松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年6月5日(日)
説教題「神があなたになさったこと」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第8章26節〜39節

 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

旧約聖書: 詩編 第40編2〜12節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)

The Day Jesus Sank the Swine Futures/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

The Day Jesus Sank the Swine Futures/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

自分の本当の姿はどんな姿なのか。皆さまは自分の本当のあるべき姿をご存知でしょうか。どんなときに、今の自分は本当の自分であると感じられるでしょうか。自分のことは自分が一番よく知っているようで、案外、私たちは自分のことを知らないものであります。私たちは人と人との間に生きています。そうすると、人に合わせて生きなければならなくなる。誰かに振り回されているような思いにさせられる。ああ、今の自分は相手に合わせているので、本当の自分らしくない、そう思うことがあります。

しかしその逆に、人のことは顧みずに、自分のやりたいように生きる。それが本当の自分だと思って生きていると、ふと、ああ、自分は一体何をやっているのか。こんなことをやりたいはずじゃなかった。自分勝手な思いに支配されていただけだったと気付くときがある。そうなりますと、これもまた自分の本当の姿がよく分からなくなってくるのであります。私たちはどうあるべきなのか。本当の自分のあるべき姿とはどんな姿なのか。これは私たちにとって極めて大きな問題であります。

教会の礼拝に出席されている方ならば、礼拝の中で、誰もが次のような経験をしたことがあると思います。礼拝の説教の言葉に耳を傾けている。そうすると、まるで自分のことが言われているかのような思いにさせられる。しかも自分が思っていた以上のことが示される。新たな発見がある。そんな経験がおありだと思います。「そうそう、自分が悩んでいたのはそのことだった」ですとか、「そうか、自分が本当に知りたいのはそのことだったのだ」と思わされるときがあります。「先生、よくぞ言い当ててくれた」、そう思うときには、説教を聴いている者は新たな自分を発見するのです。

これは説教者の力と言うよりも、聖書の力、神の言葉の力であります。私もそのような経験がたくさんあります。私は伝道者になり、説教を聴くよりも語ることがほとんどになりましたが、説教を聴いていた時代にもしばしばそう思わされてきました。そして説教を語る今となっても、説教の準備などのときに、「ああそうだ、自分が本当に知りたかったのはこのことだった」、「本当の自分とはこういう姿なのだ」という新たな発見をすることがしばしばであります。

神の言葉にはそのような力があります。それもそのはずです。私たちは神に造られました。神が生命の源です。そのお方と向き合い、そのお方から言葉をいただくことが礼拝でありますから、私たちは礼拝において、本当の自分を知ることができるのです。

私たちが日本に生きておりますと、信仰を持って生きること、日曜日に教会に行き、礼拝に生きることは、何か特別なことをしているかのように思われてしまうことがありますが、それはごく自然なことです。私たちが神に造られたからには、神を礼拝して生きることが当然であります。一番自然なことです。そしてその一番自然なことをするときに、本当の自分の姿を知ることができる。自分のあるべき本当の姿、人生の目的、生きる意味、それらのことを、神と向き合うときに、私たちは知ることができるのであります。

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の物語も、本当の自分を発見した者の物語と言えます。主イエスが悪霊に取りつかれたある男と出会いました。この男は、ずいぶんとひどい悪霊に苦しめられていたようです。「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。」(二七~二九節)。

聖書の言葉をそのままお読みいたしましたが、この男が悪霊のゆえに、本当の自分とはかけ離れた姿であったことは容易に分かります。この男は「この町の者」(二七節)でありました。しかもこの町には彼の家がきちんとあったようです。彼の家族もいたでしょう。ところがそこには一緒に住めないほどであった。それほどまでに、彼の状態は本当の姿とはかけ離れていたのであります。

この男も忘れていた本当の自分の姿を見出したかったと思います。主イエスが舟から降りられると、この男の方から主イエスに近づいてきたのが分かります。マルコによる福音書の同じ個所には「イエスを遠くから見ると、走り寄って」(マルコ五・六)と記されている。主イエス自らが近づいて行かれたのではない。むしろこの男のほうから、しかも走り寄って近づいてきたのです。

