松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年3月31日(日)イースター礼拝
説教題「最大の希望、復活」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第24章1節〜12節

 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

旧約聖書: ダニエル書 第12章1〜4節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
「キリストの墓での女性達 ( Holy Women at Christ' s Tomb ) / アンニーバレ・カラッチ ( Annibale Carracci )

「キリストの墓での女性達 ( Holy Women at Christ' s Tomb ) / アンニーバレ・カラッチ ( Annibale Carracci )
エルミタージュ美術館 蔵(Эрмитаж、Hermitage)
エルミタージュ( Hermitage )/ロシア

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今年もイースターを迎えました。主イエス・キリストが死者の中からお甦りになられた日です。先ほど、子どもたちにお話をしたように、イースターの日だけでなく、毎週日曜日、教会では主イエスの復活を祝っています。教会に集まって礼拝をするのは、この日、主イエスがお甦りになられた日だからです。イースターの今日は、日曜日の中でも最も日曜日らしい日と言えます。

教会の信仰者は、もしかしたらこの最も信じがたいかもしれないこと、主イエス・キリストの復活を信じてきました。教会の信仰は、この最も信じがたいことが土台となっています。キリストがお甦りにならなかったとしたら、その後の教会が生まれなかったことは確実です。誰かが、イエスという偉大な人物がいて、こんな優れた教えを語ったというような書物は残したかもしれませんが、それ以降、イエスの名は永久に忘れ去られてしまったでしょう。キリストの復活がなければ、教会もなかった。ここに教会が建てられることも、ここに私たちが集まることも、なかったのであります。

この信じがたいことを、どうして信じることができるのでしょうか。確かに私たちも信じるには時間がかかったかもしれません。私は信じるようになったけれども、あの人にも信じてもらいたいと思っている。けれども、なかなかあの人が信じるに至らないと悩んでおられる方もあるでしょう。しかし信じがたいことだからこそ、私は信じる価値があると思っています。あり得そうなことだったら、何も別に信じる必要はない。人間の力ではあり得ないことだからこそ、信じる価値があるのだと思います。

教会にいる信仰者は、別に死者の復活という現象を信じているのではありません。神とはまったく無関係に、どこかの山の奥地で復活した人がいると聞いても、私は信じないと思います。信仰者が信じているのは、父なる神がイエス・キリストを復活させてくださったことです。現時点では、まことに復活したお方はただ一人、イエス・キリストだけだということ。そして将来、キリストがお甦りになったように、私たちも復活させていただくということ。私たちはそのことを信じている。神がそのようにしてくださると信じているのです。

この信じがたいかもしれないことを、聖書はどのように私たちに伝えているのでしょうか。本日、私たちに与えられたルカによる福音書は、第二四章の最初の箇所になります。松本東教会では、ちょうど三年前から、ルカによる福音書から御言葉を聴き続けてまいりました。いよいよ最後の章、第二四章に入ります。今日と、そして来月の四月いっぱいで、ルカによる福音書を終えることになります。

終わりを迎えるにあたって、主イエスの復活の出来事が記されているのが、第二四章だけしかない。そのことに少し拍子抜けをしておられる方もあるかもしれません。ルカによる福音書を書いたルカは、あれだけ一生懸命、主イエスの教えや出来事を綴ってきました。特に十字架に至るまでの数日間の出来事は、詳細に描写されてきました。言葉を尽くして、多くのページを割いて、記してきた。いよいよ主イエスが十字架にお架かりになり、息を引き取られた。先週、私たちに与えられた第二三章の最後の箇所に書かれていたことです。

その第二三章の一番最後のわずか一行にこうあります。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(二三・五六)。これは土曜日のことです。金曜日に主イエスが十字架にお架かりになり、死んで葬られます。翌日の土曜日の記述はわずか一行。そして今日の箇所から日曜日の記述になります。主イエスが復活された日の記述ですが、これも分量としては多くはありません。第二四章の前半部分だけが、日曜日の記述となります。

