松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年5月15日(日)
説教題「神の家族がここに」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第8章16節〜21節

 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

旧約聖書: 申命記 第6章1〜9節








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先週の日曜日、私たちは主イエスの譬え話を聞きました。種を蒔く人の譬えであります。この譬えの中に出てくる種を蒔く人は、惜しみなく種を蒔いてくださる。種がしっかり根付いて、芽を出し、成長して、やがて実を結ぶだろう良い土地ばかりではなく、道端にも、石地にも、茨の中にも、惜しみなく種を蒔いてくださる方の話を聞きました。この人こそが神であり、種は神の言葉であります。しかもこの種の中には神の国の秘密までも隠されていると言われています。主イエスは譬え話を語られた後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。私たちも主イエスのその招きにしっかり応えたいと思います。

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所は、その続きであります。主イエスが弟子たちに種を蒔く人の譬え話の説明をしてくださいましたが、その説明の続きであります。この聖書の箇所を説教する場合、説教者によって区切り方はまちまちです。一六~一八節のともし火の譬えだけで説教する説教者もありますし、種を蒔く人の譬えとともし火の譬えをくっつけて説教する説教者もあります。ともし火の譬えは種を蒔く人と重なる部分が多いからです。

一八節に「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」(一八節)という主イエスのお言葉があります。ともし火のたとえのテーマがずばりこれだと言ってくださっているに等しい言葉だと思いますが、やはり種である神の言葉をどう受け止めて、どう聞くべきなのかということがテーマになります。しかも、神の言葉を聞くと、神の国の秘密を悟ることができるわけですから、ともし火の光もこのことに関連します。隠れているものがあらわになり、秘められているものが公になる力が、この言葉にはあるわけです。

そういうわけで、ともし火の譬えは種を蒔く人の譬えと密接に結びついているわけですが、譬え話の最後に、強烈な言葉があります。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(一八節)。マルコによる福音書の同じ箇所を見ますと、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マルコ四・二五)と、少し表現が異なります。

持っていない人は、本当は何も持っていないはずですから、取りあげられるものもないはずです。理屈をこねますと、マルコによる福音書の言葉に少し反論することもできます。しかしルカは、本当は持っていないのだけれども、実はそれは持っている気になっているだけで、その持っていると思うものまで取りあげられるのだと表現しているわけです。

痛いところをつかれる言葉かもしれません。私たちは持っているようで、実は何も持っていなかったと思わされるときがあります。積み上げてようで、実は何も積み上げてこなかったと思わされる。持っているものでは満足できない、積み上げて来たものでは満たされない、そう思うことがあります。自分には満たされていない部分がある。だからこそ、どうやったら満たされるのかということを問います。意識的であれ無意識的であれ、人間にはどこか満たされない部分を感じるときが、やはりあると思います。

そんな私たちに対して、主イエスはあるときこう言われました。「無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ一〇・四二;口語訳)。その一つとは何か。主イエスの足元に座って、主イエスの口から神の言葉を聞く、そのことであります。神の言葉には、私たちを満たすことのできる力があるのであります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記八・三)と聖書のある箇所が告げますように、この力があるからこそ、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(八節)、「どう聞くべきかに注意しなさい」(一八節)と呼びかけるのであります。

神の言葉の力が一体どういう力なのか、言い換えますと、神の言葉を聞いているとどういうことが起こるのか、そのことが一九~二一節の箇所に表れていると思います。この箇所は主イエスの母、兄弟たち、つまり家族がやって来た場面であります。おそらく、家族たちがやって来て、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」(二〇節)というように、すぐに取り次いでもらったのではないでしょう。主イエスが群衆に話をしている。家族は近づけない。そんな状況がしばらく続いて、それを誰かが気付いて、ご家族が来ていますよと伝えたのだと思います。つまり、主イエスが種を蒔く人の譬えを語っている間に、家族がやって来ていたということになります。

主イエスの種を蒔く人の譬えも、主イエスの家族が来たときの話も、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも同じ記事があります。しかしルカによる福音書での大きな違いが一つあります。マタイでもマルコでも、家族が来たときの話が先にあって、その後で種を蒔く人の譬えが語られていました。ルカは逆です。譬え話の後に、言い換えますと、聞くことの大切さを主イエスが語った後に、家族の話が出てくるわけです。

ルカによる福音書だけ順番が逆なわけですが、当初、私はそれほどたいした意味はないのかと思っていました。譬え話を語ったそのときに家族が来ていた、つまり同時の出来事であった。福音書に記す場合、記す順番がありますから、同時の出来事であっても、どちらかを先に書かなければなりません。その程度の違いかと思っていましたが、黙想をすればするほど、一九~二一節の家族の話にとても深い意味が込められていることが分かってきました。