ある人は、男のこの行動から、この男には救われたいという思いがあったに違いないと言っています。私もそう思います。本人が意識していたかどうかは分かりませんが、心の奥底にはそのような思いがあったと思います。

しかし彼が口にした言葉は、悪霊に支配されていたからでしょう、それとは反対のことを言ってしまっています。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」(二八節)。本当は「私を憐れんでください。私を救ってください」と言いたいのに、そう言うべきなのに、「かまわないでくれ」と言ってしまう。これが本当の自分を失っている男の姿でありました。

今までにも主イエスは悪霊との戦いを何度かされてきました。その都度、主イエスが勝利を収められたのは言うまでもありません。今回は悪霊の中でも、特に力の強い悪霊だったのかもしれません。主イエスが「名は何というのか」(三〇節)と言われると、「レギオン」(三〇節)と答えています。レギオンというのは、ローマ帝国の軍団のことです。ローマ帝国軍は当時、いくつもの軍団を形成して、主に国境の防衛の任務にあたっていました。軍団一つあたり、およそ六千人の兵士で構成されていたと言われています。ですからたくさんの悪霊、非常に力強い悪霊という意味で、レギオンと名乗ったのだと思います。

しかしルカによる福音書から御言葉を聴き続けている私たちでありますから、もうすでに悪霊の問題は解決済みではないかとお考えの方も多いと思います。事実、その通りです。いくら力強い悪霊と言っても、もうすでに勝負は決していた。ルカによる福音書第四章三一節以下のところに、主イエスが悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出した物語があります。

また、第八章二節では「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(八・二)という記述もあります。こちらは第四章の物語よりもかなりあっさりと記されています。主イエスの悪霊に対する勝利は明白です。悪霊も主イエスにかなわない、そのことははっきりとわきまえています。だからこそ、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(二八節)と言うのであります。

このときも悪霊に対する主イエスの大勝利で終わるわけです。悪霊がこの男から豚へ移動するわけですが、悪霊を追い出された後の、男の様子が三五節に記されています。「彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。」(三五節)。この男はもはや裸ではありませんでした。服を着ることになった。正気になっていた。

しかも主イエスの足元に座っていたのであります。今までは鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていても駄目だったのが、正気になって主イエスの足元に座ることができるようになった。ある人は、この姿こそ主イエスの弟子としての姿であり、信仰を持って礼拝に生きる礼拝者の姿であると言っています。主イエスの足元に座る。それは御言葉を待つ姿勢です。御言葉を聴く姿勢です。この男は悪霊を追い出していただき、どうなったのかと言いますと、礼拝者に変えられていったのであります。

礼拝する人。これをラテン語の言葉で、「ホモ・リトゥルギクス」(home liturgicus)と表現することがあります。「ホモ・サピエンス」(homo sapiens)という言葉をお聞きになられたことがあると思います。「ホモ」というのは人間という意味です。これは人間とは何かということを定義した言葉です。他の動物に比べて人間は考えることができる。だから「ホモ・サピエンス」と言うのです。

この他にも「ホモ・ファベル」(homo faber)、作る人、つまり人間が道具を作る存在だという定義や、「ホモ・ルーデンス」(homo ludens)、遊ぶ人、つまり人間が他の動物と違うのは遊ぶところであるという面白い定義もあります。このような様々な定義がある中で、人間とは「ホモ・リトゥルギクス」(home liturgicus)である。つまり、礼拝するのが人間本来の姿であると定義をした人がいたのです。誰がこれを最初に言ったのかは定かではありませんが、私はこの言葉を知ったのは、ロシア正教会にかかわる文章を読んだことによってであります。

