松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年3月17日(日)
説教題「神よ、私を思い出してください」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第23章39節〜43節

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

旧約聖書: イザヤ書 第49章15〜16a節




レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
「磔刑図 ( The Crucifixion ) / アンドレア・マンテーニャ ( Andrea Mantegna )

「磔刑図 ( The Crucifixion ) / アンドレア・マンテーニャ ( Andrea Mantegna )
ルーヴル美術館 ( Musée du Louvre )
パリ( Paris )/フランス

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聖書はとても不思議な書であると思います。聖書は一方で人間の手によって書かれました。例えば、使徒パウロが教会に宛てて手紙をたくさん書きました。その手紙が聖書の中に収められました。また、私たちが御言葉を聴いておりますルカによる福音書も、ルカという人物によって書かれました。テオフィロという人に宛てて、イエス・キリストによる救いを伝えるという目的があって書かれました。聖書は人間の手によって書かれた、これは間違いのない事実です。

しかし他方で、聖書は神の導きによって出来上がった書物であります。最初はバラバラでした。手紙、福音書、独立して書かれました。最初から聖書の中にまとめられるという意図などありませんでした。しかしだんだんと一つの書物として成立していきました。

聖書がまとめ上げられていく過程で、様々な考えがありました。私たちにとって、新約聖書の福音書が四つで、手紙なども含めて全体では二七巻から成ることは当たり前であるかもしれません。しかし今のこの常識は、聖書がまだ成立途中であったときは、当たり前ではありませんでした。福音書は四つなのか。四つだと主張する人もいました。いや、四つではなく一つだけだという考えもありました。いやいや、四つ以上、もっとたくさんあってよいと考える人もいました。

いろいろな考えや意見がありましたが、結局のところ、自然と福音書が四つ、新約聖書全体が二七巻となっていきました。これは神の導きです。神の導きがなければ考えられないくらい、新約聖書全体でまとまりを持っているのです。

このように聖書は、最初はそれぞれの書が独立して、パピルスと呼ばれる紙のようなものに記されました。巻物のようなものでした。そして歴史を経て、一つの書の中に、本として一つにまとめられました。同じ本の中に、四つの福音書も、多くの手紙の中も収められます。それらの中には、当然のことかもしれませんが、少々食い違うようなことが含まれます。あっちで言っていることと、こっちで言っていることが微妙に異なるのです。それならば修正すればよいと思われるかもしれませんが、聖書をまとめ上げた者たちは、あえてそのようなことをしませんでした。神から与えられた書として、そのまま手を加えることなく、聖書に残したのです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は、先週に引き続き、主イエスの十字架の場面です。四つの福音書とも、同じ十字架の出来事を伝えています。しかしその内容が少し異なるところがあります。どの福音書も、主イエスと共に二人の犯罪人が一緒に十字架に架けられたことを伝えています。これは同じです。ヨハネによる福音書では、ただ二人の犯罪人がいた事実だけを伝えています。マタイとマルコによる福音書では、二人の犯罪人とも主イエスのことをののしったと言っています。そしてルカによる福音書だけが、一人がののしったら、もう一人がそれをたしなめた、自分の行った罪を認め、悔い改めて、救いの約束をいただいた。つまり、ルカによる福音書は他の福音書と少し違うのです。

この違いをどう受け止めればよいでしょうか。合理的に考えれば、こんなふうに考えることもできるかもしれません。実際にその場にいて、目で見て耳で聞いた人が、十字架の出来事を伝えました。どのくらいの近さにいたのかは分かりません。犯罪人の一人が主イエスをののしります。そうすると一人がたしなめます。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。」(四〇節)。これがどのくらい大きな声だったのかは分かりません。最後の力を振り絞っての大声だったのか、それとももう力尽きようとしているようなか細い声だったのかは分かりません。聞いた人が、たしなめる声をののしる声と聞き違えてしまったかもしれません。

しかしいずれにしても真実は不明です。私たちにその答えは与えられていません。私たちがすべきことは、不明であるその真実を探るよりも、ルカが私たちに書き記したこの出来事をどのように受け止めるかが重要であると思います。ルカによる福音書ならば、この出来事をどのように信仰をもって受け止めるか、別の福音書ならば別の福音書が伝えている信仰の内容をどう受け止めるかが大切です。

ある聖書学者がこのように言っています。本日私たちに与えられた箇所が、ルカによる福音書では一番の中心である、と。そしてさらにこう言います。この福音書を書いたルカは、この場面をどうしても書きたくて、こんなにも長い福音書を書いた、と。その人はそう言うのです。

