松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年4月21日(日)
説教題「心を開き、神を知ろう」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第24章44節〜49節

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

旧約聖書: ホセア書 第6章1〜3節

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所の四七~四八節にこうあります。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(四七~四八節)。

この日本語の言葉に注目をしてみたいと思いますが、今、お開きになられている新共同訳という翻訳の聖書では、「…あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。」というように、ここに句点、丸が付けられています。そして「エルサレムから始めて、」というように、ここに読点、点が付けられています。そして「あなたがたはこれらのことの証人となる。」に続いています。つまり、新共同訳聖書では、あなたがたはエルサレムから始めて証人となる、という意味です。

しかし聖書にはたくさんの翻訳がありますが、句読点の付ける位置が、新共同訳聖書とは違っています。他の聖書の翻訳では、「エルサレムから始めて」というのが、前の文章に付いています。つまり、エルサレムから始めて、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる、となっているのです。

あなたがたがエルサレムから始めるのか。それともエルサレムからあらゆる国の人々に宣べ伝えられるのか。どちらなのか判断をつけるのは簡単なことではありません。新約聖書はギリシア語で書かれましたが、古代のギリシア語は、単語の羅列です。点も丸もありません。ですから、間に挟まれた「エルサレムから始めて」というのがどちらに付くのか分からないのです。

しかしどちらに付こうとも、聖書が言っていることは同じであると思います。ルカによる福音書は、最後に弟子たちがエルサレムに集まっています。そしてルカによる福音書の続編であります使徒言行録は、エルサレムから始まっています。エルサレムから全世界へ、弟子たちが派遣されていくのです。主イエスが今日の聖書箇所で、そのことをあらかじめ言われているのです。

主イエスが四七節のところで、「あらゆる国の人々に伝えられる」と言われました。弟子たちはそれを聴きました。それを弟子たちが最初に聴いたとき、弟子たちはどう思ったでしょうか。本当だろうか、と思ったのではないかと思います。主イエスが言われるように、本当にあらゆる国の人々、全世界に伝えられるなどと思っていたでしょうか。おそらく、そんなことまで考えていなかったと思います。

弟子たちはやがて使徒と呼ばれるようになりました。主イエスの弟子は弟子ですが、使徒というのは、派遣された者、という意味です。弟子たちはエルサレムから各地へ遣わされて、伝道をしました。

まず伝道をしたのはユダヤ人たちに対してです。弟子たちはユダヤ人でしたから、当然、自分たちと同じ民族に伝道をしたのです。そんな中で、主イエスの弟子のペトロが、コルネリウスという人に出会います。コルネリウスはユダヤ人ではなく、外国人です。聖書では外国人のことを異邦人と言います。ペトロたちはそれまでユダヤ人たちに伝道をしていましたから、異邦人にその範囲を広げていいのだろうか、異邦人に洗礼を授けてよいのだろうか、という問題が起こります。エルサレムの教会で会議まで開かれました。

その会議の中で、会議の出席者たちは神の御心を問いました。その結果、異邦人にまで救いが広げられることが神の御心であることが分かり、異邦人伝道が積極的になされるようになりました。その際に用いられて活躍したのがパウロです。パウロが伝道者として選ばれるとき、こんな言葉が使徒言行録に見られます。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒言行録九・一五)。

パウロは異邦人伝道のために選ばれたと言っても過言ではないと思います。パウロによって、ついに福音がその当時の世界の中心地ローマにまで到達した。使徒言行録の最後はそのように閉じられています。使徒言行録もルカが書きましたから、ルカはここで筆を置いたのです。ああ、ついにローマに到達したのだ。おそらく、ルカはこのように書いて、一区切りをつけたと思います。

しかしルカの思いをはるかに超えて、福音は広がっていきました。その後の教会の歴史を見ると、そのことは明らかです。ローマの中心に到達しただけではない。その後、およそ三百年かけて、ローマ帝国内でキリスト教が公認されるようになりました。その後、ローマ帝国の国の宗教にもなった。そのことを喜ぶ当時の教会の人たちも大勢いました。神さま、万歳というような文章を書いている人もいます。この人たちも、ここまで福音が広がったということで、一区切りをつけたのだと思います。

