松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年5月8日(日)
説教題「神の国の話を聞こう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第8章4節〜15節

 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

旧約聖書: エレミア書 第17章5〜8節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
マグダラのマリア(Mary Magdalene) / ヤン・ファン・シュコーレル (Jan van Scorel)

種まく人 (The Sower) / ジャン=フランソワ・ミレー (Jean-François Millet)
ボストン美術館 蔵 (Museum of Fine Arts, Boston)
(ボストン/アメリカ合衆国)
(Boston , United States of America )

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主イエスはたくさんの譬え話を語られました。私たちが御言葉を聴いておりますルカによる福音書でも、たくさんの譬え話が出てきます。これからもたくさんの譬え話が出てきますし、これまでにもすでに何度か、主イエスは譬えで語られています。

例を挙げますと、ルカによる福音書第七章の最後に、「罪深い女」の物語が出てきます。主イエスに罪を赦された女が、主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗るという話です。その行為を、眉をしかめて見ていたファリサイ派の人たちがいました。主イエスはそのことに気付かれ、譬え話を語られました。

金貸しから借金をしている二人の人がいる。二人とも返せなくて、借金を帳消しにしてもらった。借金の額の大きい方が金貸しをより愛するだろう、という譬え話です。罪深い女はいわば借金の額が大きかったので、たくさん主イエスを愛したのだ。そういうとても分かりやすい譬え話で、この物語にかなり効果的に作用していることが分かります。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は譬え話であります。「種を蒔く人」の譬えです。「譬え」という言葉は、聖書の元の言葉のギリシア語では「パラボレー」と発音します。英語でもparableと言いますが、これの語源になります。「パラボレー」という言葉が二つの言葉が組み合わさって作られた言葉でありまして、「側らに」「投げる」という意味があります。つまり、譬え話というのは、側らに投げられた話ということになります。

言うまでもないことでありますが、譬えが語られる場合、譬え話そのものが本当に伝えたいことなのではありません。本当に伝えたい何かがある。そして本当に伝えたい何かの側らに、ボールを投げるようにして、譬え話を投げる。投げられた譬え話を聞くことによって、本当に伝えたい何かを聞き取ることができる。これが譬え話の語られる意義であり、譬え話の力であります。

先ほど例に挙げました「罪深い女」の物語において語られた譬え話も、横に投げられた譬え話によって、本当に伝えたいことをはっきりとさせることができました。ファリサイ派の人たちも、その譬え話にハッとしたと思います。

しかし、「種を蒔く人」の譬え話は、ハッとさせられるというよりも、どうもすっきりとしないところがどこかあるのではないでしょうか。なぜすっきりしないのかと言うと、譬え話自体はとてもよく分かる。ところが側らに投げられた譬え話自体が分かったとしても、本当に伝えたい何かが何であるのかがよく分からない。それがどうもすっきりしない原因であると思います。だからこそ、弟子たちはこの譬え話の意味を尋ねたのであります。

弟子たちも大勢の群衆に混じって、主イエスが語られた「種を蒔く人」の譬え話を聞いていました。四節のところを見ますと、「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。」(四節)とあります。これはとても面白い表現で、大勢の群衆が集まってきたということが理由で、主イエスは譬え話を語られたと読むことができます。

第八章の始めのところで、主イエスが神の国を宣べ伝える旅をされていたということが記されています。大勢の群衆が集まってきたのは、その結果だったのでしょう。主イエスからもっと話を聞きたいと思ってやってきた人々がいた。しかし主イエスは神の国のことを直接に語らず、あえて譬え話でもって、お語りになったのであります。

大勢の群衆も譬え話自体は分かったとしても、本当の意味は分からなかったと思いますが、それは弟子たちも同じでありました。弟子たちはこっそりと主イエスにその意味を尋ねたのです。ルカによる福音書ではあまりよく分かりませんが、マルコによる福音書では「イエスがひとりになられたとき」(マルコ四・一〇)と記されています。大勢の群衆の前では人の目が気になって尋ねられなかったのだと思います。やっぱり分かりませんということで、こっそりと主イエスに譬え話の意味を尋ねる。