この聖書学者が言うように、そこまで断言することができるかどうかは分かりませんが、なるほどと思わされます。四つの福音書の中で最初に書き上げられたのはマルコによる福音書であると言われています。ルカはマルコによる福音書も参考にしながら、福音書を書いたと言われています。当然、ルカはマルコの内容を知っていました。犯罪人の二人が主イエスをののしったと書かれていることも知っていました。

そのルカが、あえて違うことを書く。そうまでしてルカはこの箇所を書いた。ルカの思いがこの箇所に込められていると言ってもよい。どうしても読者にこれを読んで欲しかったのです。テオフィロ様、あなたにとってこれが必要です。あなたのために主イエスが十字架でこのようなことをしてくださり、このようなことを語ってくださった。ルカはどうしてもそのことを伝えたかったのです。

それほど、本日私たちに与えられた箇所は重要な箇所です。たくさんのことを、この箇所から言うことができます。聖書のことを解説してくれる注解書にも、様々なことが書かれています。先週はこの説教の準備をするために、比較的多くの注解書を読みました。聖書学者がいろいろなことを教えてくれます。それらを全部取り上げるとすれば、二度も三度も説教をしなくてはならないくらいです。

そのような注解書の議論を読みながら、私はふと思いました。確かに聖書学者たちは有益な解説してくれる。いろいろな示唆を与えてくれる。しかし聖書学者たちは客観的にこの聖書を眺めている。自分はこの聖書の言葉に飛び込むようなことをせず、一歩身を引いたところから、この聖書の箇所を解説しているのだと思わされたのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所を、外から眺めるようにして理解しようとするならば、この箇所の深みを絶対に味わうことができないと思います。私たちが何よりも覚えるべきことは、主イエスたちが間もなく確実に死を迎える状況であったということです。主イエスと犯罪人の一人の対話がなされています。この対話も、死を抜きにしては語ることも考えることもできない対話です。座って食事をしながらの対話ではないのです。このことを抜きにして、聖書の議論をあれこれとするわけにはいきません。

私たちもいつ必ず死ななければならない存在です。いつ死ぬかも分かりません。先日、ある教会員の方とこんな話をしました。自分の周りの方々が身辺整理をしたいと考える人が多くなった。身辺整理とは、要するにどのように死を迎えるための備えをするかということです。身辺整理といって、何を思い浮かべるでしょうか。例えば、家には物がたくさんあって、死ぬ前までに整理をしなければならない、そんなことを考えるかもしれません。あるいは死を迎えるまで、できるだけ健康でいたい。家族に囲まれて死を迎えたい。長寿を全うしたい。長寿とまで言わなくとも、少なくとも平均寿命くらいは生きたい。いろいろなことを考えると思います。しかし自分の思い通りにならない場合もある。いくら身辺整理をしたところで、自分のプラン通りになるとは限りません。

そうなると、本当の意味で身辺整理をするためにはどうしたらよいのだろうか、ということになります。どのような死でも乗り越える力は一体どこにあるのだろうかと問わざるを得ません。何度も言いますが、本日、私たちに与えられた箇所は、死に直面している者たちの間で交わされた対話です。しかも主イエスが共に死んでくださる話でもあります。ここに死を乗り越える対話があり、力があり、慰めがあります。

私たちは死の先がどうなるのかは分かりません。しかし主イエスはこのとき、死の先を少しだけ私たちに見せてくださいました。「楽園」という言葉に表されています。楽園とは一体何か。天国のことでしょうか。なるほど、そうかもしれません。しかしまず、この言葉それ自体に注目し、意味を掘り下げて考えてみたいと思います。

新約聖書の言葉はギリシア語ですが、ギリシア語の読み方で、パラデイソーという言葉です。英語のパラダイスのもとの言葉です。ギリシア語の言葉よりもさらに古い語源を持っていて、もともとはペルシアの言葉でした。庭という意味の言葉です。庭は庭でも、普通の庭ではありません。王の宮殿の庭のことです。今なら観光客でも、入場料くらいは取られるかもしれませんが、誰でも入ることができる庭です。しかし当時はそんなわけにはいきませんでした。王様とその家族のための庭です。一般庶民は入ることができません。高い塀に囲まれています。そうなると庶民としては、あの王宮の中に立派な庭があるらしい。どんなに美しい庭なのだろう、ということになります。立派な庭があるのは知っている。けれども具体的にどんな庭か知らない。そういうイメージで考えた方がよい言葉なのです。

