松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年4月14日(日)
説教題「復活の証拠」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第24章36節〜43節

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

旧約聖書: 出エジプト記 第4章1〜17節

本日の説教の説教題を「復活の証拠」と付けました。このような説教題からどのような印象を受けるでしょうか。復活の証拠があるのか、と思われた方もあるかもしれません。こんな説教題を掲げてしまったからには、この説教の中で、復活に関する何らかの証拠を示さなければならないのかもしれません。

結論から先に申し上げますと、復活の証拠はない、と言わざるを得ません。主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、三日目にお甦りになられました。墓が空っぽだったとか、女性たちに現れたとか、弟子たちと出会ってくださったとか、聖書にはいろいろな出来事が記されています。しかし目に見える形では、何も証拠は残っていません。

ただ一つだけあるとすれば、主イエスがお甦りになったという事実です。それだけです。たった一粒だけですが、復活の実りが実ったということが、その証拠です。聖書の中には、キリストは復活の初穂である、という表現があります。初穂とは、最初の実りのことです。

松本では今、桜が満開です。桜の花というのも、つぼみが膨らんできますと、そろそろ咲くことが分かります。その中で、最初に花を咲かせるものがあります。それが初穂です。そして初穂に続けて、次々と花を咲かせていきます。初穂が咲けば、その後が続々と続くことが分かります。復活もそうです。キリストがお甦りになられたのだから、私たちもその後に続々と続くことができる。今はまだ初穂だけしか咲いていないかもしれませんけれども、私たちがその後の実りになれる。キリスト者はそのことを信じています。

したがって、主イエス・キリストが復活の証拠になります。証拠と言っても、今の私たちには目で見ることはできません。キリストがお甦りになられたという証言があるだけです。目に見える証拠を見せてごらんなさい、と言われたら、やはり困ってしまいますが、私たちに与えられているのは、キリストがお甦りになられた、ということです。それが唯一の証拠になります。

このように、私たちの信仰のすべての土台は、主イエスの復活になります。だからこそ、私たちは主イエスがどんなふうにお甦りになられたのか、しっかりとそのお姿を見る必要があります。私たちは死んだ後、どのように復活するのか、関心を抱くかもしれません。いろいろな空想を膨らませてしまうかもしれません。しかし空想を膨らませる前に、復活された主イエスのお姿に目を留めたいと思います。私たちが初穂に続く実りであるならば、初穂に目を留めるのは当然のことです。

主イエスはどのようなお姿で復活されたのか。肉体をお持ちの状態で復活されました。肉体の復活です。先ほども私たちは告白いたしましたが、使徒信条では「体の甦り」と言います。単に「甦りを信ず」ではないのです。体の甦りです。使徒信条は、もともとはラテン語で知られています。あるいは古いものでギリシア語もあります。それらで使徒信条を見ますと、「肉の甦り」となっています。肉体の復活です。使徒信条は、私たちキリスト者が何を信じているのか、端的にそのことを表した信仰の言葉ですが、はっきりと肉体の復活を言っているのです。単なる霊的な復活ではないのです。

人間が死んだらどうなるのか。今まで、多くの人たちがそのことを考えてきました。すぐに思い浮かべるのは、霊における復活、霊的な復活です。肉体は滅びてなくなる。肉体はなくなってしまうかもしれないけれども、魂だけで霊的に死後も生きるのではないか。世界中で多くの人たちがそう考えて来ました。日本人もそうと言えるかもしれません。

そして主イエスの時代、思想的なことをリードしていたギリシア人たちです。ギリシア人たちもそう考えていました。特にギリシア人の思想的なリーダーはプラトンという哲学者でした。主イエスよりもずっと前の時代の人です。プラトンはこう考えていました。人間の肉体は牢獄である。人間は、洞窟の中で、鎖に縛られて、後ろからろうそくの火を投影されている状態である。洞窟の壁には影が映っている状態です。人間が肉体を持って生きている間は、このような状態に置かれているとプラトンは言います。肉体が魂を閉じ込めている牢獄だからです。

したがって、ここから救われるためには、洞窟の鎖をはずし、洞窟の外に出る必要があります。人間の救いは、この牢獄から出ること、つまり肉体から脱却して、魂が霊的な世界へ行くことであると考えるのです。肉体は人間の魂を閉じ込める牢獄である、プラトンはそう言うのです。

これはプラトン一人が言っているのではありません。多くのギリシア人、そして主イエスと同時代の人々の多くも、そのように考えていました。肉体は牢獄である。考えてみると、確かにそんなところがあるかもしれません。私たちは肉体を持って生きている。肉体があるから、痛みを感じます。病にもなります。あるいは肉の誘惑にさらされることがあります。誘惑に負けてしまうこともあります。

こういうふうに考えると、肉にまるで良いところがないかのように思えてしまいます。ギリシア人はそう考えました。肉体を軽視する。そしてギリシア人だけではありません。世界中の多くの人がそう考えたのです。この肉体には救いなし。だから肉体から離れた復活を考えるのです。

そのような考え方が根強かった中で、聖書はまったく違う復活を書きました。肉体の復活です。肉体を脱却して霊的に復活する、というのではありません。もっとも聖書が新しい思想を自分で勝手に作り上げたというよりも、主イエスが肉体をもって復活した事実を記すのです。

