松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年2月24日(日)
説教題「信仰によってのみイエスを理解できる」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第23章1節〜12節

 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

旧約聖書: ヨブ記 第42章1〜6節






レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
ピラトの前に引き出されたイエス ( christ before pilate ) / ミハリー・ムンカツィ ( Mihály Munkácsy )

ピラトの前に引き出されたイエス ( christ before pilate ) / ミハリー・ムンカツィ ( Mihály Munkácsy )
デーリ博物館 ( Déri Museum )/ (loan till 2007, now in Canada).
デブレツェン( Debrecen )/ハンガリー

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本日、この礼拝の直後に臨時教会総会を行います。そこで来年度の向けての長老選挙を行います。選挙のやり方は、教会員の投票によって行います。投票で上位の得票で、過半数を得た者が長老に選出されます。このような選挙のやり方は、何も教会に限ったことではありません。どこの世界でも、同じようなやり方で選挙がなされていると思います。

聖書の中には、誰かを選出する必要が生じた場合、投票というやり方は出てきてはいません。その代わりに、くじによる方法でなされています。例えば、主イエスが十字架にお架かりになり、お甦りになり、天にあげられた後、十二人の弟子たちの中で、ユダが欠けてしまいました。そこで欠員を補うために、一人の補充がなされた。二人にまで絞られて、そして最終的にはくじ引きがなされました。そのくじの結果、十二人の一人として補充されたのが、マティアという人物でした。

また、人を選ぶということではありませんが、くじ引きで土地を配分するという話も出てきます。松本東教会では水曜日の朝と木曜日の夜に祈りの会を行っています。現在は旧約聖書のヨシュア記を読み進めています。このヨシュア記の後半では、イスラエルが獲得した土地を、部族ごとに配分するという話が記されています。どういうやり方で配分がなされるのか。リーダーであったヨシュアの一存で決まるのか。そうではありません。やはりくじが引かれ、この部族にはこの土地を割り与える、ということが決まるのです。

くじ引きをする際に、ただ単にくじを引くのではなく、祈ってくじ引きがなされる場合があります。十二使徒の補充がなされるときにも、このようにして祈りがなされました。「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。」(使徒言行録一・二三~二四)。

一見すると、ただのくじ引きと思われるかもしれません。教会総会での長老選挙も、どこの世界でもなされている選挙と同じと思われてしまうかもしれません。しかし、信仰をもって受け止めたときに、見方が変わるのです。同じ出来事を、信仰を持って受け止めたときと、信仰を持たずに受け止めた場合では、その受け止め方が違うのです。私たちの行っているこの選挙に神の御心が表れている。そのことはそれ以上の説明はできません。すべての人を説得させることもできません。ただそれを信じるのか、信じないか、それだけの違いなのであります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所もまた、主イエスのお受けになった裁判の話でありますけれども、信仰をもって受け止める必要があります。そうでないと、これはただの裁判であったという話になってしまいかねません。

本日の聖書箇所では、ピラトによる裁判と、ヘロデによる裁判の二つの出来事が記されています。先週の話も裁判の話でありました。先週は、ユダヤ人たちによる、サンヘドリンと呼ばれるところでの裁判でした。いわば宗教裁判です。しかしそれだけで判決を下し、裁判を終えることができませんでした。当時のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていたからです。些細なことならばともかく、人を死刑に定めるというようなことを、自分たちだけで勝手に定めるわけにはいきません。ローマ帝国から派遣されてきた総督ピラトの判断を仰がなければならなかったからです。

ピラトはローマ帝国の人でありましたが、ピラト以外にも支配者がいました。それがヘロデです。ここに出てくるヘロデは、クリスマスのときに出てくるヘロデ大王の息子です。ヘロデ・アンティパスという人です。こちらのヘロデは、ヘロデ大王とは違い、支配する領土も小さくなっていたようです。主イエスはこのヘロデ・アンティパスという人が支配するガリラヤ地方の出身でしたので、ピラトのところからこの人のところに送られたというわけです。

主イエスの裁判が三か所でなされていることになります。それだけに、当時の複雑な政治状況が反映されていることが分かります。主イエスはいろいろなところでたらいまわしにされているのです。これらの裁判は、一見するとただの裁判に見えるかもしれません。一方的な裁判です。一方的にイエスという男が裁かれている。イエスという男が、悪いことをしたわけではないけれども、当時の権力者たちからの怒りをかい、悪人に仕立て上げられて、死刑にされてしまう。そんな受け止め方もできる裁判であるかもしれません。

しかし別の受け止め方もある。この裁判はなぜこのような裁判になったのか。裁判の成り行きを、信仰をもって受け止めたときに、受け止め方が変わってくる。信仰をもって受け止めない限り、聖書が私たちに伝えていることを、理解することはやはりできないと思います。