そうすると主イエスが答えてくださいました。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」(一〇節)。

主イエスが言われるには、この譬え話には神の国の秘密が隠されているということです。神の国とはこういうものだということが譬え話に表されているわけで、側らに投げられた譬え話によって、神の国の秘密を悟ることができると言われているのです。

「秘密」という言葉が出てきます。ルカによる福音書では一回だけしか出てこないのですが、実は新約聖書の手紙の中でたくさんこの言葉が出てきます。もちろん同じ言葉ですが、多くの場合は(神の)「秘められた計画」と訳されています。この言葉は、元のギリシア語では「ミュステーリオン」と発音します。英語ではmystery(ミステリー)と言いますが、語源をたどればギリシア語の「ミュステーリオン」です。

英語の辞書でmysteryを引くと、たくさんの意味が出てきます。秘密、謎という意味もあれば、ミステリー小説という意味でも出てきます。その他にも、神の隠された計画という意味もあります。実に幅広い意味があるわけですけれども、どれにも共通しているのは、あるときまでは隠されていたけれども、その後は明らかにされるという意味です。ミステリー小説などを読んでいますと、最初はもちろん、犯人も事件の全容も明らかでありません。謎のままです。しかし読み進めていって、最後には必ず誰が犯人なのかも分かりますし、事件も明らかにされます。

それと同じように、神の秘められた計画があったけれども、明らかにされるときがやってくる。主イエスの譬え話を聞いていれば、神の秘められた計画が明らかになりますし、神の国の秘密も悟ることができるというわけになります。

主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」(一〇節)と言われました。しかし本当に弟子たちは、このとき本当に神の国の秘密を悟っていたのでありましょうか。大勢の群衆たちは明らかに分からなかったようでありますが、弟子たちには分かったのでしょうか。残念ながら、弟子たちにもこのとき、悟ることができなかったと言わざるを得ないと思います。

一一節以降で、主イエスは譬え話の説明を自らしてくださいます。こんなに丁寧に説明をしてくださるのは、後にも先にもないことであります。種は神の言葉であると言われます。そして一二節にはこうあります。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」(一二節)。

私などがこの言葉を読みますと、ユダのことを思い浮かべてしまいます。主イエスが十字架にお架かりになる前に、「ユダの中に、サタンが入った」(二二・三)のであります。ユダはサタンにそそのかされて、主イエスを裏切り、主イエスを引き渡してしまったわけですが、御言葉を聞いていたはずなのに、悪魔がやってきて御言葉を奪い去ってしまったなどというのは、まさにユダのことではないかと思わされます。

続く一三節の言葉もそうです。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。」(一三節)。主イエスの十字架のときに、他の弟子たちは主イエスのことを見捨てて逃げ出してしまったわけですが、試練に遭うと身を引いてしまう人たちとは、まさに弟子たちのことではないかと思わされます。

つまり、弟子たちがこのとき本当に神の国の秘密を悟ったのかと言いますと、どう考えてもそんなことはあり得ないと言わざるを得ません。このあとも、弟子たちの無理解は続きます。あるとき主イエスがご自分の死の予告をされます。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(九・四四)。人の子とは主イエスのことですが、人々の手に引き渡されて、十字架に架けられようとしているのだと言われる。

弟子たちはどうしたのかと言いますと、続けてこうあります。「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(九・四五)。本当の意味が隠されていて分からなかった。尋ねようにも、今度は怖くて尋ねることすらできなかったのであります。

はっきり言いまして、「種を蒔く人」の譬え話だけで、この譬え話の本当の意味を、つまり神の国の秘密を悟るのは不可能であると思います。もしもルカによる福音書が、第八章一五節で閉じられているとしたら、もう神の国の秘密が明らかになりましたね、これで私の役目は終わりですと主イエスが言われて、天に帰られてしまったら、残された私たちは、あのとき無理解だった弟子たちと同じになってしまいます。

