松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年6月19日(日)
説教題「触れることのできる神」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第8章40節〜56節

 イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

旧約聖書: 列王記下 第4章32〜37節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
出血の止まらない女を癒すキリスト (Jesus healing the woman with a flow of blood ) / パオロ・ヴェロネーゼ (Paolo Veronese)

出血の止まらない女を癒すキリスト (Jesus healing the woman with a flow of blood ) / パオロ・ヴェロネーゼ (Paolo Veronese)
美術史博物館 蔵 (Kunsthistorisches Museum)
(ウィーン/オーストリア)
(Wien , Republik Österreich )

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本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、二つの物語が記されております。小見出しにありますように「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」、この二つの物語から成ります。しかも、一つの物語の間に、もう一つの物語が挟まれている。サンドイッチのような構造になっております。

聖書は最初から、ルカによる福音書というように、一つのまとまった文書であったわけではありません。ルカによる福音書などの聖書が書かれたのは、主イエスの十字架と復活の出来事が起こってから、数十年後であると言われております。主イエスが天に挙げられた後、弟子たちが使徒たちと呼ばれるようになり、福音を宣べ伝えることになりました。最初は主イエスの出来事を直接、知っている者たちが多かったわけですから、聖書の文書がなくてもよかったのだと思います。主イエスの話を聴きたければ、直接、その者たちから聴けばよいわけです。つまり最初は書かれた文書ではなく、口で伝えられたのです。

やがて、伝道者の第一世代が召されていきます。主イエスを直接、知っている者が少なくなった。そこで、多くの文書が書かれることになりました。もちろん、最初から聖書を書こうとその人たちが思っていたわけではありません。主イエスのことをどうしても伝えたいと思った人たちが筆を執り、やがて聖書として成立をしていくことになりました。

聖書という文書の形になりますと、物語をどういう順番で書き記すかということが問題になってきます。しかし口で伝えられる場合、もちろん物語の順番も考えられたと思いますが、やはり物語を語る者は、物語単位で語ることが多かったと思います。

例えば、種を蒔く人の譬え、この譬え話が一つのまとまりを持っていますから、主イエスがあるときこんな譬え話をお語りになられましたよ、という形で伝えたのだと思います。主イエスが湖で嵐を静める話、主イエスが五千人もの人を五つのパンと二匹の魚でお腹いっぱいにする物語、そのような物語も、物語単位で語られたと思います。

本日、与えられた聖書箇所は二つの物語から成ります。そうしますと、二つの物語が最初は別々に語られて、そしてあるとき一つに編集されたのか、そう考えることもできるかもしれませんが、この物語は最初のときから、二つが一つであったと言われています。口で伝えられていた最初のときから、この二つの物語は二つで一つであった。サンドイッチであったというわけです。それだけに、この二つの物語は、切っても決して切り離すことができない要素があるということになります。

説教者によっては、もしかしたらこの箇所で二回にわたって説教をされる方もあるかもしれません。しかしたとえそうであったとしても、やはり私たちはこの物語が二つで一つということを大切にしたいと思います。サンドイッチはパンと具を一緒に味わって美味しく食べられるものです。せっかくのサンドイッチを、わざわざパンをはがして、パンと具を別々に食べる人はいないでしょう。二つで一つである物語を、味わってまいりたいと思います。

先ほど、聖書朗読もいたしましたし、改めてこの物語がどんな物語だったのか、説明し直すことはいたしません。物語としては明快だと思います。二つの物語の共通点を見出すこともできるでしょう。

まず一つ、すぐに発見することができる共通点は、十二という数字です。ヤイロの一人娘の年齢は「十二歳くらい」(四二節)、そして出血が止まらない女も「十二年」(四三節)、その病に苦しんでいたと記されています。十二という数字に、いろいろな意味を読み込むこともできるかもしれません。主イエスに最も近い弟子たちは十二人でありました。イスラエルの部族の数も十二でありました。一つのまとまりをもった数字であると言えるかもしれません。

ヤイロの娘も十二歳まで育った。今の私たちの感覚からすると少し早すぎますけれども、当時の社会ではもう嫁に出すことができるくらいの年齢でありました。ヤイロにとってもここまで育て上げることができた、そんな年齢でありました。逆に出血の止まらない女は十二年も苦しんでいた。一つのまとまりをもった年数の間、もう十分に苦しんでいたということが、十二という数字から分かるかもしれません。

