マタイによる福音書も、マルコによる福音書も、ヨハネによる福音書も、四つの福音書すべてに記録されているのです。四つの福音書すべてに記されている物語は、実はそう多くはありません。主イエスの十字架の出来事はもちろんすべての福音書に記されておりますが、それ以外には数えるほどしかありません。その数少ない物語が、本日与えられました五千人に食べ物を与える物語であります。

私が神学生時代の頃でありますが、五千人に食べ物を与える聖書の箇所から説教したことがあります。実を言いますと、ルカによる福音書以外の福音書、マタイによる福音書でも、マルコによる福音書でも、ヨハネによる福音書でも説教をいたしました。同じ物語でありますから、同じ説教になるのかとも思いましたけれども、説教の準備をして、いざ語ってみますと、それぞれ違う説教になりました。もちろんそれぞれの福音書が伝えている物語の大枠は同じでありますが、強調点がそれぞれ違う。それぞれに違うメッセージを聴きとることができるのです。

例えばマルコによる福音書では、主イエスのもとに押し寄せてきた大勢の群衆のことを、「飼い主のいない羊」(マルコ六・三四)と表現しています。主イエスはその羊たちを深く憐れんでくださり、いろいろとお世話をしてくださった。そして食べ物を与えるときに、その群衆たちを「青草の上」(マルコ六・三九)に座らせるようにお命じになりました。つまりマルコによる福音書では、主イエスが羊の大牧者であり、私たち羊を青草の上に座らせてくださり、養ってくださるというメッセージが色濃く出ていることになります。

それではルカによる福音書ではどうでしょうか。マルコによる福音書のようなメッセージをもちろん聴きとることもできるでしょう。主イエスが私たちの羊飼いとなってくださり、養ってくださる。しかしマルコによる福音書のような表現は用いられていませんから、この福音書を記したルカとしては、違うところの強調点を置いたのだと思います。それでは、ルカによる福音書からどのようなメッセージを聴きとることができるのでしょうか。

先週、私たちに与えられた聖書の箇所は、この一つ前の箇所でありました。領主であったヘロデが戸惑っている出来事が記されています。ヘロデは何に戸惑っていたのかと言いますと、自分の治めている領内の人々が、主イエスに対する様々な評価をしていることを聞いて、戸惑っていたのです。「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(九・七)と言う人がいれば、別の人は「エリヤが現れたのだ」(九・八)と言っている。さらに別の人は「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」(九・八)と言っている。「イエスとは誰か」という問いに対して、様々な評価があり、ヘロデ自身も評価しかねて、戸惑っているのであります。

それに対して、来週、私たちに与えられようとしている箇所では、同じことが問題になっています。五千人に食べ物を与える箇所の次の箇所でありますが、この箇所では、まず主イエスが弟子たちにお尋ねになっています。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか。」(九・一八)。この問いに対して弟子たちは、ヨハネだとか、エリヤだとか、だれか昔の預言者だと人々は評価していると答えています。主イエスは続けてお尋ねになります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(九・二〇)。ペトロが弟子の代表として答えます。「神からのメシアです。」(九・二〇)。

人々はいろいろな評価をしているかもしれませんが、ペトロはこのとき初めて、主イエスとは誰かという問いに、正しく導かれて答えることができた。しかもこれは信仰告白の言葉です。あなたが私の救い主だとペトロは答えることができたのであります。ペトロは主イエスの弟子として、主イエスと行動を共にして、いろいろな出来事を見て、いろいろな話を聴いてきましたけれども、最後のひと押しをしてくれたのが、この出来事であります。五千人に食べ物を与える奇跡の出来事が最後のひと押しとなって、「ああ、あなたこそメシア、救い主です」と告白することができたのであります。このことこそ、ルカによる福音書が強調しているメッセージであります。

