松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年2月17日(日)
説教題「イエスをメシアと信じるか」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章63節〜71節

 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

旧約聖書: 詩編 第110編


レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

カイアファの前のイエス(尋問を受けるイエス) ( Christ before Caiaphas ) / ジョット・ディ・ボンドーネ ( Giotto di Bondone )
スクロヴェーニ礼拝堂 ( The Scrovegni Chapel )
パドヴァ( Padua )/イタリア

松本東教会ではルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。ルカによる福音書の第一章から始めて、もうすぐ丸三年になります。最後まで終えるのに、およそ三年かかると思って始めましたが、やはり予想通り三年かかりました。今年のイースターは三月三一日ですが、この日から最後の章であります第二四章に入ります。もうすでに計画も立てていますけれども、四月いっぱいでルカによる福音書をすべて終えるということになります。

ルカによる福音書の次は、一体どの聖書箇所から御言葉を聴くのか。もしかしたら皆様の関心事であるかもしれません。実はもうすでにそのことも私の心の中では、心積もりをしていることです。ルカによる福音書の次は、使徒言行録から御言葉を聴こうと思っています。

なぜルカによる福音書の次は使徒言行録なのか。最大の理由は、ルカによる福音書と作者が同じだからであります。ルカによる福音書を書いたルカは、この福音書の冒頭のところで、「テオフィロさま」(一・三)という人物に宛てて、この福音書を書いています。

そして使徒言行録の最初にも、このテオフィロという人物の名が記されます。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天にあげられた日までのすべてのことについて書き記しました。」(使徒言行録一・一)。ルカが使徒言行録の最初で言っていることは、ルカによる福音書のことに他なりません。ルカはまず福音書を書き、その次に使徒言行録を書いたのです。そのことが、ルカによる福音書の次が使徒言行録という最大の理由です。

ルカは福音書を閉じるにあたり、一度、筆をおきましたが、再び筆を執り始め、使徒言行録を書いたのです。明らかにルカによる福音書と使徒言行録の繋がりを考えてのことです。ルカはルカによる福音書では、イエスとは誰かというテーマで福音書を書きました。これが第一部です。そして第二部が使徒言行録ということになりますが、使徒言行録では、教会の誕生とその歩みのことが書かれています。つまり、主イエスを信じた者たちが、主イエスのことを宣べ伝え、そこに教会が次々と誕生していったという話が記されるわけです。これが第二部になります。

こう考えますと、ルカによる福音書は、イエスとは誰かというテーマが最大のテーマということになります。ルカはいろいろな話を記していますが、イエスはどんな人物なのかということを、読者に紹介しているわけです。

そう考えますと、本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、ルカによる福音書のテーマをずばりそのまま表しているということになります。今日の話は、イエスとは誰かということがストレートに問われているからです。

先週、私たちに与えられた聖書の箇所は、この一つ前の箇所になります。ペトロが三度、主イエスのことを知らないと言ってしまう箇所です。ペトロが三度目に知らないと言ったときに、鶏が鳴きました。鶏が鳴くのは夜明け前の時刻です。夜が明け、裁判が始まりました。今日の話はその裁判のときの話になります。

裁判の席で、主イエスは二度にわたって、尋問を受けています。一度目の尋問は、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」(六七節)というものです。二度目は、「では、お前は神の子か」(七〇節)というものです。いずれも同じような問いで、二度ともお前は一体誰なのかと聞かれているわけです。

裁判の席でありますから、このような問答がなされるのは当然のことと言えば当然のことです。裁く側は長老、祭司長、律法学者たちです。彼らがそのような問いを出します。そして裁かれる側は主イエスです。主イエスがそれらの問いに答えなければなりません。当然のことですが、彼らは自分たちが出した問いに、自分たちでは答えようとしないのです。

これらの二つの問いに対して、主イエスの答えはこうでありました。一回目の問いに対しては、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(六七~六九節)という答えでした。二回目の問いに対しては、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」(七〇節)。

特にこの二回目の問いに対する主イエスの答えに注目してみたいと思います。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」(七〇節)。主イエスはここで何を言おうとされているのでしょうか。あまりはっきりしない、よく分からないような答えです。

聖書を読んでいても、あまりよく分からないような箇所に出会ったときにどうすればよいか。その箇所が分かるようになる一つの有効な方法は、他の聖書の翻訳と比べてみることです。日本語の聖書にもたくさんの翻訳があります。私たちがいつも用いている新共同訳では「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」となっていますが、他の訳はどうでしょうか。

新共同訳と同じようなニュアンスで翻訳をしているのは、フランシスコ会訳というカトリック教会の翻訳です。「わたしがそうだとは、あなたがたが言っている」というように、新共同訳とほぼ同じです。

これに対して、新共同訳とかなりニュアンスが違う聖書の翻訳も多くあります。例えば、かつての口語訳聖書はこうです。「あなたがたの言うとおりである」。さらに古い文語訳聖書は、もっとはっきりこう言っています。「なんじらの言ふごとく我はそれなり」。また、新改訳と呼ばれる聖書にもこうあります。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」。つまり、これらの聖書の翻訳では、主イエスがはっきりと、そうだ、私はメシアだ、神の子だ、そう言っていると翻訳されているわけです。

新共同訳では、そうなのかどうか、あまりはっきりとは言っていないと考えて、このような翻訳にしているわけです。そこで、元の言葉であるギリシア語がどうなのかという問題になるわけですが、ギリシア語では非常に単純な言葉が並んでいます。「あなたたちは言っている」という言葉と、「わたしは…である」という言葉が結び付けられて、並べられているのです。単純な言葉であるだけに、どのように並び替えてつなげるのかによって、意味が変わってきます。意味の違いが生じてくるのです。それが、新共同訳とフランシスコ会訳と、口語訳などの訳との違いです。