このパラデイソーという言葉は、新約聖書にはわずか三回しか出てきません。それだけに、今日の箇所は貴重な箇所と言えます。旧約聖書はギリシア語ではなく、ヘブライ語で書かれましたが、主イエスの時代にもすでにヘブライ語からギリシア語に翻訳された旧約聖書がありました。その聖書では、パラデイソーという言葉がたくさん出てきます。そのほとんどが、創世記の初めにありますエデンの園を表す言葉です。アダムとエバが最初はそこに住んでいましたが、善悪の知識の木の実から取って食べてしまい、エデンの園を追い出されてしまいました。エデンの園があるということは知っている。しかし今やどんな庭か分からなくなってしまった。パラデイソーという言葉がそう使われているのです。

新約聖書にはわずか三回しか用いられていないと申し上げましたが、新約聖書の最後のヨハネの黙示録に出てきます。エデンの園に再び復帰することができるのです。主イエスはその楽園の約束をしてくださった。死の後のことを、ほんの少しだけ覗かせてくださった。今日の箇所はそのように理解することができます。

この犯罪人は死に直面している者です。人生の土壇場で、楽園の約束を得ました。この犯罪人は、おそらく志半ばで死ななければならなかった者です。十字架刑に処せられているということは、ローマ帝国に反逆をした罪に問われたのです。主イエスもそのような罪をでっち上げられて、一緒に十字架にお架かりになっておられました。この人は本当に反逆を起こした。革命という名の下での反逆だったのかもしれません。暴動を起こし、殺人や強盗を起こしたのでしょう。そして十字架に架けられている。こんなはずじゃなかった。自分の人生、もっと別なことを思い描いていた。でも今、死ななくてはならない。そんな最期のときに、主イエスと出会い、死を越えることができる慰めを得たのです。

この人はどのようにして慰めを得たのでしょうか。四二節のところで、この人はこのように言っています。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(四二節)。主イエスよ、あなたは確実。あなたは楽園にふさわしいお方。私は確実にふさわしくない者。それならどうすればよいか。確実なあなたに思い出してもらう。覚えておいてもらう。それが唯一の道だったのです。

「わたしを思い出してください」(四二節)という問いかけに対して、主イエスからの答えはこうでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(四三節)。主イエスが自分のことを思い出してくださる。ここで主イエスに出会ったのも奇跡ですが、覚えていてくださるというのも奇跡です。これ以上はない奇跡が起こったのです。

松本東教会で毎週木曜日にオリーブの会という集会を行っています。信仰の初歩的なことを楽しく学ぶことができる会です。毎週テーマを決めています。先週のテーマは、奇跡をどのように受け止めたらよいのか、というテーマでした。

先週のオリーブの会に際して、聖書の中で奇跡の話が書かれている箇所を、何箇所か開いて読んだのですが、改めて気づかされたことがありました。それは、奇跡が記されている箇所の最後のところに、その話を閉じるにあたって、奇跡をどのように人々が受け止めているか、その様子が書かれているということです。これは必ずと言ってよいほど書かれています。主イエスがある奇跡を起こした。その結果、人々が信じるようになったとか、弟子が驚いてこの方はどなたなのだろうと言ったとか、あるいはその正反対に、この人は悪霊の力で奇跡を起こしているのだと文句を言ったとか、いろいろな人々の様子が記されています。結局、奇跡をどのように受け止めるのかが問われている。奇跡をなさった方を信じるのか、それとも信じないのか。二者択一なのであります。

二人の犯罪人もそうでした。土壇場になって主イエスと出会う。主イエスのことを信じるのか。信じて、思い出してくださいと言うのか。絶望から主イエスをののしるのか。その二者択一です。信じること、信仰とは、私たちに出会ってくださる主イエスというお方にかけることです。主イエスにただ覚えてもらうことです。この信仰を持つことが、本当の意味で死を乗り越えることができるかどうかということにもかかわってくるのです。

このお方が私たちのこと覚えていてくださいます。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書の箇所もまた、私たちの心を惹く言葉です。神からの言葉です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。」(イザヤ四九・一五~一六)。主イエスが私たちのことを忘れずに覚えていてくださる。そして楽園の約束をしてくださる。主イエスと出会ってこの約束をいただいた「今日」という日が、救いの日なのです。

ルカによる福音書では「今日」という言葉がとても大事にされています。クリスマスのとき、天使が羊飼いに告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(二・一一)。会堂で主イエスが聖書の言葉を朗読されたときに、このように続けて言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(四・二一)。嫌われ者の徴税人ザアカイの家に主イエスが行かれたときも、こう言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」(一九・九)。いずれも主イエスと出会い、かかわりを持った「今日」です。

ルカがどうしても伝えたかったのが、「今日」です。今日、主イエスと出会い、今日、主イエスから救いの約束をいただける。テオフィロ様、あなたも今日、主イエスと出会い、救いの約束をいただける。ルカによる福音書を読む私たちもそうであります。