ところが、ローマ帝国が衰退していきます。だんだんと国が傾いてくる。北方のゲルマン人たちの侵入を何度も許すようになります。そうなると、ゲルマン人たちを無視して生活できないようになります。ゲルマン人たちへの宣教師も現れました。ゲルマン人への伝道がなされ、やがてヨーロッパ全体へと広がっていくのです。

その後の歴史においても、それまでの人間の思いを超えて、どんどんと福音が広がって行きました。あるときは植民地政策や奴隷貿易という負の歴史から、福音が広げられることもありました。宣教師たちが世界各地へ派遣される時代もありました。日本には江戸時代に、イエズス会のフランシスコ・ザビエルがやってくる時代もありましたが、本格的な伝道は明治時代からです。世界宣教の時代に、たくさんの宣教師たちがやってきました。

こうして世界中に福音が広がって行ったのです。全世界へ広がって行ったのは、本当にごく最近です。十九世紀や二〇世紀になってからと言った方がよいでしょう。主イエスのかつてのお言葉が、今ようやく実現しつつあると言ってもよいかもしれません。急速に広まったからこそ直面している困難も今、多くありますが、弟子たちが最初に聴いたときには信じられないくらい、本当に世界中に広がっていったのです。

エルサレムから始まり、あらゆる国の人々へ広がっていったのですが、なぜこんなにも広まったのでしょうか。どうして失速して、消えてなくなるようなことはなかったのでしょうか。その原動力はもちろん神の力と神の導きによりますが、それらは聖書を通して働きました。原動力は聖書であると言ってもよいのです。世界に広まっていくために、どうしても必要だったのが聖書なのであります。

このことは少し考えてみると、よく分かると思います。主イエスの直接の弟子たちは、このとき復活された主イエスにお会いすることができました。その目で見て、耳で話を聴くことができた。なるほど、この弟子たちが信仰を得るのは当然かもしれない。今日の聖書箇所にも、主イエスが彼らの心の目を開いてくださったということが書かれています。

それでは私たちはどうでしょうか。来週の聖書箇所はこの次の箇所です。ルカによる福音書の最後のところです。主イエスが天にあげられる。もう主イエスは地上にはおられない。私たちは主イエスに直接、お会いすることはできません。直接、話を聴くこともできません。そんな私たちを主イエスと結び付けてくれるのが、聖書であります。

来週はルカによる福音書の本当に最後の箇所から御言葉を聴きます。今日の聖書箇所は、最後から二番目のところになります。そしてよく考えてみると、今日の箇所に記されている主イエスのお言葉が、ルカによる福音書では最後の言葉ということになります。最後に主イエスが何のことをお語りになられたのか。聖書のことをお語りになられました。

四四節にこうあります。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(四四節)。ここに「モーセの律法と預言者の書と詩編」と主イエスが言われていますが、これは私たちの言う旧約聖書のことです。当時はまだ新約聖書が成立していませんでしたから、聖書全体のことを指しています。

この聖書全体のことを、主イエスの弟子たちも本当の意味には理解していなかった。だから続く四五節のところで、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(四五節)という言葉が記されるのです。

弟子たちがそうだったように、このことは私たちも同じであります。私たちも聖書を読んでもよく分からないときがあります。もちろん日本語ですから、読むことはできる。しかしどうもよくその真意が分からない。心の目が閉じているように感じるときがあります。開いていただく必要があるのです。弟子たちがそうだったように、これは時代が経っても変わらないことであります。

私たちは主イエスに直接お会いすることはできません。直接、話を聴くこともできません。しかし私たちには聖書があります。そして聖書を悟らせていただくことができるように、心の目が開かれる。このことは今も昔も変わりません。世界に福音が広がっていく際に、聖書がこのように原動力となったのであります。

先週の日曜日の午後、教会でノアの会という集会が行われました。この会は老若男女、誰でも参加することのできる会です。いろいろなテーマを設定して行っていますが、先週は「祈りについて(実践編)」を学びました。私が話をいたしましたが、祈りを習慣化するために、いろいろな方法をお話しいたしました。その中に、ローズンゲンという小さな書物を用いる方法をお話しいたしました。