ドストエフスキーの小説で『カラマーゾフの兄弟』という文学作品があります。お読みになったことのある方も多いと思います。これはロシアの文学作品でありまして、世界的にもかなり読まれている小説でありますが、信仰にかかわる事柄がたくさん出てきます。ドストエフスキーはどこでこのような信仰を得たのか。ロシアにはロシア正教会という教団があります。ドストエフスキーの時代にも、もちろんロシア正教会がありましたが、様々なことで教会が揺り動かされていた時代でありました。教会が政治的な事柄に利用されるようなこともあった。

そんな中、そうであってはいけないと考える人たちがいました。特にその人たちは教会員の霊的な指導に力を入れたようです。『カラマーゾフの兄弟』に出てくる一番下の弟はアリョーシャという修道士ですが、「ゾシマ長老」という人物の指導を受けています。彼の精神的な支えでもあった人です。この「ゾシマ長老」のモデルとなった人物が、ロシアの教会に実際にいたようですが、この時代のロシアに同じような人物が多数いたようであります。ドストエフスキー自身もこのような人物たちの信仰に触れたのであります。

ゾシマ長老のモデルになった人物とは別人物でありますが、アレクサンデルという人がロシアの教会にいました。教会の指導者であります。多くの人の霊的な指導にあたったようです。実際にアレクサンデルの指導を受けた人が、アレクサンデルがどういう人だったのか、どういう言葉を語っていたのかという報告をしております。その報告が日本語に訳されておりまして、私も読むことができました。

その文章によりますと、アレクサンデルの指導の中心にあったのは礼拝であります。「教会の信仰に生きる者は、誰であっても<ホモ・リトゥルギクス>なのです。礼拝に生きることによって、純化されるのは、意識だけではありません。…顔つきが変わります。歩き方も、声も、まなざしも変わります。ですから、司祭アレクサンデルは、自分は、礼拝に出席しないで、礼拝が終わってから訪ねてくるだけのようなひとは、すべて斥けておられました。キリスト者の魂は、毎日曜日、<自動的に>礼拝に向かわざるを得ないものなのだとよく言われました。キリスト者が日曜日に礼拝に行くことを怠ると、一週間全部が空しくなり、満たされないままになります。結局のところ、キリスト者には<礼拝本能>とも言うべきものが発達するはずであると、よく言っておられました」。

報告の文章をそのままお読みいたしましたが、アレクサンデルの霊的指導の中核にあったのは礼拝であります。ただ単に訪ねてきた人の相談に乗っただけではない。神を礼拝することを指導の中核に据えた。あなたを変える力が礼拝にはある。礼拝によって、ホモ・リトゥルギクスとしての人間が整えられていく。顔つきが変わる。歩き方も、声も、まなざしも変わる。神に向き合い、神を礼拝するのが人間の本当の姿であり、礼拝の出来事によって、本当の自分のあるべき姿に変わっていくことができる。アレクサンデルはそのことをよく知っていたのであります。

主イエスによって悪霊を追い出していただいたこの男は、礼拝者になりました。今や、主イエスの足もとに座っています。この人はその後、主イエスについて行くことを願いましたが、これはかなえられませんでした。主イエスはこの町から追い出されてしまいます。豚の事件がありましたので、人々は恐れにかられて、出て行って欲しいと主イエスに言ったのです。もうこれ以上、同じようなことが起こったらかなわんと、町の人は思ったに違いありません。

もしかしたら、多くの豚を失った経済的な損失のこともあったかもしれません。町の人々はそう考えた。この男にとって、その町の中に残されることになります。せっかく本当の自分を取り戻すことができ、せっかく主イエスの足もとに座ることができるようになったのだから、これからも主イエスのお伴をしたいと思ったのは自然なことだと思います。しかし主イエスはそれをお許しにならなかった。

その代わりに主イエスがこの男に与えた務めがありました。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」(三九節)。そしてこの男が実際にどうしたかと言いますと、「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」(三九節)のであります。注意深くこの聖書の言葉を読むならば、この男は主イエスのご命令以上のことをしています。