まずはピラトの前での裁判を考えてみたいと思います。主イエスを訴える者たちがこのように言っています。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(二節)。この訴えの言葉は、訴えの言葉としてはかなり悪意をもって繕われた言葉であることが分かります。

例えば、「皇帝に税を納めるのを禁じ」とあります。この訴えは、数日前の論争から繕われた言葉です。主イエスを陥れようとした者たちが、皇帝に税金を納めることは、ユダヤの律法に適っているか、適っていないかという問いを投げかけます。肯定しようと、否定しようと、どちらでも陥れられることになります。けれども主イエスはこう答えました。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(二〇・二五)。主イエスのこの答えは、どちらとも取ることのできない答えです。彼らはこの答えに驚いて黙ってしまいました。

しかしこの裁判のときには、彼らは都合よくこの言葉を解釈した。ピラトはローマの総督です。皇帝に税を納めることを禁じたと断定して、まるで主イエスがローマにたてついているかのように訴えたのであります。

ところが、これらの言葉で訴えられたにもかかわらず、主イエスは反論しようとはされません。ピラトに対して、ただ「それは、あなたが言っていることです」(三節)と答えただけです。それ以外は、沈黙を貫いたのです。

この沈黙は、ヘロデのもとでの裁判でも同じでした。ヘロデは先ほども申し上げましたように、ガリラヤ地方の領主です。もちろん偉さから言えば、ピラトの方が偉いわけですが、ピラトもその地方の領主を、ぞんざいに扱うわけにはいきません。ヘロデもピラトの意向にはやはり従わなければならない。ピラトとヘロデはけん制し合っているところがありました。ところがこのときピラトはヘロデのところに主イエスを送る。これはある意味、ピラトがヘロデの支配を認めたことになります。ヘロデも裁判の最終的な判決を下すことなく、ピラトを尊重し、それを委ねた。そんな理由から、二人はこのときを境にして仲良くなったと言うのです。

このヘロデの裁判においても、主イエスは何もお答えにならない。沈黙をされた。ピラトの前でも、ヘロデの前でも、主イエスは沈黙をされています。盛んに訴える者たちがいて、おそらく声を張り上げて訴えていたのでしょう。そんな状況にもかかわらず、主イエスは沈黙をされました。なぜでしょうか。私たちは信仰をもってこの裁判を受け止めたいと思っています。信仰をもって受け止めるためにも、主イエスの沈黙の理由を考えてみたいと思うのです。

聖書に書かれている話の中で、沈黙の話といえば、旧約聖書のヨブ記です。本日、私たちに合わせて与えられた箇所も、ヨブ記からの箇所になります。ヨブ記は全部で四二章ある、比較的長い書です。長い書でありながら、最初と最後にしか、神が登場してきません。

最初に神が登場した後、ヨブはひどい苦難を受けます。それまでは神に従い、家族や財産も祝福されていましたが、妻以外の家族をすべて失い、財産もすべて失い、自分もひどい皮膚病にかかってしまいました。そのような苦難に直面し、ヨブは神に祈ります。神に訴えます。なぜこのような試練に遭うのか、と。しかしヨブがいくら神に呼びかけても、神からの答えは沈黙でありました。

しかしついに最後のところで、神が沈黙を破られます。本日のヨブ記の箇所よりも少し前のところですが、ヨブ記第四〇章にこうあります。「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(ヨブ四〇・一~五)。

そして本日の箇所のところです。途中からですが、「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ四二・三~五)とあります。ヨブは沈黙をすることを学んだのです。沈黙をもって、全能者と向かい合うこと、つまり神の前に立つことを知ったのです。神がなさろうとすることをそのまま受け止める。それも信仰をもって受け止めることを学んだのです。

この沈黙を覚えることは、私たちにとっても非常に重要なことです。私たちは、神に対しても、隣人に対しても、自分の主張を口にいたします。それはそれで必要なことですが、時に私たちは自分の主張が過ぎることがあります。口に主張しないまでも、心でそのように思い過ぎてしまうこともあります。しかしそうではなく、時に私たちは黙る必要があります。沈黙して受け入れることも必要なのであります。

主イエスもこの裁判のときに沈黙をされました。口を閉ざされました。私が持っている聖書で、主イエスの言葉が赤い字で印字されている聖書があります。その聖書を開いて、ルカによる福音書を見ると、第二二章の途中までは、そのほとんどが赤字であることが分かります。主イエスがずっとお語りになられている。ところが最後の晩餐が終わり、主イエスが逮捕された後、裁判に進んでいくと、この赤字がだんだんと消えていき、ほとんどなくなってきていることが分かります。主イエスの口数が少なくなってきている。主イエスが沈黙をされているからです。

なぜ主イエスがこのとき沈黙をされたのか、そのことをずっと私たちは考えてまいりました。今や、その答えに至ることができます。これは裁判での話です。裁判のときに自分の主張をしないということは、裁判の行方を成り行きのままに委ねるということであります。主イエスには、このときにその覚悟があった。だからあえて沈黙をされているのであります。この沈黙にはその決意が見られるのです。