ペトロをはじめとする弟子たちは、このとき伝道旅行から帰って来たところでありました。第九章のはじめのところを見ますと、主イエスが十二人の弟子たちを伝道の旅へと派遣されています。宿をとるときの心構えのことも話されていますから、一日、二日程度の旅だったのではないでしょう。数週間にも及んだ旅だったのかもしれません。

一〇節の冒頭のところに「使徒たち」とありますが、これは「遣わされた者たち」という意味です。その遣わされた者たちが、無事に旅を終えて帰って来た。そして主イエスに報告をしている。あの町では何人の人が神の国の福音を信じただとか、この村では何人の癒しがなされただとか、何よりも、自分たちは何も持って行くなと言われて遣わされたけれども、こうして無事に帰って来ることができましたという報告をしているのであります。

弟子たちは疲れを覚えていました。それは当然のことであります。主イエスもそのことに配慮をしてくださったようで、弟子たちに休息をとらせるため、ベトサイダという町に退かれました。ところが群衆はそれを許してくれなかった。弟子たちも伝道旅行の間に、懸命に主イエスのことを伝えたのでしょう。どうしても主イエスにお会いしたいと思う人がたくさん出てきたのだと思います。実際に主イエスのところに押し寄せてきた。弟子たちにとっては、やれやれと思わされたことでしょう。せっかくの休みが台無しになってしまう。主イエスも主イエスで、この人々を迎え入れて、相手をされている。一体いつ終わることかと弟子たちは主イエスの横で待っていたのであります。

そうこうしているうちに、日が傾いてきます。弟子たちは一つの提案を主イエスにします。「群衆を解散させてください。」(一二節)。本気で食事の心配をした弟子がいたのかもしれません。あるいは、もう夕方なのだからそろそろいいでしょう。私たちももう疲れているのですから。そのような群衆を解散させるに都合のいい理由を思いついて、提案をしたのかもしれません。

ところが主イエスはこの提案には乗ってくれません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(一三節)と言われるのです。主イエスのこの言葉の後の聖書の記述を見ますと、ずいぶんとたくさんの数字が出てきます。弟子たちが答えているのは、自分たちが持っている食糧はパン五つと魚二匹だけだということ。ここには男だけで五千人もいる。

その後にも数字は続きますが、ずいぶんたくさんの数字が挙げられています。このとき、ずいぶんと弟子たちは現実的にものを考えていたのです。私たちが持っているのはパン五つと魚二匹。主イエスと十二人の弟子たちで合計十三人。そのほかにも一緒に行動していた者もいたと思いますが、わずか十三人でさえもパン五つと魚二匹では足りないだろう。

自分たちの食べものさえもどこからか調達しなければならない状態なのに、食べさせなければならない相手をざっと数えてみると男だけで五千人。女性やこどもも入れれば一万人は越えたかもしれません。私たちの持っているこれっぽっちの食糧で、この群衆を食べさせるのはとても無理です。いくらあなたのご命令といえども、それは無理な話ですと、弟子たちは現実的に考えて、そう言ったのでしょう。

私たちも弟子たちの気持ちが分からないでもない。何事をするにせよ、私たちは自分と相手を比較します。自分の持っているものと、与えなければならない相手のことを比べてみます。自分の力量となすべき務めを比較します。比較してみて、ああ、これはできそうだとか、ああ、これはとてもできそうにない、ということを判断します。

このような判断をすることはもちろん必要なことでありますが、しばしば私たちはこのような判断を、神のご命令にまでも適用しようとします。神がこれを行えと命じておられる、そうしなければならないと分かっているのに、自分と相手を比較して、ああ、これはとてもできないと思ってしまう。自分の力には余りあると思ってしまう。その上、ここでの弟子たちと同じように、神に文句を言ってしまう。私たちにはパン五つと魚二匹しかない。しかも相手は五千人以上。伝道の旅で疲れているのに、食べ物を買いに行けと言われるのですか。そんなことはとても無理です、と呟いてしまうのであります。

