松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年4月28日(日)
説教題「別れなき別れ」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第24章50節〜53節

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

旧約聖書: 民数記 第6章22〜27節

「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

キリスト昇天 ( Ascension ) / ジョット・ディ・ボンドーネ ( Giotto di Bondone )
スクロヴェーニ礼拝堂 ( The Scrovegni Chapel )
パドヴァ( Padua )/イタリア

一九八〇年代のことになりますが、考古学における一つの発見がありました。場所はイスラエルのエルサレムの郊外です。かつてお墓のあった場所です。死者を埋葬する洞穴の中から、女性のものと思われる銀のブローチのアクセサリーが発見されました。調べてみると、そのアクセサリーは紀元前七世紀のものでありました。

それだけなら、大した発見ではなかったかもしれませんが、そのブローチのアクセサリーに文字が刻まれていました。旧約聖書の元の言葉のヘブライ語の言葉です。その言葉をよく調べてみると、この言葉が、民数記第六章の言葉の一部であるということが分かったのです。本日、私たちに与えられた旧約聖書の民数記の祝福の言葉だったのです。

この祝福の言葉は、アロンの祝福と呼ばれています。アロンというのは人の名前です。出エジプトの旅を導いたのはモーセでありますが、そのモーセと並んで立てられた人です。このときは祭司としての役割がありました。

祭司とは一体どんなことをしている人でしょうか。祭司はイスラエルの中で、儀式を執り行う人です。儀式と言うよりは、私たちは礼拝と言った方が分かりやすいかもしれません。礼拝の中で何をしたか。やはりいろいろなことをしましたが、この箇所で特に言われていることは、民を祝福せよ、ということです。イスラエルの人たちは、祭司を通して、神からの祝福の言葉を聴いたのです。

この場所に埋葬された人もそうでした。生前にたくさん、祝福の言葉を聴いたのでしょう。そして死んでもなお、祝福の言葉が書かれていた銀のブローチのアクセサリーを携えていた。この人自身がこのアクセサリーと一緒に葬ってくれと望んだのか、家族が持たせてやったのか、それはよく分かりません。しかしその気持ちはよく分かると思います。死は厳しいことです。愛する者との別れは辛いものです。それを乗り越えるものがある。神からの祝福の言葉がそうであります。

本日、私たちに与えられた新約聖書の箇所は、ルカによる福音書の最後の箇所です。私たちの松本東教会では、三年にわたってルカによる福音書の最初から御言葉を聴き続けてまいりました。今日が最後の最後の箇所になります。

福音書を書く者たちにとって、どのように福音書を閉じるかが一つの大きな問題になります。力量が問われると言ってもよい。私たちも、何らかの文章を書くとき、あるいは何らかのスピーチをしなければならないときもそうです。どのように初めて、どのように綴っていき、そして最後、どのように閉じるかが問題になります。特に、終わりの部分は重要です。終わり方によって、途中の展開の仕方も異なってくるからです。ルカはどのようにこの福音書を閉じたのか。それは、先ほどの聖書朗読の通りでありますが、ルカはこの福音書を、主イエスの祝福でもって閉じているのです。

半年ほど前になりますが、私はある牧師の講演を聴く機会がありました。説教に関する講演です。私たち牧師が説教をする際に、心掛けるべきことはどんなことか。もちろんその答えはいろいろと考えられますが、その講演をされた牧師は、主イエス・キリストと出会うことができる説教になっているかが大切だろう、と言われていました。説教とは、単に主イエス・キリストに関する説明を聴くのではなくて、主イエスのことを肌で感じ取ることができることが大切である。私もそう思います。

その講演をされた牧師は、続けて例として、四つの福音書を取りあげられました。この福音書を書いた著者たちも、読者たちに主イエスと出会ってもらいたいと思って書いた。そのことをとても大切にしている。福音書の著者たちは、単に出来事を羅列して書いたのではない。主イエスと出会って欲しいというきちんとした意図があって、ずいぶんと綿密に考え抜いて書いたのです。そのことは、ルカによる福音書から御言葉を聴いてきた私たちも、よく分かると思います。

そして講演をされたその牧師は、特にそれぞれの福音書の最後のところを取り上げます。ルカによる福音書のことを、こう評価するのです。「決して手を下げることのない祝福されている主イエスの姿」。福音書記者のルカは、この主イエスのお姿が読者たちに残るように書いた。この主イエスと出会うことができるように書いているのです。

