松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年3月24日(日)
説教題「神は死の深みを知っていてくださる」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第23章44節〜56節

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。

旧約聖書: 申命記 第21章22〜23節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
「死せるキリスト ( Cristo morto ) / アンドレア・マンテーニャ ( Andrea Mantegna )

「死せるキリスト ( Cristo morto ) / アンドレア・マンテーニャ ( Andrea Mantegna )
ブレラ美術館 ( Pinacoteca di Brera )
ミラノ( Milano )/イタリア

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本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所で、主イエスがいよいよ死を迎えられることになります。四六節に「息を引き取られた」とあります。もともとは、最後の息を吐き出すという意味のある言葉です。主イエスは私たち人間と同じ死を死んでくださいました。

その主イエスの最後の言葉が「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(四六節)という言葉です。他の福音書では、「イエスは大声を出して息を引き取られた」(マルコ一五・三七)と記されています。その大声がどんな言葉であったのか、他の福音書では記録されていませんが、ルカによる福音書では記録を残してくれました。主イエスの最後の言葉が「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」だったのです。

この主イエスの言葉は、主イエスが独自に考え出した言葉ではありません。これは旧約聖書の詩編第三一編の六節の言葉です。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」(詩編三一・六)。詩編はメロディが付けられて、讃美歌として歌われることもありますが、基本的には祈りです。信仰者の祈りが集められたものであると考えてもよい。詩編第三一編もそうであります。しかもこの詩編第三一編は、就寝前の祈り、夜の祈りとして祈られることが多かったようです。

夜の祈りと言われて、私たちはどんなことを思い浮かべるでしょうか。いろいろなことを思い浮かべるかもしれません。夜に自分の死を思う。そういう方はもしかしたら少ないかもしれません。しかし詩編の祈りを祈ってきたユダヤ人たちは、私たち以上に、夜に死を思ってきました。これから眠りにつきます。眠りは死を連想します。聖書の中でもそういう表現をすることがあります。死ぬとは眠りにつくこと。逆に復活とは目覚めること。そういう表現も多くなされています。

毎日寝るとは、毎日死の準備をすることと考えるのです。そして朝、目覚めます。新しい一日、新しい命の出発でもあります。当たり前のように朝がやってきて、今日も明日も生きるというのではない。神が毎日、毎朝、命を与えてくださる。ああ、今日も生かされている。信仰者はそのように思うのです。

私事になりますが、私は朝はかなり早く起きます。家族を起さないように、静かに一人で起きます。そして書斎でしばらく過ごしたのち、息子を起こしに行きます。もうすでに日が昇っています。カーテンを開けると、明るい光が射し込んできます。息子がまぶしそうに目をこすります。ああ、この子は今日も生きている。私は毎日そう思います。今日も神によって生かされた。新しい一日が与えられた。そのように神に感謝するのであります。

このように主イエスの十字架での最後の言葉が、夜の祈りの言葉でありました。言い換えると、死を思っての祈りであります。主イエスはその言葉を言われて息絶えた。それでは私たちはどうであるか。私たちは最後に何と言って死ぬのだろうか。そんなことを考えたことのある方もいらっしゃると思います。そして最後に何と言って死ぬのか、それは私たちの生き方にかかわってきます。主イエスのような言葉を最後に言うのか、それとも犯罪人の一人のように最後まで人を罵って死ぬのか、それとこれではえらい違いです。最後の言葉に私たちの生き方が表れると言ってもよいと思います。

私が牧師になる前、神学生だった時代に、ある教会の祈祷会に出席をしていました。週の半ばの日の水曜日の夜、祈祷会に出掛けて行く。その教会の祈祷会は、人数としては十人前後でありましたが、その中に毎週必ず、ある年配の男性が出席をされていました。とても物静かな方です。ほとんど私はその方と会話はしたことがありません。挨拶はもちろんしましたが、それ以外は特に親しく話したわけではない。しかしこの方は神学生の私のために、よく祈ってくださいました。主にある交わりとはこういうものかとつくづく感じたものです。

ある水曜日、いつものように祈祷会へと出かけていくと、どういうわけかその方がいらっしゃいませんでした。他の方々と、今日は祈祷会にいらっしゃらなかったけれども、一体どうしたのかしら、という話をしました。結局、後で分かったことでしたが、その方はその日に召されていたのです。いつものように祈祷会に行くための準備を整え、家を出ようとしたときに倒れられた。意識はあったようですが、激しい痛みに襲われ、自分の死を悟った。そのときに、最後の言葉としてこういうふうに言われた。「とても楽しかった。みんなに、そして神に感謝」。その方は最後にそのような言葉を残され、召されたのです。