私がとても不思議だと思うのは、弟子たちは何も持たずに伝道旅行に行ったはずなのに、なおもつぶやき続けているということです。何も持って行くなと主イエスは言われました。大丈夫かしらと弟子たちは思ったはずです。しかし実際には大丈夫だった。すべてが備えられた。弟子たちはその報告までしているのです。何にもなくても神の恵みが満ち足りたはずではなかったのか。そのことを、身をもって体験したのではなかったのか。

ところが弟子たちはすぐに忘れてしまう。弟子たちがここでしているのは、現実的な計算です。神なしで、できるかできないかを判断してしまう。あなたはそうおっしゃいますが、それは私たちにはとても無理な話ですと考えてしまうのであります。つまり、弟子たちのこのときの状態では、とても「あなたは神からのメシアです」、などと答えることができる状態にはなかったのであります。

五千人に食べ物を与えるという奇跡は、一体誰のために主イエスが起こしてくださった奇跡なのでしょうか。一つの答えは群衆のための奇跡です。弟子たちもお腹を空かせていたかもしれませんが、群衆もそうだったでしょう。五千人以上の人々が食べて満腹することができました。群衆の胃袋を満たすための奇跡であるというのも一つの理解であり、一つの答えかもしれません。しかしルカによる福音書の文脈から言いますと、この奇跡は他の誰でもない、弟子たちのための奇跡でありました。もっと言うならば、主イエスをメシアであると告白しようとしている、すべての者たちのための奇跡であります。

奇跡という言葉は英語で言いますと、二通りの言葉を当てはめることができます。一つはミラクル(miracle)です。もう一つはと言いますと、サイン(sign)であります。日本語でサインと言いますと、書類に自分の名前を署名したり、スポーツなどの作戦を実行するときのサインなどが考えられますが、英語の辞書でサインという言葉を調べてみますと、奇跡という訳がきちんと載っております。

よくよく考えてみますと、サインというのは、それ自体が重要なのではありません。署名をするにしても、自分の名前を書くこと自体が重要なのではなく、私はそのことに同意をしたということの方が重要になってきます。スポーツの世界でもサインを出すこと自体が重要なのではなく、サイン通りに実際の作戦が実行されることの方が重要です。奇跡もこれと同様に考えることができます。奇跡それ自体が重要なのではない。奇跡によって知らされることがある。そのことの方がより重要になってくるのであります。

主イエスは今までにもたくさんの奇跡をなして下さいました。ナインという町では、やもめの一人息子が死んで葬儀が行われていました。主イエスはそのやもめを見て憐れに思ってくださり、葬列を止めて、一人息子を甦らせてくださいました。このときも奇跡それ自体が重要なのではなく、このお方には死に打ち勝つ力があることを知ることができた。そのことの方が重要なのです。

悪霊を追い出す奇跡を、主イエスは何度も行ってくださいました。この奇跡によって、このお方には悪霊に打ち勝つ力があるのだということを知る。湖の上で嵐にあったときも、主イエスが風や波を静めてくださった。この奇跡もそれ自体が重要なのではなく、このお方は風や波をも従わせることができることを、奇跡によって知らされたのであります。すべての奇跡がサインなのです。主イエスにどのような力があるのか、主イエスがどのようなお方であるのか、そのことが奇跡によって示されるのです。

聖書に記されている奇跡の物語を、ときどき引き下げるような解釈に出会うことがあります。奇跡だなんて信じられない、どうにかして合理的に解釈したい、そんな思いから、奇跡を奇跡としない解釈も出てくるのです。たとえば、ナインのやもめの一人息子を甦らせる奇跡。実はやめもの息子は死んだのではなくて、主イエスが「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と大声で言われて、その声にびっくりして起き上がったのだという解釈がなされることがあります。