沈黙に関して、ヨブ記の他に、もう一つの書を加えたいと思います。今度は聖書からではなく、遠藤周作という作家が書いた『沈黙』というタイトルがつけられた本です。この本の評価をめぐって、あるいは遠藤周作という人物をめぐっては、いろいろと議論があるようです。この人はカトリックの洗礼を受けています。信仰にかかわる書をたくさん書いています。しかしこの『沈黙』が、あるカトリック教会から禁書にされてしまったようなこともありました。ここではそのことにはあまり深入りをしないでおきますと思います。

しかし少なくともこの沈黙のクライマックスの場面は、私たちの信仰にかかわる出来事が見事に描写されていると私は思います。この『沈黙』のだいたいのあらすじですが、時代は江戸時代初期、島原の乱の起こった直後のことになります。ロドリゴという宣教師が日本に来日します。来日と言ってもひそかに来日する。そしてキリシタンの村に受け入れられて、伝道をします。最初はよかったかもしれません。

しかし迫害の手がだんだんと迫り、ついに捕えられてしまいます。棄教することを迫られます。拷問を受けます。とは言ってもロドリゴ本人に対する拷問ではありません。日本人のキリシタンが捕えられて、すぐ近くで拷問にかけられるのです。ロゴリゴが棄教しない限り、棄教して踏絵を踏まない限り、その日本人のキリシタンが許されないことを告げられます。なんとも卑劣なやり方ではありますが、ロドリゴは悩みます。自分の信仰を貫くか、それとも信仰を捨てて他者を助けるか、究極のジレンマの中で悩むのです。ロドリゴは牢の中で、必死に神に祈ります。しかし神から返ってきた答えは、沈黙でしかなかったのです。

そんな中、いよいよロドリゴは踏絵を踏む決意をします。踏絵には、キリストが描かれています。その踏絵を踏むときに、ついに神の沈黙が破られるのです。踏絵の中のキリストがロドリゴに語りかけます。「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」。

主イエスの沈黙は何のための沈黙であったのか。それは十字架を背負うための沈黙です。主イエスが裁判で沈黙して成り行きに任せるとは、十字架に赴くことに他なりません。ロゴリゴの苦悩を共に追われるために、日本人キリシタンの痛みを分かつために、主イエスは沈黙をされ、十字架へと向かわれたのです。主イエスは誰よりも私たちの苦悩、痛みをご存知であられるのです。

もしもこの裁判の席で、主イエスが沈黙をされるのではなく、口を開かれたとすれば、この裁判の行方は確実に違ったものになっていたでしょう。なぜかと言うと、ルカによる福音書の第二〇章に様々な論争があります。先ほど取り上げた皇帝への税金をめぐっての論争もその一つです。これらの論争で、主イエスはすべて勝利をされてきたからです。主イエスを陥れようとする者たちは、周到な準備をして論争に臨みました。肯定しようと否定しようと、どちらでも主イエスを陥れる質問を用意していました。

ところが、主イエスは彼らが考えもつかなかった返答で、どの論争でも彼らを黙らせます。主イエスの連戦連勝で第二〇章は終わっているのです。だから彼らは最終的には暴力に訴えて主イエスを逮捕し、一方的な裁判をやる以外にはなかったのです。

しかもこのときの裁判には、ピラトという最大の権力者がいました。ピラトは主イエスの無罪を確信していたようです。もしも主イエスがピラトの前で口を開き、自分の無実を訴えたならば、ピラトも「ほら、このイエスという男も自分が無罪だと主張しているではないか。だから私ピラトはこの男を放免する」とでも言ったと思います。主イエスが沈黙ではなく口を開かれたら、このような結果になっていたのは明らかであると私は思います。逆に主イエスが沈黙をされたからこそ、十字架が起こった。主イエスは自ら沈黙され、自ら十字架を背負ったのであります。

今日の聖書箇所で、ヘロデが奇跡を見たかったことが記されています。八節に「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」(八節)と記されています。しるしとは奇跡のことです。ヘロデがどんな奇跡を望んだのかは分かりません。おそらく、手品のような奇跡でも見たかったのでしょう。ヘロデは奇跡が見られなかったと思ったでしょう。

しかし主イエスが沈黙をされて十字架に赴いたということによって、別の奇跡が起きました。人類史上、最大の奇跡であります。私たち人間の罪が赦されるという奇跡です。ロドリゴの苦悩を神も共に悩み、日本人キリシタンの痛みを神が共に分かつという奇跡が起こったのです。ヘロデも、ピラトも、周りのユダヤ人たちも、その奇跡が分かりませんでした。信仰を持ってこの裁判を受け止めたとき、初めてそのことが分かってくるのであります。