この方の最後の言葉は、主イエスの言葉に重なるところがあると思います。神への信頼に生きたからこそ、最後に出てきた言葉です。そして死を迎えようとしている今もなお、神への信頼のうちに死のうとしている。御手にゆだねるとは、そういうことであります。

主イエスのこの最後の言葉は、その後、多くの者たちに影響を与えました。教会の最初の殉教者のことが、使徒言行録に記されています。ステファノという人物です。ステファノはユダヤ人たちの前で説教をします。するとそれを聴いた人々が激しく怒り、ステファノに石を投げつけます。石を投げられているときにステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒言行録七・五九)と祈ります。そしてさらに「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録七・六〇)と大声で言います。ルカによる福音書に記されている主イエスの十字架での言葉と、そっくり同じような言葉を、ステファノは最後の言葉にしたのです。私は死に対してまったくの無力。何もすることができない。この飛んでくる石を払いのけることもできない。しかし最後に私ができること。それは神にゆだねることです。それが信仰であります。

このことから、信仰を持つとはどういうことかを考えることができます。信仰とは何か。いろいろな答え方ができるでしょう。神を信じること、主イエスを信じること、信じて洗礼を受けること。どれも正解です。そしてこれらは要するに、神にゆだねることです。神を信頼して、神にゆだねることです。

私たちの人生、この先どうなるのかは誰にも分かりません。神のみがご存知です。今日何が起こるのか、今週、今月、今年、何が起こるのか、まったく分かりません。いつ私たちが死を迎えるのかも分かりません。一寸先は闇と言えるかもしれません。しかし信仰を持つとそうは考えません。闇ではない。どうなるか分からないけれども、神が最もよいようにしてくださる。その信頼に生きるのが信仰であります。そして生きるだけではない。死ぬときもその信頼に生きるのが信仰です。

松本東教会では、献金感謝の祈りをする際に、決められた祈りをしています。教会によっては、献金の当番の方が自由な言葉で祈りをしていますが、私たちは毎週、同じ言葉で祈りをしています。私たちにとっては、普段から聞き慣れた祈りかもしれませんが、他の教会の方で、初めてこの祈りを聞いて感銘を受けられる方が多い。こういう祈りです。「主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべてあなたのものです。その恵みに感謝して、いま献身のしるしとして献金をおささげいたします。どうぞわたしたちのすべてをきよめて受け入れ、みこころのままにお用いください。わたしたちはあなたのものです。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」。

この祈りの中で、「生きるときも死ぬときも、…すべてあなたのもの」と祈ります。この言葉はどこから来ているかと言うと、ハイデルベルク信仰問答からです。ハイデルベルク信仰問答とは、ドイツのハイデルベルクという町で最初に作られた信仰の言葉です。問いと答えを重ねながら、私たちの信仰を言い表しているものです。一五六三年に作られましたから、今年が四五〇周年になります。四五〇年間も忘れられることなく、重んじられてきた信仰の言葉です。

このハイデルベルク信仰問答の問一と答えが、最初の問答ですから重要になるわけですが、こういう問いと答えです。「問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。この問いと答えが、四五〇年にわたって、人々に慰めを与え続けてきました。私は主のもの。それも生きているときばかりではない。死を迎えようとしているときにも、死の先でさえも、私は主のもの。ローマの信徒への手紙第一四章八~九節の言葉にしたがって、このような問いと答えが紡ぎ出されました。

なぜこれほどまでに神を信頼することができるのでしょうか。生きるときも、そして死ぬときにもです。私たちの神は信頼に値する神なのでしょうか。その答えは、私たちの神が死を知っていてくださるからです。死を経験してくださった神であるからです。十字架での主イエスの死は、神が死の深みを知っていてくださることなのであります。

私たちは、死の悲しみにさらされることがあります。その場合に、私たちは慰めを求めます。一体どこに慰めがあるでしょうか。誰に慰めを求めに行くでしょうか。牧師のところに行く、信仰の友のところにいく。なるほど、そうだと思います。聖書を読んでもらい、祈りをしてもらう。それが慰めになります。しかし牧師や信仰の友以外で考えるとどうでしょうか。おそらく、自分と同じような経験をした人のところに行くと思います。あるいは、同じような経験どころではない。自分よりもさらに深い死の体験をした人のところに、話をしに行くと思います。