主イエスは神の言葉を聞くことの大切さを、二つの譬え話でもって語ってきたわけですが、神の言葉を聞いているとどういうことが起こるのか。種を蒔く人の譬えでは、百倍に実を結ぶわけです。それほどの力があるわけですが、この力によって具体的にどういうことが起こってくるのかと言うと、家族を形成していくことになるのです。家族の形成力になると言われる。主イエスの家族がたまたまこの場にいただけかもしれませんが、主イエスは言われるのです。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(二一節)。つまり、神の言葉を聞いていると、自然と家族になっていく。それも神の家族になっていく。これが神の言葉の力なのであります。

本日、合わせて旧約聖書の申命記をお読みいたしました。私はかつて、申命記のこの箇所を読んで、衝撃を受けたことを覚えています。申命記第六章の一~五節もそうなのですが、特に六~九節に衝撃を受けました。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記六・六~九)。

これらの言葉、つまり神の言葉をこどもたちに繰り返し教えなさいと言われている。しかも「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」(申命記六・七)と言われている。これも理屈をこねると、寝ているときに教えることなどできないではないかということになりますが、それほどまでに熱心にこどもたちに伝えよと命じられているわけです。

どうしてこれほどまでに熱心に伝えなくてはならないのか。それはイスラエルという国の行き死にがかかっていたからであります。イスラエルの民族というのは、島国の日本からすると想像も絶するようなことを経験してきた人たちであります。聖書に記されているように、古くはエジプトの国で奴隷生活をしていたこともあった。そこから導き出されて、元の場所に戻ることができ、やがて、ダビデ、ソロモンという王が誕生し、一時期は国も繁栄します。

しかしこの王国も周りの強国によってどんどん弱められ、バビロニアという国に滅ぼされます。国の主だった人は捕囚として連れて行かれる。国を失うわけですが、捕囚もやがて終わり、また再建をする。しかし今度はローマ帝国に支配されてしまう。そして主イエスが天に挙げられた後、ローマに対しての反乱が起こりましたが、西暦七〇年にエルサレムは滅ぼされてしまう。神殿も破壊されてしまう。

それ以来、一九〇〇年にわたって、イスラエルの民は領土を失いました。世界各地に離散しての生活を余儀なくされていたわけですが、これをディアスポラと言います。そして時代を経て、第二次世界大戦の際にナチス・ドイツによるホロコースト、迫害も経験します。第二次世界大戦が終わって、ついに一九〇〇年ぶりにイスラエルの地に再建国するわけですが、周辺のアラブ諸国との中東戦争になります。未だに争いが続いています。最近のイスラエルの国のしていることの善し悪しはさておきまして、イスラエル民族は想像を絶する経験をしてきたのです。

イスラエルの人たちが、そのようなことを経験したにもかかわらず、なぜ自分たちのアイデンティティーを失わなかったのか。自分たちの民族が消滅してしまわなかったのか。日本人がもし自分たちの領土を失って、世界各国に離散しなければならないとしたら、すぐにその土地の民族に吸収されてしまうでしょう。イスラエルの人たちがそうならなかった秘密が、申命記第六章にあります。

領土がないときはもちろん、領土がたとえあったときでも、自分たちのアイデンティティーはこれであった。つまり、神の言葉を次の世代に伝えないと、自分たちが終わってしまうという危機感が常にあったのであります。イスラエルの人たちが消えてなくならなかったのは、もちろんイスラエルの人たちの努力でもありますが、何よりも神の言葉の力なのであります。この力によって、自分たちのアイデンティティーを守ってきたのです。

もちろん、主イエスによってもたらされた神の言葉は、イスラエルの国だけでなく、全世界に救いが広げられた言葉であります。イスラエルの人たちが語り伝えて来た言葉と、主イエスが私たちにもたらしてくださった言葉とは違う言葉になりますが、言葉によって民が形成されていくこと、家族が形成されていくことは同じであります。

神の言葉によって形成される家族と言いますと、どんなイメージを抱かれるでしょうか。「教会はまるで家族のようだ」と言われることがあります。そのような言葉を聞くと、ああ、教会はほんのりと温かい雰囲気だな、と感じると思います。しかも神が父であるということは、神もまた同じ家族のメンバーです。神との近さ、親密感を抱くかもしれません。もちろんそれはそうなのでありまして、松本東教会もまた温かな雰囲気というものがあるでしょう。

しかし覚えておかなければならないことは、神がこの家族を取り戻してくださったということです。ルカによる福音書には、譬え話がたくさんありますが、家族に関する譬えもあります。放蕩息子の譬えであります。

