松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年5月1日(日)
説教題「私たちにできること」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第8章1節〜3節

 すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

旧約聖書: 詩編 第100編

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
マグダラのマリア(Mary Magdalene) / ヤン・ファン・シュコーレル (Jan van Scorel)

マグダラのマリア(Mary Magdalene) / ヤン・ファン・シュコーレル (Jan van Scorel)
アムステルダム国立美術館 蔵 (Rijksmuseum Amsterdam)
(アムステルダム/オランダ)
(Amsterdam , Kingdom of the Netherlands )

クリックすると作品のある「rijksmuseum」のページにリンクします。

主イエスは旅をしておられました。一つの町にだけおられたのではありません。もちろん拠点となる町があったり、拠点となる家があったりしたときもあります。しかし基本的には、福音書に描かれている主イエスのお姿は、旅人のお姿でありました。あるとき主イエスはこう言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(九・五八)。人の子とは主イエスのことですが、主イエスは落ち着いて枕をするところ、つまり寝るところもなかったのです。主イエスは神の国を宣べ伝える旅を続けていたのであります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所のように、主イエスが神の国を宣べ伝えながら旅をされている様子は、同じルカによる福音書の中で、何回か記されております。最初に出てきたのは、ルカによる福音書第四章四三節のところに記されています。「しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」(四・四三~四四)。

この記述を読む限りでは、いろいろな町に行って、神の国を宣べ伝えたのは主イエスだけかのように思えます。もちろんそうではなかったのであり、主イエスと一緒に旅をしている者たちがいたのであります。

本日、私たちに与えられました箇所は、主イエスと一緒に旅をしていた者たちにも、スポットライトが当てられています。第八章の一節の終わりには「十二人も一緒だった。」(八節)とあります。十二人とは主イエスの弟子の十二人であります。あるとき主イエスは十二人の弟子たちをお選びになりました。その十人の名前は、十二人が選ばれたときに、すでにその名前が挙げられましたので、ここではあらためて十二人の名前を記すようなことはしていません。「十二人も一緒だった。」(八節)と、軽く触れられているだけであります。

この十二人は第九章に入りましたところで、神の国を宣べ伝える旅に派遣されます。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」(九・六)と記されています。そして第一〇章に入りますと、今度は十二人だけでなく、七二人が派遣されています。主イエスと一緒に旅をしている弟子たちの数は、十二人というよりは、さらに人数が多かったのだと思います。

主イエスの弟子たちはおそらくほとんど、あるいはすべてが男性だったと思います。少なくとも十二人はすべて男性でありました。男性だけの旅というのは、考えてみますと恐ろしい旅になってしまうかもしれません。一日、二日、数日くらいまでなら、なんとかなったかもしれませんが、数カ月や一年といった旅になりますと、とても男性だけでは成り立たなかったでしょう。本日与えられましたルカによる福音書の箇所には、男性の活躍よりもむしろ一緒に旅をしていた女性たちの活躍が記されています。主イエスの長い旅を支えた女性たちに、スポットライトを当てているわけであります。

本日の聖書の箇所は、ルカによる福音書だけにしか記されていない箇所であります。それだけに、重要な箇所であると思います。福音書を記したルカは、一体この箇所で何を伝えようと思ったのでありましょうか。

一つ考えられるのは、女性に目を留めるということであります。言うまでもありませんが、当時は男性優位の社会でありました。そのような社会の中にあっては、女性の活躍に目を留めるのは意味のあることです。ルカによる福音書では、主イエスの男性の弟子たちが活躍し始めたのは、先ほども申しましたように、十二人が派遣されてからであります。それまでは、主イエスにただついて行っているだけという有様でありました。男性の活躍よりも先に、女性の活躍の様子を描かれている。それはおかしいことでもなんでもありません。

教会の信仰に従って言うならば、男性だから女性だからということはないのです。使徒パウロもその手紙の中で書いています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ三・二六~二八)。従いまして、男性ばかりのことだけでなくて、この箇所で女性の活躍に目を留めておきたいという考えが、ルカの頭の中にもあったのかもしれません。

しかしこの箇所が伝えているメッセージはそれだけではありません。さらにいくつかの大切なメッセージが込められていると思います。先週はイースターでありました。主イエスが死者の中からお甦りになられた、その御言葉を聴きました。先週、私たちの教会に与えられた聖書の箇所は、マタイによる福音書の主イエスが復活された箇所であります。

先週はルカによる福音書から離れたわけでありますが、やはりマタイによる福音書の復活の箇所でも、活躍しているのは女性であります。二人のマリアが出て来ました。「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ二八・一)という名前が記されています。マグダラのマリアは、本日与えられたルカによる福音書の箇所に出てくるのと同じ人物であります。

この二人のマリアは、主イエスが十字架で息を引き取られる様子や、主イエスのお体が墓に納められる様子の一部始終を見ていたわけであります。見ていたからこそ、主イエスのお体が墓からなくなってしまった、復活されたという証言をすることができました。男性の弟子たちは逃げてしまいましたので、残念ながら女性たちのように復活の証言をすることができませんでした。