しかしそうではなくて主イエスは地上に残られて、譬え話を含めていろいろなことをお語り下さり、最後には十字架にお架かりになり、三日目に復活をされて、再び弟子たちの前に現れてくださったのですから、そのことを念頭に置いて、譬え話を聞かなければならないと思います。側らに投げられた譬え話のことばかりでなく、譬え話の本当の意味を悟るためには、聖書全体を踏まえなければならないと思いますし、そうしたときに初めて、神の国の秘密も、神の秘められた計画も理解することができるようになります。

そこで、譬え話をどう理解するかという話に入っていきますが、先ほどから何気なく、この譬え話が「種を蒔く人」の譬えであると申し上げています。何気ないことのようでありますが、どういうタイトルを付けるのかによって、譬え話の理解の仕方が変わってきます。

新共同訳聖書には「種を蒔く人」という小見出しが付けられております。小見出しはあくまでも小見出しでありまして、聖書の本文ではありません。ですから、聖書朗読のときにはこの小見出しは読みませんけれども、この小見出しに限って言えば、聖書的な根拠を見出すことができます。マタイによる福音書にも同じ物語があります。もちろん一言一句同じというわけではなく、微妙に表現が違います。

ルカによる福音書では、一一節のところは「このたとえの意味はこうである。」(一一節)と主イエスが言われていますが、マタイによる福音書を見ますと、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。」(マタイ一三・一八)と言われています。ですから、主イエスのお言葉通り、この譬え話の小見出しを「種を蒔く人」の譬えとしているわけです。

しかし「種を蒔く人」の譬えというタイトルだけでなく、他のタイトルも耳にすることがあります。例を挙げると、「種蒔きの譬え」というタイトルも聞いたことがあるでしょう。教会のこどもたちに御言葉の種を蒔く、その種がいつか実を結ぶように願って種を蒔くというときには、「種蒔きの譬え」というタイトルを付けた方がよいのかもしれません。

他にもあります。「現代訳」という翻訳の聖書があります。これは日本聖書協会のような組織の責任で出版しているものではなくて、個人の責任において出版している聖書の個人訳でありますが、初めての方でも読みやすいように配慮されていて、小見出しが付けられております。本日の聖書の箇所の小見出しを見ると、「種が蒔かれた地面のたとえ」となっています。同じ譬え話でも、種が蒔かれた地面に焦点を当てるわけであります。

たしかに、主イエスの譬え話の説明を聞いておりますと、私たちが地面にたとえられていると理解できます。道端、石地、茨の中、良い土地という四種類の土地が出てきます。さあ、あなたは一体どれですか、実を結ぶことができる土地ですか、できない土地ですか、というように譬え話を聞くとしたら、現代訳のように「種が蒔かれた地面のたとえ」と言ってもよいと思います。

しかし気をつけなければならないのは、種を蒔いてくださる方のことが抜け落ちてしまうということであります。譬え話でありますから、いろいろな聞き方があってしかるべきだと思いますが、種を蒔く人がどんな方なのかが抜けてしまうと、十分にこの譬え話を理解できない、無理解になってしまうということが起こりかねないと思います。

「種を蒔く人」に焦点を当てたいと思います。この人はどんな仕方で種を蒔いているでしょうか。先週、車で安曇野方面を走ることがありました。観光客の車も多かったのですが、多くの田んぼで苗が植えられ、畑では種蒔きがなされていました。ある畑では、袋のようなものを抱えた方が、右手で種を畑の上に蒔いているところを、車の中から見ました。ミレーやゴッホの「種を蒔く人」の絵画を思い出しましたが、まさにそれと同じ姿で種を蒔いていた。

