松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年2月3日(日)
説教題「悔い改めの道を備えるために」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章47節〜53節

 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

旧約聖書: エゼキエル書 第33章10〜11節

「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画
「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

ユダの接吻 ( The Kiss of Judas ) / ジョット・ディ・ボンドーネ ( Giotto di Bondone )
スクロヴェーニ礼拝堂 ( The Scrovegni Chapel )
パドヴァ( Padua )/イタリア

この説教の後に祈りをして、讃美歌を歌います。毎週、説教後の讃美歌は、説教と深くかかわる讃美歌を選んでいます。説教を聴いた後、神を讃美するにふさわしい心を表している讃美歌をなるべく選ぶようにしています。今日、選びました讃美歌は、讃美歌第二編の一六七番です。「われをもすくいし」。英語では、アメージンググレースとして知られている讃美歌です。

このアメージンググレースは今から二百年以上も前に生まれました。讃美歌の左上のところを見ると、一七七九とあります。一七七九年に、その隣に作詞者の名前もありますが、ジョン・ニュートンという人によって作られました。メロディーははっきりとは分かっていませんが、どこかの国の民謡だったのではないかとも言われています。

ジョン・ニュートンはやがて牧師になったようですが、もともと船乗りでありました。父親も船乗りで、その職を継いだようです。しかしいつの間にか、ジョン・ニュートンは黒人の奴隷貿易に手を染めていました。当時はとても儲かったようです。奴隷船の船長として働くようになってしまった。

ところがあるとき、大嵐に遭い、命の危険を感じた。そのときに生まれて初めて、真剣に祈ったようです。祈りが聞かれてなのかは分かりませんが、嵐が収まって一命を取り留めた。そのときにジョン・ニュートンは回心をしました。しばらくは船乗りを続けたようですが、やがて牧師になり、この讃美歌が生まれたと言われています。ジョン・ニュートンはかつての自分を思い起こして讃美歌を作りました。自分はかつて罪人であった。しかし神は自分を見捨てなかった。その恵みを歌っている讃美歌です。

この讃美歌の二節はこう歌います。「おそれを信仰に、変えたまいし、わが主のみめぐみ、げにとうとし」。英語がもともとの歌詞ですが、英語から訳してみますと、このような感じになります。「恐れを抱いていた私の心に教えてくれたのは恵みであった。そして恵みは私の恐れを和らげてくれた。その恵みが現れ、私が最初に信じたとき、それはどんなに貴かったか!」。

恐れのことが歌われています。かつて自分は恐れていた。しかし神の恵みがあり、恐れが和らげられた、と歌うのです。一体どんな恐れでしょうか。奴隷船が嵐に遭った時の恐れでしょうか? おそらく違うと思います。それではジョン・ニュートンは奴隷貿易をしながら何を恐れて生きていたのでしょうか?

ジョン・ニュートンの母親は敬虔なキリスト者であったそうです。もちろんジョン・ニュートンも神を知っていた。しかしかつては神から離れて生きていたのです。神から離れていても大丈夫、もう神なしで、自分の力でやっていける。そう思っていたのかもしれません。大丈夫と思っていても、どこかで恐れを感じている。そんな生き方だったのでしょう。

ジョン・ニュートンに限らず、人間誰もが何らかの恐れを感じて生きていると言えるでしょう。本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所にも、恐れを抱いて行動している人間たちが出てきます。この箇所はユダの裏切りの箇所です。ユダが実際に裏切りを決行します。この箇所からどのように御言葉を聴けばよいのか。一つのポイントは、皆が恐れを抱いていたということです。

ユダの裏切りは、四つの福音書すべてが伝えていることです。しかしどの福音書もみな同じ伝え方をしているのではありません。福音書によって、伝え方が微妙に異なります。

例えば接吻のことを取り上げてみましょう。ルカによる福音書では「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。」(四七節)とあります。この記述では、本当に接吻したかどうかはよく分かりません。しかしマタイによる福音書とマルコによる福音書では、ユダが確実に主イエスに接吻をしたことを記しています。対照的に、ヨハネによる福音書は、接吻のことには一切触れられていません。

このように微妙な伝え方の違いもありますが、どの福音書にも共通していることがあります。この説教では共通している二つのことを取り上げたいと思います。一つはこの出来事が夜であったということです。そしてもう一つは、ユダたちがたくさん武器を、剣や棒であったようですが、たくさんの武器を持ってやって来たということです。この二つのことは、この箇所から御言葉を聴くのに、意外と重要なことだと私は思います。