「放蕩息子の譬え」と申し上げましたが、これは弟息子のことであります。父親から財産を半分もらい、家を出て、放蕩の限りを尽くしたけれども、全部を無駄遣いしてしまう。飢饉がやってきて、食べるにも困り始めたとき、我に返る。父の家に戻ろう、息子と呼ばれる資格はもうないのだから、雇い人の一人として再出発をしようと思って家に帰る。すると父親が迎えに出てくれて、息子の帰還を大喜びし、息子のまま迎えくれるという譬え話であります。

「放蕩息子の譬え」ではなく、父親にスポットライトを当てるとしたら、「息子に家出をされてしまったけれども、息子の帰還を喜んで迎えた父親の譬え」と言えなくもないと思います。

息子が家出をする前は、その家族がどんな状況だったのかは分かりませんが、息子が家出をしてしまって、放蕩の限りを尽くしている間は、その家族は崩壊した家族でありました。息子が家族を壊してしまったわけで、家族としては形をなしていなかったわけです。しかし父親は放蕩の限りを尽くした息子を、そのまま息子として受け入れます。そのようにして、家族としての形を取り戻したのであります。

この息子は放蕩の限りを尽くしても、決して満たされることはありませんでした。持っていると思うものがあったけれども、それも取りあげられてしまった。しかし我に返って、本来、自分のいるべき家へと、家族へと帰っていく。父親のもとに戻った息子は、父親の言葉を聞く者になりました。父親の言葉に今度は喜んで耳を傾けたと思います。このようにして、本当の家族が取り戻された。これこそが、神の言葉の力なのであります。

神の言葉のこのような力が、主イエスの二一節の言葉にも表れています。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(二一節)。「聞いて行う」という言葉があります。「行う」という言葉が出てくると、委縮してしまう方もあるかもしれません。何かを行わなければならないのかと思ってしまう。しかし神の言葉には、自然と人を動かす力があります。

松本東教会では週の半ばに祈りの会を行っています。祈りの会ではその名の通り、祈るわけですが、まずは讃美歌を歌い、聖書の言葉が読まれます。そして私が一〇~一五分ほどになりますが、短く話をします。この話を説教と言ってもよいのかもしれませんが、奨励と言っています。奨励というのは「奨め」ということです。もっと丁寧に言うならば「祈りの奨め」をする。つまり祈りをするために、奨めとなるような、祈りに促されるような話というのが奨励であります。

私が奨励をした後に、参加者たちが祈りに導かれますが、その祈りを聞いておりますと、ああ、御言葉が届いているな、としばしば思わされます。御言葉がこの人に届いて、その御言葉の力が働いて、神の救いの出来事を思い返し、自分を見つめ直し、御言葉に促されて、祈りを献げている。そのような方こそ、御言葉を「聞いて行う」人の具体的な例であります。

三浦綾子の小説に『光あるうちに』というものがあります。「信仰入門編」という言葉がありますので、求道者に向けて書かれた本と言えるでしょう。この本の中で、三浦綾子さんが「感動」という言葉をこのように言っています。「感動というのは、心が揺り動かされることなのだ。感動したと言いながら、一歩も動いていないのでは、本当に感動したとは言えないような気がする。」(一八四頁)。たしかに「感動」という字は感じて動くということであります。感じただけで動くことがないのならば、感動したことにならないでしょう。

同じように、神の言葉を聞くだけで行わないということになってしまったら、これはこれでおかしなことになってしまうのです。いや、神の言葉の力をもってすれば、そんなことはそもそも起こるはずがない。神の言葉を信じて、その言葉を自分の内に留めておけば、自然と行う力が出てくるものです。感じただけで動かないということはなくなる。その力によって、神の家族である教会が形成されていくのです。

このあとで讃美歌三八五番を歌います。讃美歌第一編には、それぞれの讃美歌の上のところに、その讃美歌のテーマが付けられております。「礼拝讃美」とか、「教会」とか、「信仰」とか、その讃美歌の歌詞に合うであろうテーマが設定されています。三八五番は「霊の戦い」であります。たしかにそのような歌詞です。しかしこれを「教会」と変えても差し支えないと思います。

歌詞の全体を見てもそう言えますが、特に二番や三番などが特にそうです。私たちも結び合わせる霊は一つ、私たちに与えられている命も一つ、一つの糧に育まれて、一つの目的に向かって進むのだ、そのように二番は歌います。三番では、誉れも栄えも憂いも悩みもお互いに分かち合い、一つの戦いを共に戦い抜き、一つの勝利の歌を共に歌う、と歌います。これはまさに、一つの家族とされた教会のことであります。

ここにて、私たちが神の言葉を聞き、ここにて、私たちが一つとなる。なくてはならない一つのものがここにある。それは神の口から出る一つ一つの言葉であり、それが語られる。それを私たちは共に、一つになって聞いている。神の言葉を聞いて、満たされないということなども起こらない。神の言葉の力を信じて、その力にすべてを委ねる。そのようにして、教会という神の家族は形成されているのであります。