どうして主イエスの復活の記述はこんなにも短いのでしょうか。ルカによる福音書の全体が二四章から成りますが、最後のわずか一章だけが復活の記述です。他の福音書も、ルカによる福音書よりも、もう少し分量は多い福音書もありますが、似たようなものです。なぜ聖書にはこんなにあっさりと復活のことが書かれているのか。

聖書は、復活を証明しようとしている書物ではないからです。言葉を尽くして一生懸命、証明したり、説明したり、読者を説得しようとしているのではないのです。復活は証明することはできません。復活がなかったと証明することもできません。神は私たちにどちらの証明も与えてくださいません。これは信じるか、それとも信じないか、その二者択一だからです。信じるとは、証明はできないけれども、それでも信じるということなのです。信じないとは、証明はできないけれども、そんなはずはないと考え、信じないということなのです。

証明ができないと申し上げましたが、ためしに、私が皆さんを説得することを試みたいと思います。イエス・キリストの復活があったのかどうか。主イエスの弟子たちのことを考えてみましょう。主イエスの弟子たちは、たとえ死ぬようなことがあったとしても、最後まで主イエスについて行くと、勇敢にも宣言していました。しかし、十字架の前夜、木曜日の夜、主イエスが逮捕されますが、弟子たちは見捨てて逃げてしまいました。

ところがです。主イエスの十字架の出来事が起こってから数十日後、弟子たちは伝道を開始しました。イエスが復活した、イエスこそ救い主だ、そう宣べ伝えたのです。今回も途中で挫折してしまったかと言うと、そんなことはまったくありませんでした。脅されようが、鞭で打たれようが、伝道することをやめなかった。弟子たちの多くは、最後は殉教の死を遂げたと言われています。弟子たちがまるで別人となり、一八〇度、方向転換をしたわけですが、なぜ弟子たちはこんなにも変わることができたのでしょうか。それは主イエスの復活しかあり得ない。復活された主イエスにお会いして、本当にこのお方が救い主であると信じるようになった。だから復活はあったのだと、皆さんを説得することができるかもしれません。

また、別の説得方法もあります。ルカによる福音書もそうですが、最初に主イエスの墓に赴いたのは女性たちです。ルカによる福音書だけでなく、他のすべての福音書もこれは同じです。お墓が空っぽだった。最初にそれを発見したのは女性たちだったのです。ルカによる福音書にはありませんが、最初に復活の主イエスにお会いしたのも女性たち。主イエスの復活が伝えられていくのにあたり、最初にいたのは女性たちだったのです。

もしも主イエスの復活が事実ではなく、言葉は悪いですが、復活がでっち上げられたとすれば、こんな仕方では絶対に福音書が書かれなかったはずです。女性に失礼な言い方になるかもしれませんが、当時はあまり女性の証言というのは公的には重要視されませんでした。復活をでっち上げたいのならば、女性ではなく男性にやらせた方がよい。

先週の箇所に、アリマタヤのヨセフという男性が出てきます。この人は議員です。男性で地位のある人です。この人が自分の墓を主イエスの埋葬のために提供しました。自分の墓を後日、見に行ったら、墓が空っぽで、しかも復活された主イエスにお会いした。「私、アリマタヤのヨセフが断言する」とでも新約聖書に書かれていた方が、信憑性があったと思います。しかし福音書はそんなことはしていない。女性たちの証言をそのまま用いている。このような書かれ方からしても、やはり復活はあったのだと考えた方が自然です。

二つの方法で、皆さまの説得を試みてみました。説得力があったでしょうか。ある程度の説得力があったかもしれません。いやいや、自分は説得されないぞ、とお考えの方もあると思います。

しかし私がやったようなことを、聖書はまるで書いていない。聖書はそういう説得には興味がないのです。聖書は証明も説得もしていない。ただ、主イエスがお甦りになったことを伝えている。墓が空っぽであった、復活された主イエスにお会いした。人々のそういう証言を伝えているだけなのです。