主イエスが求められたのは、自分の「家」に帰ること、そしておそらくその家の者たちに「神が」あなたになさったことをことごとく話して聞かせなさいということでありました。ところがこの男は、家にも帰ったでしょうが、「町中」に言い広めました。しかも「イエスが」自分にしてくださったことをです。この男は、自分を救ってくれたのはただの人ではなかった。ただの人間「イエス」ではなかった。神であったと悟ったのであります。

主イエスは神に救われた者の証しを求めておられます。証言を求めておられるのです。この証しをすることができるのは、他の誰でもない。救われた者だけであります。悪霊は主イエスのことを「神の子」であると知っていました。しかし主イエスは悪霊の証言を求めておられない。悪霊には「ものを言うことをお許しにならなかった」(四・四一)のであります。

また、三四節には「この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた」(三四節)とありますが、豚飼いたちも主イエスを証言することができませんでした。さらに三六節には「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた」(三六節)とあります。成り行きを見ていた人たちも、主イエスを証言することはできなかったのです。「イエスという人がこの町にやってきて、悪霊に取りつかれていたあの男を救ったのだそうだよ」と、自分とはあまり関係のない救いの出来事として語ることはできましたけれども、それは本当の証言にはなりませんでした。

つまり、この町で主イエスを証しすることができる唯一の人は、この男だけだったのです。自分が悪霊を追い出していただいて、自分が救われて、本当の自分を取り戻すことができた。この男だけにしかできない使命が、今、主イエスから与えられたのであります。

この町はガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の町でありました。イスラエルからするとここは異邦人の町です。イスラエルでは豚を飼うことはしませんでしたから、そのことも異邦人の町であることを表していると思います。異邦人の町にたった一人で残されてしまったこの男がその後どうしたのか。聖書はそのことに関しては沈黙していますので、想像する以外に方法はありません。しかし神の御業というのは、いつも小さなところから、しかも救われた者によって始まるのであります。

この説教の始めに申し上げましたが、私たちは本当の自分の姿を知りたいと願っています。その姿を知るためには、まず神が私たちに何をしてくださったのか、そのことを知る必要があります。神がまず私たちにしてくださったことがある。そのことを知ったとき、ああ、私は救われた者だと悟ることができる。神によって救われた姿こそが本当の自分の姿なのであります。

このようなことを神がしてくださったのですから、私たちが礼拝者として、ホモ・リトゥルギクスとして、神に向き合うのはごく自然なことです。一番ふさわしい姿であります。礼拝において、私たちは神が私たちにしてくださったことを思い起こし、感謝をささげ、力を得る。それが神を礼拝することであります。

実際に先週の日曜日、礼拝が終わり、一人だけではなくて複数の方から、こんな言葉を聞くことができました。「今週一週間、舟を漕ぐ力が与えられました。舟を漕ぎ続けたいと思います」。先週、私たちに与えられました聖書の箇所は、湖の上での物語、主イエスが嵐を静める物語でありました。「湖の向こう岸に渡ろう」(八・二二)と主イエスが言われ、舟に乗り込むと眠ってしまわれました。

しかし主イエスがそう言われたからには、この舟は必ず向こう岸に着く。主イエスが最もふさわしいときに起きてくださり、嵐を静めてくださる。だから私たちはそのことを信じて、舟を漕ぎ続ければよいわけです。そんなメッセージを聞きとり、「今週一週間、舟を漕ぐ力が与えられました。舟を漕ぎ続けたいと思います」という言葉が出てきたのだと思います。

「一週間を生きる力が与えられました」、この言葉は礼拝者からしか出てこない言葉です。わずか一週間の生活であっても私たちは右にも左にもそれてしまう。心も曲がったり折れたりしてしまう。神に従って生きようと決意しても、罪にとらわれてしまう。しかしそのような私たちに、いやそのような私たちだからこそ、神は礼拝を備えてくださる。礼拝において私たちは本当の自分の姿を思い起こし、本当の自分を取り戻すのであります。神が私たちに何をしてくださったのか、神が私たちに何をせよと言われておられるのか、すべての答えはこの礼拝にあるのであります。