ローズンゲンは「日々の聖句」という言葉が表紙に印刷されています。文字通り、その日ごとに、短い聖書の言葉が印刷されています。旧約聖書、新約聖書から一箇所ずつです。開いて読むだけなら、わずか十秒ですることができる、とても手軽な本だと思います。このローズンゲンを読んで、祈りに導かれる習慣があるとよいという話をいたしました。

けれども、困難を覚えられる方もあるかもしれません。かつての私もそうでありました。私の書斎に、過去十年分くらいのローズンゲンが並んでいます。昔は、読むには読んだけれども、どうもその日の聖書の言葉がよく分からないというようなことも多くありました。ローズンゲンを読んでも、目を開かれる思いがしない。もっともローズンゲンに限らず、たとえば信仰を持ちたいと願って聖書を読むけれども、どうも言っている意味がよく分からないということも多いと思います。

なぜ聖書を読んでも分からないのでしょうか。どうしたら分かるようになるのでしょうか。ローズンゲンを読んでいても、あまりよく分からないのは、もっともな理由が一つあります。それは、ローズンゲンは短い聖句になっていますが、短い箇所が切り取られた分、聖書の文脈から切り離されてしまっているという理由が挙げられます。ローズンゲンを読んで分からなくても、聖書を開いて文脈を読んでみると、分かってくるかもしれません。

聖書には文脈があります。そして聖書全体にも流れがあります。これが大きなポイントです。聖書のどの箇所を取り出して読んでみたとしても、聖書全体の流れからその箇所を理解する。聖書全体を把握しておくことが大事であります。

このことは、本日、私たちに与えられた聖書箇所の主イエスの言葉を理解するためにも、重要であると思います。主イエスが聖書を悟らせて心の目を開かせるために言われた言葉が、四六~四七節にあります。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」(四六~四七節)。

主イエスがここで言われていることが、聖書全体の流れをひと言で言ってくださっている言葉です。この言葉から、聖書は本当に単純なことを語っていることが分かります。私たち人間を罪から救うメシア、救い主がおられる。そのお方が十字架で苦しまれ、死んで、三日目に復活された。そしてそのお方こそイエス・キリストであり、イエス・キリストによってあなたがたの罪が赦された。聖書全体はそのことを伝えています。

聖書はこういう救いの筋道を語っています。私が説教でいつも語っていることも、この救いです。しかし聖書にそう書いてあるからと言って、あるいは私がそのように説教を語るからと言って、直ちに信じるということにはなりません。聖書や説教の言葉は、魔法のような言葉ではないのです。

そこで、四五節にあります「心の目」という言葉に注目をしてみたいと思います。心の目とありますが、元のギリシア語ではギリシア人たちもよく使った言葉で、「知力」とか「理性」という意味の言葉です。何かを理解するための力です。新約聖書では、ヨハネの黙示録にも出てくる言葉です。ヨハネの黙示録には、謎のような言葉がたくさん出てきますが、それを理解するための「知恵」のことです。つまりこの「心の目を開く」とは、知恵が与えられること、理解力が与えられることです。

しかしこれは単なる理解力ではありません。聖書を読んで、ああ、なるほど、分かったと思う。それ以上のことです。先週の聖書箇所になりますが、三一~三二節にかけてこうありました。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」(三一~三二節)。

「目が開け」という言葉や「聖書」という言葉も出てきます。二人は目が開かれた。ああ、聖書が分かったというだけではありません。主イエスのことが分かったのです。主イエスと出会ったということが分かったのです。ここで言っている「心の目が開く」というのはそういうことなのです。理解することよりもさらに進んで、主イエスとの出会いが与えられることなのです。

主イエスはこの後、天に挙げられます。主イエスと目で見る形では直接、出会えなくなります。主イエスから直接、耳で話を聴くこともできなくなります。けれども、私たちには聖書が与えられています。聖書を理解することができる。心の目を開かせていただく。主イエスと出会わせていただく。それが聖書の力です。

私たちに与えられているのは、そういう力のある聖書です。世界に福音が広まるために、この聖書がどうしても必要でした。神が与えてくださったものです。主イエスが私たちのために残してくださった、最大のプレゼントなのです。