最初に取りあげたいのは、夜であったということです。最後の晩餐の食事の席が終わり、弟子たちを引き連れて祈りにいったのだから、夜であるのは当たり前だと思われるかもしれません。しかし問題は、ユダが裏切りを決行するのに、夜を選んだということです。おそらくユダは、夜で、なおかつ、チャンスがあったから、裏切りを決行したのだと思います。

ユダの裏切りは白昼堂々なされたのではないのです。闇にまぎれてのことでした。そのことは、主イエスの言葉からも明らかです。「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(五三節)。エルサレムの神殿は、日中は城門が開かれていて、入ることができました。しかし夜は城門が閉ざされますので、エルサレムの街中の住民以外は外に出なければなりません。そんなこともあったので、主イエスは「日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた」(二一・三七)のです。

ユダがなぜ夜を選んだのか、私たちもその理由がよく分かるのではないかと思います。裏切りを決行するということは、ユダにとって後ろめたいことでありました。だから闇にまぎれたい。主イエスを逮捕する者たちもそうでした。神殿の境内で皆に教えている一目置かれている人です。白昼堂々逮捕するのは人目がはばかられる。だから夜を選び、闇にまぎれる。

私たちも、自分の存在が闇に隠されていれば、どこか安堵感を感じるようなときがあります。こんな自分、誰かの目にさらすわけにはいかない。誰かに出会ったらどうしようと思うようなときに、闇にまぎれることができたとしたら、私たちはそちらを選んでしまいます。闇にまぎれていた方が安心だからです。

夜であった、闇にまぎれていたこと以外に、もう一つのポイントは、先ほど申し上げましたように、ユダたちがたくさんの武器を手にしていたということです。五二節にこうあります。「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。」」(五二節)。この人たち以外にも「大祭司の手下」(五〇節)がいたことが分かります。相手方は総勢何名だったのかは分かりませんが、相当の人数であり、剣や棒で、まるで強盗にでも向かうかのように武装をしていたのです。

それに対して、主イエスたちが持っていたのは、剣が二振りのみでありました。おそらくユダもそのことを知っていたと思います。ユダがいつ主イエスのところを離れたのかは、ルカによる福音書にははっきり書かれていませんが、最後の晩餐の食事の席にはいたのです。食事を共にし、主イエスの話も聞いたのです。三八節に「そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。」(三八節)とあります。ここで最後の晩餐の食事が閉じられ、続く三九節では祈るために主イエスと弟子たちは出掛けて行きます。おそらくユダはこのときに離れていったと思われます。つまり、主イエスたちが剣を二振りしか持っていなかったことを知っていたのです。それにもかかわらず、こんなに武装をしてやってきている。恐れていたからです。

さらに、ある説教者がこんなことも言っています。四九節から五〇節にこうあります。「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」(四九~五〇節)。ここで主イエスの弟子の誰かが、「剣で切りつけましょうか」と主イエスにお伺いを立てています。ところが、この人は主イエスの許可を得ることもなく、すぐさま剣で切りかかっています。とっさの行動に出たのは、恐ろしかったからだと、この説教者は言うのです。

つまり、ユダも、その仲間たちも、主イエスの弟子たちでさえも、誰もが皆、恐れを抱きながら、この出来事の渦中にいたのです。夜の闇にまぎれて、武器を手に取り、実際にその武器を使うことまでした。恐れを抱いていたからです。

なぜここに出てくる人たちはこんなにも恐れを抱いていたのでしょうか。もちろん、自分たちのなしていることに自信がなかったからと言えるでしょう。今日の箇所の最後の五三節の後半にこうあります。「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(五三節)。この言葉は、ルカによる福音書にしかない主イエスの言葉ですが、どう理解すればよいでしょうか。直訳すると、「しかし今はあなた方の時であり、また闇の支配である」となります。「あなた方の時」と「闇の支配」が同列に並んでいるのです。今はあなた方が自由にふるまっているときかもしれないが、しかし同時にそれは闇にも支配されていることなのだと、主イエスは言われているのです。

聖書は、人間の実際がどうであるのか、鋭く核心をついています。人間が自由にふるまっているところで、実は闇に支配をされている。先ほど、人間の誰もが何らかの恐れを抱いて生きていると申し上げました。なぜ人間は恐れるのか。ヨハネによる福音書にこのような言葉があります。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。…悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ三・一九~二〇)。

この聖書の箇所は、人間の恐れを鋭く描き出しています。その行いが悪いからだ。だから光を喜ぶのではなく、憎むことさえする。明らかにされるのが怖いのです。だから夜を好みます。武器を手に取ります。ユダたちが、さあ自分たちにチャンスが到来した、自分たちの時だ、と思っているところで、恐れから夜という時間を選び、必要以上の武器を手に取るのです。言うまでもなく、その原因は恐れです。