今、申し上げたことは、マタイによる福音書の話しでありましたが、ルカによる福音書でも同じであります。復活の日の朝早く、やはり婦人たちが墓へと出かけていきます。主イエスのお体を香料と香油できれいにしようと思ったからであります。ところが墓へ行ってみると、墓のふたをしていたはずの大きな石がわきに転がしてあり、主イエスのお体がない。代わりにそこにいたのは、天使たちでありました。天使たちから主イエスが復活されたことを聞きます。

そして、婦人たちは急いで男性の弟子たちに知らせるわけでありますが、この婦人たちの名前がきちんと記されています。「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。」(ルカ二四・一〇)。マグダラのマリア、ヨハナという人物の名前は、本日与えられた箇所に出てくる名前と一致します。つまり、主イエスが復活されたという証言をした女性たちが、十字架の出来事の直前からではなく、最初から一緒に旅をしていたのだということになるわけです。ルカはそのメッセージも込めて、ここで女性たちの名前を記しているのであります。

しかし本日与えられた箇所が、そのメッセージだけで終わっているのでもありません。さらにルカが思いを込めて、伝えたかったメッセージがあります。本日の聖書箇所の二節にところにこうあります。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」(二節)。

この婦人たちがどういう婦人だったのかと言うと、「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」婦人たちだったのであります。婦人たちにとっては悪霊や病気に悩まされていたところを救ってもらったのですから、主イエスが救い主です。その救いの出来事が先にあり、そしてその感謝を表す応答として、主イエスの一行に仕えていたのであります。

最初に名前が記されている人物でありますが、「マグダラの女と呼ばれるマリア」(二節)であります。マグダラというのは地名でありまして、どこなのかは正確には分かっておりませんが、ガリラヤ湖の西岸の町と言われています。マグダラという町のマリアという女ということになります。

マグダラのマリアに関しては、様々な伝説や言い伝えがあります。教会も長い間、この人が娼婦であると考えて来ましたけれども、聖書的な根拠は極めて薄いと言わざるを得ません。先々週、ルカによる福音書の第七章の終わりの箇所の御言葉が与えられました。「罪深い女を赦す」という物語です。この罪深い女がどんな罪を犯していたのかは分かりませんが、この罪が姦淫の罪、つまり娼婦をしていたのであり、なおかつ、この名もなき女がマグダラのマリアである。このような曖昧な推測を繋ぎ合わせると、マグダラのマリアを娼婦に仕立て上げることができますが、やはりこれは無理があるでしょう。

聖書からはっきり分かっていることとして、七つの悪霊を追い出していただいたということに、留めたほうがよいと思います。聖書の中で「七」という数字は、よく言われることですが、完全数であります。完全な悪霊というのは恐ろしいことでありますが、手の施しようのないほどの悪霊に取りつかれていたのだと思います。そんな状態から主イエスによって救い出されたのが、マグダラのマリアであります。

続いて記されている名前は「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」(三節)であります。ヘロデというのは、ヘロデ・アンティパスという支配者の名前で、その家来にクザという人物がいた。家令というのは管理人のことで、財産などを管理していたのだと思われます。そうしますと、クザというのはなかなかの地位にある人で、その妻がヨハナということになります。ヨハナも悪霊を追い出して病をいやしていただいたわけですが、ある程度の高い地位にあった人物の妻までもが、主イエスの一行に仕えていたということになります。

三番目に名前が記されているスサンナという人物、残念ながらこの人物のことはよく分かりません。聖書の中でここだけにしか記されていないからであります。「そのほか多くの婦人たち」(三節)というのがどんな人物たちだったのかも、スサンナ同様、はっきりとは分かりません。しかしいずれもが、主イエスによって救っていただいて、その感謝を表す応答として主イエスに仕えていたということは、はっきりとしたことであります。

婦人たちが悪霊や病に悩まされていた頃はどんな生活をしていたのかは分かりませんが、普通の生活をすることはできなかったと思います。しかし悪霊や病から救っていただいた後は、元の生活に戻ることができたはずです。特にヘロデの家令クザの妻ヨハンナにとっては、夫がこのとき生きていたのかは分かりませんが、自分の生活の場があったはずです。その場に戻ることをせずに、もしかしたら夫のことはさておき、主イエスの一行に仕えていたかもしれません。

マグダラのマリアにしても、七つの悪霊を追い出していただいたわけですから、別の生活をしようと思えばいくらでもすることができたはずであります。ところが婦人たちはそうはせずに、まったく自由な思いから、主イエスに対する感謝を表そうとして、主イエスにお仕えしていたのであります。

マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、この三人は具体的な名前が記されています。聖書の中に具体名が記されるということは、どういうことなのでありましょうか。先々週の聖書の箇所である第七章の終わりには、罪深い女が出てきます。この女は残念ながらその名前が記されていません。名前が記されていない物語もあれば、はっきりと名前が記されている箇所もあります。その違いは何でありましょうか。