しかもその証言をした人たちもまた、最初から固く信じていたわけではないのです。最初はまったく信じていなかった。死んだらそこでおしまい。みんなそう考えていたのです。第二四章の最初に書かれているのは、そういう人たちの様子です。

まず最初に出てくるのは女性たちです。日曜日に、お墓に赴きます。しかし墓は空っぽでした。「輝く衣を着た二人」(四節)から、主イエスがかつてお話になったことを思い出しなさいと言われます。女性たちは半信半疑ながらも、ようやくそのことを思い出しました。

弟子たちは、その女性たちから、墓が空っぽだとの証言を聞きました。弟子たちはたわ言だと思いました。女性たちの証言を信用しなかったのだと思います。弟子の一人のペトロは、それでも何かひっかかるところがあって、走って墓へと行きます。そして本当に墓が空っぽだったのを見て、ただただ驚いて帰っていくのです。

誰もが、そんな馬鹿な、そんなはずがないと思ったのです。最初は信じるどころではなかった。半信半疑でさえなかった。まったく信じていなかった。そんな者たちが、やがて信じる者になっていくのであります。

ここでの弟子たちや女性たちの姿は、私たちの姿でもあると思います。私たちは一体なぜ信じるようになったのか。そのことを考えてみるとよいでしょう。誰かから、巧みな言葉を聴いたからでしょうか。その言葉に、説得力があったからでしょうか。そうではないと思います。先ほどから申し上げていますように、復活を証明することはできません。証明も説得もされずに、私たちは信じるようになった。その際に、私たちの身近にすでに信じている者たちがいた、ということが、とても大きかったのではないかと思います。

私は時々こんな相談を受けることがあります。自分の家族や友人に信仰を伝えたい。主イエスのことを伝えたい。けれども自分はどうも口でうまく伝えることができない。相手の問いに対して、うまく答えることができない。自分はどうも言葉が巧みでない。相手を説得できない。説明できない。どうしたらよいだろうか、という相談です。

私はこのように答えています。確かに相手に言葉を尽くすことは大切なことである。しかしたとえ私たちが巧みな言葉を用いることができたとしても、相手の問いに上手に答えることができたとしても、その人がそれで信仰を持つかだろうか。復活のこと、奇跡のこと、救いのこと、信仰のこと、たとえ言葉を尽くして説明できたとしても、相手が信仰を持つかどうかは、また別問題である。そう答えております。

私たちが人に信仰を伝える際に、案外大事なのは、自分の生きる姿勢であります。自分は信じて生きているのだ、復活を信じているのだ。その姿勢であります。相手にとっては、信じていいのか、信じるに値しないのか、その狭間に立っているところで、すでに信じている者たちがいる、このことが何よりも大きな影響力になると思います。そういうところから、静かに信仰が生まれてくる。最初はまったく信じていなかった者が、だんだんと信じるようになっていくということが起こるのです。

主イエスの弟子たちのように、イエス・キリストが復活しただなんて、たわ言だと今もなお思っておられる方も大丈夫です。最初はみんなたわ言だと思ったのです。そんな馬鹿なと思っていたのです。

しかしだんだんと静かに信仰が染み渡っていった。証明をされてではない。説得をされてでもない。どういうわけか、信じるようになった。私たちが信仰を持つことは、人間では説明がつかない。なぜあなたは信じているのかと聞かれて、私たちはまともに答えることができない。ただ信じる心があるからだけだと答える以外にないのです。信仰とはそういうものです。私たちを超えたもの。神から与えられたとしか言いようがないものなのです。

この復活を信じること、これは最大の希望を持って生きることでもあります。イエス・キリストが復活された。イエス・キリストの後に私たちも続くものになれる。死がすべての終わりではない。その先がある。主イエスが先駆けてお甦り担ってくださった。主イエスの復活が唯一の証拠です。そしてそれが私たちにとっての最大の希望です。証明はできません。説明もできません。しかし教会にはそのことを心から信じている者たちがいるのです。