湖で風や波を静める奇跡もそうです。ガリラヤ湖は気象の変動が激しいところでありました。突然、突風が吹いて嵐になることもあれば、突然それが止んで、嵐がうそのようにぴたりと静まることもあった。主イエスが風と波をお叱りになったときに、ちょうどタイミングよく嵐が静まったのだという解釈がなされることもあるのです。

五千人に食べ物を与える奇跡もそうです。弟子たちは食べ物の心配をしていましたけれども、実は五千人のうち、多くの人たちは食べ物をきちんと持って来ていた。ところが食べるタイミングもなかったし、お腹が空いたと思って、うっかり食べ物を出して食べてみようものなら、食べ物を持って来なかった隣の人に分けなくてはならない。あとで自分だけでこっそりと食べようと思って出さなかった。しかし主イエスや弟子たちが食べ物を分け合っているのを見て、自分たちも恥じ入って食べ物を差し出した。こう考えた場合、この奇跡は奇跡でなくなってしまいます。

奇跡が奇跡でなくなる以上に、主イエスに対する評価も、もっと違った評価になってしまうと思います。食べ物を差し出すのを躊躇していた人たちの心を入れ替えさせ、分け合うことを学ばせた。あなたは優れた道徳の教師ですね、という評価になっていたと思います。少なくとも、ペトロがするに至った評価、「あなたは神からのメシアです」などという言葉は出て来ることはなかったと思います。私たちが驚くべきような奇跡であったからこそ、ペトロはこの信仰告白に至ることができたのであります。

この奇跡は、弟子たちを最大限用いる形で、主イエスは行ってくださったのであります。主イエスは弟子たちに命じて、五十人ぐらいずつ組にして、群衆を座らせます。おそらく食事をするのに最適な人数配分だったのでしょう。弟子たちに組分けをさせます。そしてパン五つと魚二匹を祝福した後に、これも弟子たちにパンと魚を配らせます。食事が終わった後に、パンの屑を集めたのも弟子たちであります。多くの人が想像しておりますように、十二人の弟子たちが一人一籠ずつ持って集めたから十二の籠になったのだと思います。

これほど積極的に弟子たちがかかわらせていただいた奇跡は、今までにはありませんでした。弟子たちはこの奇跡のために自分たちが用いられて、実感したはずです。ああ、このお方こそメシア、私たちの救い主だ。パンの屑を集めながら、この方こそ救い主だと感じ取っていたのです。弟子たちが抱えていた籠は、恵みの重みでどんどんと重くなっていったのだと思います。

私たちも恵みを数えさせていただくことができます。実は私が礼拝中こっそりと行っていることが一つあります。それは今日の礼拝には何名の方がいらしているのか、こっそりと礼拝中に数えております。もちろん、受付の記名用紙をもとに、正確な人数はあとで集計することになりますが、だいたいの人数は礼拝中に数えています。今日は何人くらいがお見えになった、そのことを神によって与えられた恵みとして数えているわけです。毎月の長老会の報告でも、毎年の教会総会の報告でも、そのことを恵みとして数えているわけです。

もちろん、恵みとして数えることができるのは、人数だけではありません。教会の中でこんな出来事があった、自分の身近であんなこともあった。それらのことを恵みの出来事として数える。しかも五つのパンと二匹の魚という、取るに足らないようなものにしか持ち合わせていなかった私たちに、奇跡によって大きな恵みを与えてくださり、その溢れるほどの恵みを数えさせていただける。恵みの重みを実感していく。

その恵みを数えながら、ああ、この方こそ、救い主だ。あなたこそ、神からのメシアですという信仰告白に導かれる。主イエスは様々な奇跡を行ってくださいます。このお方は死に打ち勝ち、悪霊に打ち勝ち、罪までも赦してくださいます。風や波も従わせることもお出来になります。そして今このときも、私たちのほんの小さなものを、豊かに用いてくださる。あなたこそ私の救い主、この信仰告白へと私たちも導かれるのであります。