もう一つの共通点は、どちらも主イエスの足もとにひれ伏しているということです。ヤイロは自分の娘の命が危うくなって、湖の岸辺で主イエスが帰って来られるのを今か今かと待っておりましたが、帰ってくるやいなや、舟から降りられるやいなや、主イエスの足もとにひれ伏し、助けを願っている。ヤイロは会堂長です。地位ある人物です。ひれ伏すなどということも少なかったかもしれない。そのヤイロがひれ伏している。

同じひれ伏すという行為を、この女もしています。こっそりと主イエスの服の房に触れる。そうすると直ちに出血が止まりました。しかし主イエスが触れたのは誰かと問われる。この女は隠しきれないと思い、ひれ伏して、事の次第を語ることになった。両者ともこのようして主イエスの足もとにひれ伏しているのであります。

さらに共通点を挙げるとすれば、いずれの癒しも、主イエスと触れることによって癒しがなされています。主イエスに触れる。このことの意味はかなり大きいと思います。

出血が止まらない女は、文字通りそのような状態でありました。当時のイスラエルの社会では、出血のある間は汚れていると考えられていました。旧約聖書のレビ記にこうあります。「もし、何日も出血があるか、あるいはその期間が過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れている。出血の汚れから清くなり、七日間が過ぎたならば、その後は清くなる。」(レビ記一五・二五、二八)。

汚れている間は共同体の中で普通に生活することができませんでした。人と触れ合うと汚れがうつると考えられていたからです。出血のある期間が一定期間だけならばよいのですが、この女の場合は「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」(四三節)でありました。彼女の苦しみがいかに大きかったかということも分かります。そして彼女は、自分から人に触れてはいけないということが分かっていました。だから群衆に紛れて、そっと後ろから主イエスの服の房を触ったのです。誰にも知られないように、こっそりと触って、癒されたのであります。

ヤイロの一人娘もまた主イエスに触れていただくことによって甦らされました。「イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。」(五三節)。今度は主イエスの方から触れてくださいました。けれどもこれもまた、触れてくださったことの意味は大きいのです。

これは祭司に関する規定でありますが、民数記にこうあります。「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。」(民数記一九・一一)。このような規定がありましたから、普通は死者に触れるということはしませんでした。けれども主イエスは触れてくださった。ヤイロの一人娘の場合も、出血の女の場合もそうです。主イエスは触れることによって、汚れに打ち勝って下さったのであります。

いくつかの共通点を挙げました。これらのことを知ると、この二つで一つの物語をより豊かに味わう助けになるかもしれません。しかしサンドイッチのパンと具に共通性があると言ったところで、このサンドイッチを本当に豊かに味わうことにはならないかもしれません。さらに豊かに味わうためには、どうすればよいでしょうか。

聖書の一つの大切な読み方といたしまして、聖書の物語に出てくる登場人物に自分を重ね合わせるという読み方があります。聖書を読んでいると、説教を聴いていると、まるで自分がそこにいるかのような思いにさせられることがあります。聖書の中に出てくる人が、まるで自分だと思わされるのです。ここではヤイロという人物に心を合わせて、この物語をさらに深く味わってみたいと思います。

ヤイロは向こう岸から主イエスが帰って来られるのを待っておりました。自分の一人娘が死にそうになっていた。会堂長でありますから、医者に診てもらうこともできたでしょう。実際にそうしたのだと思います。ところが手の施しようがなかった。一人娘が死につつある。残る望みは主イエスのみでありました。主イエスが帰って来られたのを「群衆は喜んで迎えた」(四〇節)のでありますが、一番喜んだのはヤイロだったと思います。

しかし喜んでばかりはいられません。人をかき分けるようにして、主イエスのところに行き、主イエスの足もとにひれ伏すのです。どうか娘を助けてほしい。自分の家まで来て欲しいと願うのであります。その願いに主イエスが応えられ、主イエスと一緒に自分の家まで行くことになりました。ヤイロにとって、一刻も早く家に帰らなければならなかったでしょう。主イエスよ、さあ早く、という思いでいっぱいだったと思います。