先週の火曜日のことになりますが、教会員の方が召されました。皆さまの中の多くの方が葬儀に参列してくださいました。火曜日に召され、木曜日に葬儀をいたしました。この方も、正直に申し上げますと、晩年は恐れを抱きながら生きていた方であります。

木曜日の葬儀の礼拝の後、食事の席がありました。そのとき、親族の方がこんな話をされていました。もう晩年になってからの話ですけれども、「私はどうしたらいい?」と尋ねられることがあったそうです。そのように尋ねられて、親族の方は困ってしまう。私にはとても到底その問いに答えることができなかったと言われていました。
特に召された方は、お連れ合いを亡くされてから、長きにわたって独り暮らしをされていました。老年になり、だんだんと一人で生活ができないようになり、いろいろな恐れがあったと思います。生活はどうなっていくのか、どのように死を迎えたらよいのか、そんな恐れがあったのでしょう。

それでもその方は、最後まで讃美に生きた方でした。実はこの方が召された翌日、つまり葬儀の前日の水曜日になりますが、私はその方の自宅にあがらせていただく機会を得ました。その方は自宅で一人暮らしをされている時に倒れ、そのまま病院に入院されていましたので、ほとんど何も持って行くことができなかった。葬儀に必要な写真とか、その方が着る服とか、取りに行く必要があったのです。

それ以外に、ご家族の要望もあり、聖書と讃美歌を柩の中に入れたいという話が出ました。自宅には、たくさんの聖書と讃美歌があって、どれを持って行くか、迷うほどでした。その中で選んだのは、聖書は教会からプレゼントされた聖書、讃美歌は、私がその方を訪問した時に一緒に讃美歌をよく歌いましたが、その時に用いていた讃美歌を選びました。最後までその方は讃美に生きた方であるのです。

「私はどうしたらいい?」。その方の問いに私が答えるとすれば、私は聖書をもとに答える以外にはありません。この世の知恵を授けようとするならば、私たちの誰もが沈黙せざるを得ない。しかし聖書は確かな答えを与えてくれます。いろいろな聖書箇所を引くことができると思いますが、たとえばコロサイの信徒への手紙にこんな言葉があります。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ一・一三)。

ここにも「闇」という言葉が出てきます。私たちは闇の力に支配されていた。「どうすればいい?」と問わざるを得なかった。しかし御子、イエス・キリストの支配下に私たちは移されたと告げるのです。御子が闇の力、つまり罪の力から解放してくださいました。なぜなら、御子によって罪の赦しが得られているからです。もう闇の支配ではなくなるのです。「だからあなたは大丈夫、もう他のどんなものに支配されているのでもない。あなたは神のものです」と答えることができるのです。

主イエスは闇をお引き受けくださいました。このときも、闇が深まっているときでしたが、最も闇が深まったのは、主イエスの十字架においてでした。ルカによる福音書第二三章に、十字架の場面が記されています。第二三章の四四節にこうあります。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。ここにも「闇」という言葉が実はあります。「全地に闇が生じた」というのが直訳です。

主イエスは今日の箇所で、ユダたちに逮捕されて十字架にお架かりになりましたが、先週の箇所では血の滴るような、必死の祈りをされています。この十字架への道に進まれることを、祈りによって決意されたのです。なぜ主イエスは闇を引き受けてくださったのでしょうか。それは神の御心がそこにあったからです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エゼキエル書の箇所になります。今日の箇所は、エゼキエル書の中でも、私たちの心を惹くようなことが記されています。しかしエゼキエル書はどちらかと言えば、少々厳しいことが書かれていると言わざるを得ません。イスラエルはバビロン捕囚を経験しました。エゼキエル書はその最中、あるいはその前後、いずれにしてもイスラエルにとっては苦難の歴史を前提にして書かれています。イスラエルの罪をずばりと指摘するような言葉もたくさん出てきます。

しかしその中で、神の本当の御心が示されることがあります。エゼキエル書のこの箇所もそうです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル三三・一一)。

神は私たちにどうして欲しいと思われているのか。それは私たちが神のもとに立ち帰るということです。神はそのことを求めておられます。それが神の御心です。だから私たちは恐れを捨てることができます。主イエスが闇を引き受けてくださった。その支配を終わらせてくださった。いかに闇が深くとも、罪が大きくとも、私たちには帰るべき場所がある。神のもとにです。この神は赦してくださるのです。だから私たちはもはや闇ではなく、光の中を歩むことができるのです。