聖書は最初から聖書として記されたわけではありません。ルカの場合ですと、この福音書が聖書の中に記されて、後世までも残されるなどと思ってもいなかったでしょう。まずは自分の書いたものが読まれる具体的な読者層があったはずです。そしてその読者層とは、教会に生きる者たちでありました。福音書や手紙は、教会に生きる者たちによって、教会の中で読まれてきました。その結果として、福音書や手紙が新約聖書の中に残されることになったのです。

そう考えますと、教会の中の読者層にとって、三人の婦人たちの名前は、その具体名まで記されるわけですから、よく知られた名前であった可能性が高い。ああ、あの人のことかと思ったかもしれません。もしかしたら、最初期の教会の中にも生きていたかもしれません。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナ、それらの者たちは、主イエスの一行に仕え、やがて教会が建てられてからも、教会に奉仕をすることをやめなかった。教会に生きる人々が、よく知っていた人たちであったからこそ、福音書の中に名前が記されたのだと思います。

教会に生きる者たちが、ルカによる福音書第八章の最初にあるこの三節を読んだときに、きっとこのように感じたに違いありません。主イエスの一行にお仕えしている者たちがいた。それと同じように、今なお、教会の中でも奉仕をしている者たちがいる。それは今も昔も変わっていない、同じ様子が描かれている、そう感じたに違いありません。

三節の終わりに「奉仕していた」という言葉があります。この言葉はもともと食事の給仕をするという意味のある言葉でありました。婦人たちはいろいろな務めを担っていたのだと思いますが、第一義的には食事の奉仕だったのだと思います。主イエスや弟子たちが食べ物に困らないように奉仕をした。

しかしやがてこの言葉は発展していき、食事の給仕のみならず、教会の一般的な奉仕という意味になりました。主イエスが神の国を宣べ伝える最初のときになされていた婦人たちによる奉仕が、時代が経ってからの教会の奉仕につながっていくのであります。本質的には同じことを表しているのであります。

主イエスは旅をされながら、神の国を宣べ伝えておられました。以前の説教の中で、「主イエスはいわば神の国が歩いているようなお姿をされている」という言葉を引用いたしました。主イエスは神の国をただ単に言葉で宣べ伝えておられただけではなくて、主イエスの行かれるところ、そのところに神の国が現れていたのであります。主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせました。主イエスが御言葉を語られ、それを聞く者たちがいる。それも一つの神の国の姿でしょう。

しかしそれだけではなくて、主イエスのために奉仕をしている者たちがいる。それも神の国のとても大切な姿であります。主イエスに救っていただいた、そしてその感謝を表す応答として、主イエスに仕えている者たちの姿があるのです。

神の国というのは、神がおられるところであり、神の支配が及んでいるところであります。支配と言いますと、何らかの力によって支配するというように考えられてしまうかもしれませんが、神の支配は力による強制ではありません。神によって救われた者たちがまったく自由に、感謝をして、喜びながら神に仕えている。そのようにして支配がなされている。それが神の国の姿であります。

この神の国の姿を、今日の教会の中にも見出すことができます。最初期の教会の中でも見出すことができたように、今日の教会の中でも神の国を見出すことができます。礼拝では神の言葉が語られ、それが聴かれている。福音が宣べ伝えられています。そして何と言いましても、教会では多くの奉仕がなされている。

具体的に挙げていくならばきりがありませんが、見えるところでなされている奉仕もあれば、見えないところでも多くの奉仕がなされています。私が気付かないところで、皆さんが気付かれていないところでなされている奉仕も多くあるでしょう。奉仕に生きる者たちがいるというのが、教会の姿であります。従いまして、神の国とはどういうところかと尋ねられれば、ルカによる福音書の第八章一~三節のようであると答えることもできますし、今日の教会の姿が神の国の姿そのものであると答えてもよいのであります。

教会はすでに救われた者たちが集ってくる場所であります。昨年のクリスマスのときに、教会の外の集会に出掛けて行ったときのことを思い起こします。クリスマスに関する話を私がして、その後で質疑応答の時間がありました。ある方がこう質問をされました。「イエス様が罪をすべて背負って死んでくださったなんて、とてもかわいそうだと思います」。たしかにその通りであります。私たちの罪のために、主イエスにとてもかわいそうなことをさせてしまった。

しかし、主イエスの十字架と復活の出来事は、もうすでに起こってしまったことであります。「イエス様、こんな私のために十字架なんかにお架かりにならないでください」と言ったところで、もうすでにその出来事が起こってしまった。すでに救われてしまった。ですから、その救いにいかにして応えるかが、私たちにできることです。その質問に対してそのようにお答えいたしました。

私たちにできることは多くはありません。主イエスと同じことが私たちにできるはずがありません。私たちにできること、悪霊を追い出して病気を癒していただいたあの婦人たちにように、自分の持っているもので、主イエスにお仕えすることであります。教会はキリストの体です。これは抽象的な概念ではなく、本当に教会がキリストの体、私たち一人一人がその部分なのであります。主イエスに救っていただいた者として、キリストの体なる教会にどう仕えていくのか、キリストご自身に仕えていくのか、それが私たちにできることなのであります。