ところが、ヤイロの思いとは裏腹に、群衆が周りに押し寄せて来ました。ヤイロにとって、これはとんでもないことでありました。私の娘が死にそうなのだから、後回しにしてくれという思いもあったに違いない。主イエスも主イエスで「わたしに触れたのはだれか」(四五節)と問うておられる。そんなことはどうでもよいではないか、一刻も早く私の家に来て下さい、そして娘を癒してください、そんな思いを心の内で抱いていたのだと思います。

そこへ、ヤイロの家から人がやって来て告げるのです。「お嬢様は亡くなりました。」(四九節)。ヤイロにとって、これは最も恐れていた言葉であり、最も聞きたくなかった言葉でありましょう。その言葉が現実になってしまった。しかも、ヤイロがこの言葉を聞いたのは、出血が止まらなかった女に対する救いの宣言がなされた瞬間でもありました。四九節を見ますと「イエスがまだ話しておられるとき」(四九節)とあります。何を話しておられたのかと言うと、四八節の言葉です。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(四八節)。主イエスがその言葉を語ったのと同時に、「お嬢様は亡くなりました」という知らせが入ったのであります。

一方には、十二年にもわたる苦しみから解放された大きな喜びがあり、他方には、十二年にもわたり手塩にかけてきた一人娘の死が現実になってしまうという大きな悲しみがある。この二つの物語を同時に味わいますとき、喜びの出来事と悲しみの出来事が同時に起こったことが分かるのであります。

大胆なことを言う人は、ヤイロの娘の物語の間に、出血の女の物語が挟まれていることの意味をこのように言っています。ヤイロの娘を死なせるために、この出血の女の話が必要だったのだ、と。これはかなり大胆な発言でありますけれども、結果的に、そのようになってしまったのは否定することができない事実であります。出血の女とのやり取りがなかったとしたら、一直線に主イエスがヤイロの家に向かっていたら、もしかしたら死なずにすんだかもしれないのです。

二つで一つの物語を味わいますときに、私たちの身の回りにも、このような出来事を見出すことができないでしょうか。一方は生、他方は死。一方は救い、他方は滅び。二つの出来事が同時に起こっている現実を、私たちはよく知っていると思います。

震災が起こって、松本で生活している私たちの心のどこかには、私たちが普段通りの生活を続けていて申し訳ないという思いがあると思います。被災地では復興がままならない。いまだに目処すら立たない。そんな方々がおられる中で、私たちは普段通りに生活できることが恵まれたことだと思う。いやそれ以上に申し訳ないことだと思う。住んでいた場所によって、ずいぶんと事情が変わってくる。一方の側では死に襲われたのに、他方の側では死に襲われることなく、生の状態が続いていく。なぜそんなことになるのか。そんなのは理不尽ではないか。神にそう訴えたくもなります。

ヤイロにとってもこれは同じだったでしょう。救いが語られた瞬間に、自分の娘の死を聞いたのです。主イエスにこう言いたかったでしょう。「理不尽ではありませんか。どうして出血の女などに構っておられたのですか。後回しでもよかったではありませんか。死にそうになっている一人娘を癒してから、この女のところに行けばよかったではありませんか。私の方が急を要します」。

ヤイロの主張としてはそうだったと思いますが、そうはならずに、ヤイロは理不尽を味わうことになりました。ヤイロの絶望する様子を見て、大喜びのこの女も、もしかしたら喜びを隠さなければならなくなったかもしれません。主イエスの左側と右側では、まったくその様子が違ったのであります。

しかし物語は続いていきます。この物語は理不尽である、それだけで終わるならば、物語は四九節で閉じられることになっていたでしょう。しかし五〇節以降に続いていくのです。会堂長の家からの人が告げているのは、一人娘が亡くなったことに合わせて、もう一つのことが告げられています。「この上、先生を煩わすことはありません。」(四九節)。先生とは主イエスのことですが、もう死んでしまったのだから、どうすることもできない。病を癒すことはできても、死者を復活させるのは無理だろう。そんな考えを、この言葉から読み取ることができます。