今日、私たちに与えられた聖書の箇所で、この福音書を書いたルカが一生懸命、私たちに伝えていることは、本当に主イエスが死んだのだ、ということです。言い換えると、神は死を知っていてくださるということを、一生懸命、伝えている。

まずルカは、主イエスが息を引き取られ、墓に葬られたことを伝えています。アリマタヤ出身のヨセフという人物を紹介しています。この人が、正当な手続きを経て、埋葬の手順を踏んで、主イエスの葬りをしています。この日は金曜日でした。ユダヤ人の一日の数え方は、私たちとは少し違い、日没とともに新しい日が始まります。つまり、間もなく日没で土曜日になってしまう時刻でありました。土曜日は安息日です。休まなければなりません。土曜日に埋葬をするわけにはいきませんから、金曜日中に大急ぎで埋葬を済ませます。五五節のところには、婦人たちが確実にその様子を見届けたことが記されます。本当に主イエスは死なれたのだと、ルカは伝えているわけです。

主イエスの十字架での死の後には、復活が続きますので、いつまでも付きまとうことは、主イエスは本当に死なれたのか、という問いです。本当に死んだのではなく、瀕死の状態から、三日目に歩けるくらいになったのではないかと言われたり、死んだのは主イエスではなく、代わりに十字架を負わされたキレネ人のシモンだったのではないかと言われたり、いろいろなことが言われます。

しかしルカや他の福音書を書いた者たちは言うのです。そうではない。主イエスは確実に死なれ、そして葬られたのだ、と。このお方は死を経験してくださった。死をご存知なのだ。そして誰よりも死の深みをご存知なのだ。ルカたちはそう伝えているのです。

私たちが信じる神は、死の深みを知っておられる神です。私たちよりも、誰よりもその深さを知っておられます。もしも神が死をまったく知らないとすれば、どうでしょうか。私たちの死の痛み、死の悲しみ、死の悲惨さに、神がまったくの無関係であるとすれば、それは神に値しないことになると私は思います。しかしそうではないのです。神は死を知っておられる。だから私たちは生きるときも、死ぬときも、この神を信頼することができる。そこに信仰が生まれる。たとえ私たちが途方に暮れるような死に直面するときにも、私たちはこの神を信頼し、委ねることができるのです。

ルカは今日の箇所のところで、多くの者たちが十字架のもとに集まっていたことを伝えています。四七~四九節に、周りにいた人々の反応の様子が記されています。「百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」(四七~四九節)。

特に四九節に「イエスを知っていたすべての人たち」と記されています。そんなはずはない、と思われる方もあると思います。弟子たちは、何人かは残っていたのかもしれませんが、大部分は主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。しかしここでの言葉は、文字通りの意味です。すべての人たちがいた。ときどき、ルカは突拍子もないようなことを書くことがありますが、ここもそうであるかもしれません。

しかし突拍子もないような言葉かもしれませんが、私は、ここに教会の姿があると思っています。その後の教会の姿です。主イエスの十字架のもとに集まっている人たちの集い、それが教会です。先週、私たちの教会では多くの集会が行われました。いろいろな集まりがあった。何のために私たちは集まるのか。それぞれの集会ごとに、様々な目的があります。しかし主イエスの十字架がなければ、どの会も決して生まれなかった集会です。主イエスの十字架なくしては成り立たないのです。

教会は、その歴史の初めから、集まることを大切にしてきました。たとえ迫害されてもです。命の危険があってもです。教会の建物がなくてもです。人々は集まった。教会の歴史が書かれている使徒言行録の中に、こうあります。「わたしたちがパンを裂くために集まっていると」(使徒言行録二〇・七)。パンを裂くとは、聖餐のことです。私たちの教会でも、月一度ほど行っていますが、パンをいただき、ぶどう液をいただきます。パンを裂く、と言われているように、本来ならばパンの塊を裂くのです。私たちの教会もそうですが、あらかじめ切ってあるパンを用意します。しかしそのパンに、一人ずつ手が伸びていきますと、だんだんとその一塊だったパンがバラバラになっていきます。裂かれるのです。パンは主イエスの体。主イエスが十字架で体を裂いてくださったことを覚えるのです。これもまた、十字架のもとに集まっていることに他なりません。

今週は受難週です。受難週には特別な集会を行います。今週の木曜日の夜には、洗足木曜日聖餐礼拝を行います。最後の晩餐を覚えて、聖餐を祝います。また来週の日曜日は主イエスがお甦りになられたイースターです。ここでも聖餐を祝います。パンを裂くのです。生きるときも、死ぬときも、私たちが主イエスのものであるということを覚えるためにであります。