しかし種を蒔いていたのは、もちろん畑の上であります。畑の周りには、アスファルトの道路があり、水路もありましたが、決してそのようなところには蒔きません。よく耕された、そして雑草も抜かれた良い土地の上にだけ種は蒔かれていました。これが農業の常識であります。

ところが、この種を蒔く人はそんなことは考えない。良い土地はもちろん、道端だろうが、石地だろうが、茨の中だろうが、そんなことはお構いなしに、惜しみなく種を蒔いていきます。種が蒔かれていないところはないのではないかとさえ思えるほどです。この種を蒔く人がそのような仕方で種を蒔いているということは、いくら強調しても強調しすぎることはないと思います。

種を蒔く人が誰なのか、はっきりと説明がありませんが、言うまでもなくこれは主イエスであり、神であります。神が神の言葉である種を惜しみなく蒔いてくださる。そして惜しみなく蒔いてくださる方が言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(八節)。しかもこの言葉は大声で言われています。

主イエスのこの大声に応えた者たちが、やがてたくさん出てくることになりました。このときの弟子たちは無理解だったかもしれません。しかし主イエスの十字架と復活の出来事が起こり、そののちに教会が建てられることになりました。多くの聖書学者が指摘していることですが、初代教会の人々は喜んで、この種蒔きの譬えを聞いたと言われています。時代はまだ、教会に対する迫害が起こる時代でありました。その中にあって、神の言葉を聞き続けた者たちは自分たちの姿を一五節で言われていることに重ね合わせたのだと思います。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(一五節)。

「立派な善い心」「よく守り」「忍耐して」という言葉などを聞くと、おののいてしまうかもしれません。果たして自分はそうだろうか、と。しかし初代教会の人たちが人間的にあるいは信仰的に特別に立派だったというわけではないでしょう。

立派な善い心とは、御言葉を聞くための心構えです。惜しみなく蒔かれる神の言葉の中に、神の国の秘密があり、神の秘められた計画がある、そのことを信じて御言葉を聞く心であります。自分自身が立派というよりは、主イエスが大声で言われた「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉に応え、御言葉を聞いている人たちのことです。

「よく守り」というのは、掟のようなものを守るというのではなく、蒔かれた御言葉を自分の内に留めておく、保っておくことであります。つまり初代教会の人たちが御言葉を聞き、自分たちの姿を一五節に重ね合わせていたように、私たちもまた同じようにしてよいのであります。自分自身の努力によって良い土地になるのではなく、神の言葉を信頼して、その言葉を聞き続けているのが、私たちなのであります。

初代教会の人たちが喜んで読みました文章が、新約聖書の中の福音書であり、手紙であります。先ほど、手紙の中では「秘密」(一〇節)という言葉が「秘められた計画」と訳されていると申し上げました。初代教会の人たちにとって、秘められた計画はもはや秘められたものではありませんでした。神の国の秘密はもはや明らかであった。ある手紙よれば、秘められた計画とは「十字架につけられたキリスト」(Ⅰコリント二・二)であり、別の手紙によれば「あなたがたの内におられるキリスト」(コロサイ一・二七)であります。つまり、神の国の秘密とはキリストご自身のことであり、それも十字架にお架かりになり、復活をされたキリストです。

神は惜しみなく御言葉の種を蒔かれただけではない。独り子をも惜しみなく、種を蒔くようにして、私たちの間に与えてくださった。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ一二・二四)。あるとき、主イエスご自身がお語りになった言葉です。主イエスご自身が地に落ちて死んでくださった。その結果、多くの実を結ぶようになったのであり、その実りが私たちであります。これは、譬え話で言われている良い土地に落ちた種が結ぶことになった実りであります。

私たちは毎週、神の言葉である説教を通して、神の国の秘密を聞いています。もはや秘密ではない神の国の秘密を、明らかにされている秘められた計画を聞いているのであります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ一〇・一七)。これもやはり初代教会に生きていた使徒パウロの言葉です。私たちもこの言葉の通り、惜しみなく蒔き続けられている神の言葉を今日も聴いたのであります。