私はこの牧師の講演を聴いて、なるほどと思わされました。主イエスは最後に祝福をされている。手を上げておられる。そしてそのまま天にあげられました。手を下げてはおられないのです。今でも手を下げずになおも上げて祝福していてくださる。ルカによる福音書の最後はそうなっているのです。

ルカによる福音書の説教をするにあたり、何度も繰り返し申し上げてきたことですが、ルカによる福音書の一大テーマは、イエスとは誰か、ということです。ルカは主イエスを少しずつ読者に紹介してきました。そしてだんだんとその答えを明らかにしてきた。イエスとは救い主、メシア、キリストだ、という答えをです。そして最後にルカが紹介する主イエスのお姿、それは今もなお祝福の手を上げ続けている主イエスのお姿なのであります。

今日の説教の一つの大きなテーマは、祝福であります。祝福を考えてみたいと思います。祝福とは何でしょうか。この祝福という言葉は、もともとは、よい言葉を語る、という意味のあった言葉です。今日の新約聖書の箇所の中で、実は祝福という言葉が三度、出てきています。

まずは五〇節と五一節です。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(五〇~五一節)。ここに祝福という言葉が二度出てきます。主イエスが私たちを祝福してくださる。そしてもう一つが、最後の五三節です。「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(五三節)。「ほめたたえていた」という言葉があります。これは実は元の言葉では、祝福すると同じ言葉なのです。

なぜこのような違いが生じるのか。よい言葉を語る、という意味を考えればよく分かると思います。神が私たちによい言葉を語る場合、それは祝福になります。神が私たちを祝福してくださるのですから。しかし人間が神に対してよい言葉を語る。人間が神を祝福する、というのでは少しおかしくなってしまいますから、人間が神をほめたたえる、讃美する、というようになるわけです。

私たちは今、祝福とは何かを考えています。祝福とはよい言葉を語ることです。神が私たちによい言葉を語ってくださる。それではそのよい言葉とは何か、ということが次に問題になってきます。ある説教者がこのように言っています。私たちはどちらかというと、祝福がよく分からないかもしれない。しかし祝福の反対語、聖書では祝福の反対語は呪いであるとはっきりと書かれていますが、その呪いならばよく分かる。その説教者はそう言うのです。呪いも呪いで、いろいろなことを言えるかもしれませんが、要するに「お前は要らない」、それが呪いということです。

祝福はその反対です。「あなたはよい」ということになります。聖書が祝福を語るときは、いつも具体的な祝福を語ります。人間一般を指して、「人間はよい」と抽象的に語るのではありません。「あなたはよい」と具体的に語るのです。本日の旧約聖書の民数記のアロンの祝福もそうでした。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(民数記六・二四~二六)。ここでも具体的な「あなた」になっています。他ならぬ「あなたはよい」。神がそう言ってくださることが祝福なのであります。

先日、渡辺和子さんという方の本を読む機会がありました。この方は、カトリックのシスターであられ、ノートルダム清心学園の理事長をされている方です。ご自身の長年の経験を踏まえ、『置かれた場所で咲きなさい』という本を最近、出版されました。ベストセラーにもなった本のようです。

全部を隅々までしっかりと読んだわけではありませんが、心に残ることがいくつか書かれていました。その中で、特に印象的だったのは、次のことです。ある学生の声が紹介されていました。政府が自殺防止キャンペーンというものをやっていた。テレビのコマーシャルで、そのような放送を流す。テレビから流れてくるキャッチフレーズの言葉は、「命を大切に」という言葉です。その学生は言うのです。「命を大切に」、「命を大切に」。もう何度も繰り返しそのことを聴かされ続けた。しかし「命を大切に」と千回聴かされるよりも、たった一回でも、「あなたは大切だ」と言われた方がどんなによいことか。この本の中で、このような学生の声が紹介されていました。

このことからも神から祝福されることを考えることができます。神からの祝福とはそういうことです。「あなたが大切だ」、神がそう言ってくださる。「人間が大切だ」、「命は大切だ」、確かにそれも間違いではありませんが、神の祝福の仕方はもっとダイレクトです。「あなたはよい」、神がそう言ってくださるのです。