これは一つの限界設定です。ここまでは可能。けれどもそれ以上は不可能という限界を設定することです。私たちはしばしば神に対しても、この限界を設定してしまうことがあります。神ならここまではできるだろうけれども、これ以上はできないだろう。あるいはして下さらないだろう。その限界を私たちは自分で設定してしまうのです。その最たるものが、震災によって私たちの心に起こった思いだと思います。震災によって、ずいぶんと理不尽なことが起こったものだ。神にも限界があったのか。できることとできないことがあったのか、という思いです。

しかし主イエスは理不尽さを味わっていたヤイロにこう告げるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(五〇節)。ただ信じなさいと言われて、一体何を信じればよいのでしょうか。はっきりとは記されておりませんが、おそらくヤイロが自分の娘を癒してくれると信じて主イエスの足もとにひれ伏したように、このときもなお、私のことを信じなさいということだと思います。最初にヤイロが抱いていたのは病からの救いでありました。しかしヤイロが抱いていた限界を打ち破り、ヤイロの信仰が変えられた。今やヤイロは、死をも打ち破ることができる信仰の持ち主へと変えられようとしていたのであります。

死を乗り越える力。この力こそ、私たちの信仰の根底にかかわることです。この信仰がなければ、聖書のある箇所が告げますように、「あなたがたの信仰は無駄です」(Ⅰコリント一五・一四)とさえ言わなければならない。死を乗り越える力がこのお方にあるということ、それが信仰の最も大切なことです。そしてこの力があれば、すべての理不尽を解消することができるでしょう。実際にこの物語では、その理不尽さが解消されました。ヤイロが抱いていた理不尽は、もはや理不尽ではなくなった。神にはこの力がある。それがこの物語の味わい方、サンドイッチの味わい方であります。

この物語を味わっている皆様にとって、もうお感じになられていると思いますが、この女もヤイロも、私たちが目を見張るような信仰の持ち主ではありませんでした。どこにもそのような信仰を読み取ることができないと思います。女はこっそりと主イエスの衣の房に触っただけです。主イエスの足もとに最初からひれ伏し、私にはこんな事情があり、こんな私を憐れんで下さい。あなたの衣の房にでも触ればたちまち癒されるでしょう、そう確信して、信仰を言い表したわけではありません。

ヤイロもヤイロで、主イエスに死を乗り越えることのできる力があるとは、最初から思っていなかった。「お嬢さんは亡くなりました」との知らせを聞いて、絶望してしまった。再び主イエスの足もとにひれ伏して、死者の中から救ってくださいなどとは言わなかった。この二人の特別な信仰を、どこにも見出すことはできないのです。

しかし主イエスは女に対して、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(四八節)と言われました。ヤイロに対しても「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」(五〇節)と言われました。実際に奇跡を起こしてくださった。本日、私たちに与えられた物語を通して、私たちに改めて示されたことは、信仰は私たちの側にあるのではないということです。私たちにはこんな信仰がありますと、私たちの側から誇ることなどはできません。主イエスが私たちの信仰を見出してくださる。

女に対しては、触れた理由とたちまち癒された次第を話させることになりました。主イエスに促されて、女はそのことを話すに至ったのです。その結果、「あなたの信仰があなたを救った。」(四八節)と言われたのです。絶望していたヤイロに対しても、「ただ信じなさい」(五〇節)と言われただけでした。ヤイロは着いて行くだけだったでしょう。部屋の中にまで入ることが許され、主イエスが娘の手を取り、甦らされるところを見て、ただただ驚くばかりでありました。

私たちもそんな歩みしかできないかもしれない。確信をもって、私たちの側に信仰があるなどと言えるものではありません。しかし、主イエスと触れ合うほどのかかわりを持つ中で、主イエスの方から、私たちの中にある信仰を見出してくださる。私たちの信仰とは、そうなのであります。

神は私たちが抱くようなあらゆる理不尽を乗り越えさせてくださいます。不信仰な私たちであったかもしれない。限界を設定してしまう私たちであったかもしれない。しかしすべてを神が神主導でなしてくださる。私たちの不信仰を、私たちの設定した限界を打破してくださり、死をも乗り越えさせてくださり、私たちを信仰者に変えてくださる。これが、この二つで一つの物語の味わい方であります。