このことをめぐって、ある聖書学者がこのように言っています。「この言葉は様々な意味に取ることが出来る言葉である。しかしイエスのこの返答を、彼らに対して問いを投げ返していると理解するのがよいだろう。イエスの反対者たちはこの問いに直面して答える準備ができていなかったからである」。

主イエスがここで何を言われたのか、聖書の翻訳に違いが生じるくらい、はっきりしないところがありますが、しかしはっきりしているのは、この聖書学者が言うように、主イエスが問いを投げ返しておられることだと思います。「わたしはそうだ、神の子だ、メシアだ」とお答えになられているのかどうかは分かりませんが、しかし問いを投げ返しておられる。あなたがたはその問いにどう答えるのかと、問うておられるのです。

本日の説教の説教題を「イエスをメシアと信じるか」といたしました。主イエスがメシアなのかどうか、ということですが、もしかしたらクエスチョンマークをはっきりと付けた方がよかったかもしれません。疑問形です。あなたはどうか、イエスを誰だと言うのか。イエスをメシアと信じるのかと問われているのです。

六九節のところで、主イエスは「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」(六九節)と言われています。神の右というのは、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所にも出てきました。詩編の第一一〇編です。一節に「ダビデの詩」と書かれているように、ダビデになぞらえて書かれた詩編です。「わたしの右の座に就くがよい」(詩編一一〇・一)と言われています。もちろんダビデがこのように言われていると考えられるわけですが、メシアがダビデの子孫から生じると言われていました。主イエスがダビデの子孫として、「人の子は全能の神の右に座る」(六九節)と言われたわけです。

「人の子」とは、主イエスがしばしば用いられた言葉ですが、主イエスがご自分のことを指して使われる言葉です。「人の子は…」と言われます。「神の子は…」と言われてもよさそうですが、主イエスは「人の子は…」と言われるのです。このときに長老、祭司長、律法学者たちから「では、お前は神の子か」(七〇節)と聞かれるくらい、ご自分のことは「神の子だ」とは言われなかったのです。主イエスが神の子かどうか、その答えは私たちに委ねられています。私たちが問われていることなのです。

他の福音書もそうですが、ルカによる福音書も、はっきりと「イエスはメシアです」とは書かれていないのです。ある意味では完結せずに、私たちにその答えを委ねているところがあります。私たちが何かの論文などの文章を書く場合、序のところに、こういう目的で論文を書くと宣言します。そして本文を書いていき、最後の終わりのところで、結論はこうであるとズバリそのことを書きます。けれどもルカによる福音書は、はっきりとその結論は書かず、開かれた終わり方をしています。

ルカが第二部として書いた使徒言行録もそうです。使徒言行録は、主イエスが天にあげられて、弟子たち、つまり使徒たちが残されて、聖霊が注がれて、主イエスを宣べ伝え、教会を建てていくことが書かれています。そして最後はこう終わるのです。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒言行録二八・三〇~三一)。このときパウロは当時の世界の中心地であるローマに来ていました。ついに世界の中心ローマにやってきた。そして「主イエス・キリストについて教え続けた」と書いて、筆を置くのです。

少し前のことになりますが、別の教会の教会員の方から、その方が書いた本をいただいたことがあります。その本のタイトルは『私の使徒行伝』。新共同訳聖書では「使徒言行録」となっていますが、かつての口語訳聖書などでは「使徒行伝」となっていました。パウロはローマまで行って、ルカがそこで筆を置いていますが、「使徒行伝」は閉じられることなく、なおも続いていくのです。だから『私の使徒行伝』というタイトルが成り立つのです。

このようにルカは、私たちの問いとして、ルカによる福音書と使徒言行録を書いているのです。私ルカはあなたたち読者にイエスという人物のことを紹介した。イエスがメシアであると断言はしていないが、イエスのことを伝えた。それでは、あなたはイエスがメシアであると信じるか。実はここでのメシアという言葉は、元の言葉では「キリスト」という言葉です。あなたはイエスがキリストであると信じるか。あなたはイエスが救い主であると信じるか。そう問われているのです。

ルカが紹介している主イエスは、この裁判の後に十字架にお架かりになられます。人間が神を裁いたということを、忘れるわけにはいきません。つまりこの裁判は、人間が神を要らないと言った、そのような判決を下した裁判なのです。神を亡き者にした裁判。神に対して、あなたからの救いは必要ないと言ったのです。自分の力で何もかもやるから、あなたの存在も要らないと言ったのです。

その裁判の結果、私たちは神を殺してしまいました。取り返しのつかないようなことをしてしまいました。これが第二三章までの話です。しかしルカはそこでは閉じなかった。そこで閉じることはできなかった。第二四章を続けるのです。そこでは主イエスがお甦りになられたことを記すのです。

主イエスは、私たち人間の罪を背負って十字架にお架かりになられました。神を亡き者にしてしまうほどの大きな罪をも、主イエスは背負ってくださいました。そして私たちの罪を赦すために、復活をされるのです。ルカが私たちに伝えていることは、このイエスというお方がメシア、キリストであるということです。

イエスとは誰か。その答え方によって、私たちの人生が変わります。答え方によっては、私たちの人生が何も変わらないということだってあり得ます。イエスはただの人であった。裁判にかけられて十字架で殺されてしまっただけで、復活されることはなかった。そうなってしまったら、私たちの人生には何の変化も起こりません。

しかしイエスはキリストだ、私の救い主だ。そう答えるとすれば、私たちの人生が変わってきます。私たちの人生の根本が変わるのです。なぜなら、このお方が私たちの最も深いところから支えてくださり、私たちの最も深い罪さえ赦してくださるからです。イエスがキリストであるという、たったそれだけの言葉が、私たちの人生を変えるのであります。