毎週日曜日の礼拝の最後に、祝祷ということを行っています。教会によっては、祝福と言っています。祝祷とは、祝福を祈祷していると言えるかもしれませんが、それよりもむしろ、祝福の言葉そのものを告げています。松本東教会では、コリントの信徒への手紙二の最後の言葉を用いて祝祷をしています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント一三・一三)。教会によっては、この言葉に加えて、今日の旧約聖書のアロンの祝福を加える教会もあります。どの教会も同じというわけではありません。

そして教会によって、祝福の仕草、祝福の動作と言った方がよいのかもしれませんが、二通りのスタイルがあります。一つは、両手を上げて行うスタイル。もう一つは、片手を、それも右手を上げて行うスタイルです。松本東教会では後者、右手を上げるスタイルで祝祷をしています。

なぜこのようなスタイルの違いがあるのか。聖書的な根拠がやはりあります。両手を上げて祝福をする根拠は、まさに今日の聖書箇所です。五〇節にこうあります。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。」(五〇節)。ここに「手」という言葉が出てきます。日本語だとよく分からないのですが、元のギリシア語の言葉では、両数形、複数形と言ってもよいですが、そのような言葉になっています。つまり、両手ということです。主イエスが両手を上げて祝福された。だから牧師もそれに倣って両手を上げるのです。

それに対して、片手、右手を上げる場合の聖書的な根拠は何か。マタイによる福音書の第二五章の箇所です。ここにはすべての民族を裁く話が記されています。比喩的に語られていますが、羊と山羊を分ける話です。羊が右側に、山羊が左側に分けられます。右が祝福された者たち、左が祝福ではなくいわば呪われた者たちです。この話に今日は深入りをしませんが、右側が祝福された者たちなのです。ですから、牧師はこの話をもとにして、右手を上げて祝福する。あなたがたは右側の者たちであるという意味を込めて、右手を上げるのです。

私が以前、別の教会における話ですが、祝福の右手の話をしたら、それを聴いていた教会員の方が、果たして私は右側か左側か、右側などとはとても言えないから左側ではないか、などという話を始められてしまいました。しかし礼拝に来る、説教を聴く、そして祝福を受けるということがすでに起こっているのですから、もうそのような問いは消えるのです。右側の者として、すでに祝福されている。神が「あなたはよい」と言ってくださった。神が私たちに保証を与えてくださったのです。


このとき、主イエスの弟子たちは主イエスに両手を上げていただき、祝福していただきました。「あなたがたはよい」、主イエスがそう保証してくださった。やがて弟子たちは使徒になります。使徒とは遣わされた者という意味です。各地に派遣されて、伝道をし、教会を建てていく。これから使徒になるにあたって、主イエスから「あなたはよい」と言っていただいた。この保証があったから、弟子たちはその後、歩んでいくことができたのです。

今日の聖書箇所は、最後の箇所でもありますし、主イエスと弟子たちの別れの箇所でもあります。今日の説教の説教題を「別れなき別れ」と付けました。弟子たちが主イエスとお別れをする。イエスさま、どうもお世話になりました。もう会えないのですか、と悲しみのうちにお別れをしたのではありません。確かにお別れはお別れでした。主イエスが天にあげられる。でも、これは別れなき別れです。「あなたはよい」と主イエスが言ってくださった。保証をしてくださった。そのことがあったからこそ、弟子たちはここで大喜びをしているのです。

先週、私たちに与えられた聖書箇所になりますが、この一つ前の箇所の四九節にこうあります。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(四九節)。少し謎めいたことを主イエスが言われているように感じられるかもしれません。「高い所からの力」とは、聖霊のことです。実際にそのことが起こるのは、使徒言行録に入ってからの話となります。

今週でルカによる福音書を終えて、来週から使徒言行録に入ります。イエスとは誰か、ということが、ルカによる福音書のテーマであると先ほど申し上げました。その続きである使徒言行録のテーマは、教会とは何か、というのが最大のテーマです。使徒たちが教会を建てていく。主イエスを信じる者たちがそこに集まってくる。そこに祝福があるのであります。主イエスが今もなお、手を上げて祝福をしてくださっている。それが教会です。私たちの教会もそうです。主イエスが両手を上げて祝福されている中を、私たちも歩むことができるのであります。