体の甦り、肉体の復活。主イエスが肉体を持ってお甦りになられたゆえに、教会は最初からそのことを宣べ伝えてきました。当時の人々の考えとはまるで違うことを説いてきたのです。私たちはもしかすると、昔の人はまだ科学が発達していないから、迷信のようなものを信じやすかった、信仰を持ちやすかったと、いささか失礼にも、誤解してしまうかもしれません。しかしそうではないのです。最初から、教会は私たち人間の常識を超えることを言ってきました。肉体の復活はその最たるものです。

この福音書を書いたルカが、本日、私たちに与えられた箇所で一生懸命に書いていることは、主イエスが肉体を持って、本当にお甦りになられたということです。三七節にこうあります。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(三七節)。亡霊という言葉が出てきています。これは元の言葉では、実は単に霊という言葉です。霊は霊でも、彼らは亡霊だと思った。幽霊と言ってもよいでしょう。肉体のように見えるけれども、そんなはずはない。主イエスが亡霊か幽霊にでもなってお甦りになられたのかと勘違いしたのです。

それに対し、主イエスは肉体を持って復活されたことをお示しになられました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(三九節)。主イエスがそう言われた通りです。

また、ルカはもう一つの、主イエスが本当に肉体を持ってお甦りになられたことを書いてくれました。それが、魚を食べられる出来事です。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」(四一~四三節)。肉体があるからこそ、食べ物を食べることができます。亡霊や幽霊ならば、そんなはずはありません。本当に主イエスが肉体を持って復活されたのだ、ルカは一生懸命、そう書くのであります。

ルカだけでなく、聖書は一生懸命、肉体の復活を記しています。なるほど、確かに聖書を読むと、そのことが分かるかもしれない。しかし私たちにとって、一体どんな意味があるのでしょうか。そもそも肉体とは何でしょうか。

私たちは肉体を持って生まれます。人間は肉体に加えて、心、魂、霊などがあると考えられています。しかし肉体を切り離して生きることはできません。肉体は、生まれたばかりは小さいわけですが、時とともに成長していきます。ある年齢で肉体的にはピークを迎え、そしてその後は衰えていきます。肉体が健やかなときもあれば、病になることもあります。

肉体について、いろいろなことが言えると思いますが、どんなことを言ったとしても、私たちの肉体は私たちの生活そのものです。私たち人間は肉と共に生活をします。肉なしの生活はあり得ないわけです。

昨日、新聞の読者からの投稿欄に、こんな声が載せられていました。高校三年生からの投稿です。以前、自分はストレスから心を病んでしまい、それと共に体も不調になってしまった。心と体は密接な関係があることに気付いた。不調にもかかわらず、家族に助けられてここまで歩むことができた。そんな自分にも夢がある。管理栄養士の資格を取って、その仕事に就きたい。なぜかと言うと、心の問題で苦労している人に、食事を提供することで健康になってもらいたいからだ。食という体のことで、心も健やかになってもらいたい。そんな投稿が載せられていました。

この高校生が言うように、私たち人間の体と心は一つです。切っても切り離せない関係で結ばれています。聖書的に言うと、肉と霊、あるいは魂は一つであると言えます。決してどちらか上とか下とかではないのです。私たちの肉体もまた、神によって与えられた大切なものです。

主イエスが肉体においてお甦りになられた。聖書はそう私たちに伝えています。肉体における復活の意味は大きいと思います。しかもルカによる福音書が伝えている主イエスの肉体の復活は、食事の場面が多くなっています。今日の箇所もそうです。そして先週の箇所もそうでした。

先週の箇所は、エマオという町に主イエスの二人の弟子たちが向かっていたときに起こった話です。二人で歩いていると、いつの間にか三人目が加わっていた。それが最初は誰だか分かりませんでした。その三人目の人から、聖書の説きあかしを聞く。そして一緒に宿を取ることになる。宿屋で、食事の席で、パンを裂いているときに、それが主イエスだと分かった話です。やはり食事の話であります。

食事は、私たちは一日に三度、取っていますが、やはり生活の中心です。私たちに肉体にとって最も必要なことです。その中心部分に、復活の主イエスが来てくださった。肉は生活そのものであると先ほど申し上げました。主イエスはその肉をまとわれて、お甦りになってくださったのです。

このことから、私たちの救いが一体どこにあるのかが分かります。私たちの救いは、どこか別次元の世界にあるのではありません。どこか別の世界に行くことが救いなのではありません。まるで違う自分になるのが救いでもありません。私たちの生活からかけ離れたところに救いがあるのでもありません。私たちの救いはここにあります。私たちが生活を送っている中にあります。主イエスが復活の肉をまとって、私たちの生活のただ中に来てくださったからです。私たちの生活の中に救いが入り込んできたのです。

主イエスは弟子たちの「真ん中に立ち」(三六節)、「あなたがたに平和があるように」(三六節)と言ってくださいました。平和という言葉は、かつての口語訳聖書では平安と訳されていました。心だけではありません。体も心も、すべてが平安なことです。主イエスが私たちのところにも来て、同じように言ってくださいます。主イエスが肉において、お甦りになられたからです。救いは私たちのすぐ近くに、生活のただ中にあるのであります。