松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年1月27日(日)
説教題「祈りなさい、誘惑に陥らぬように」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章39節〜46節

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

旧約聖書: 詩編 第42編



レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
オリーブ山のキリスト ( Oracion en el huerto ) / エル・グレコ ( El Greco )

オリーブ山のキリスト ( Oracion en el huerto ) / エル・グレコ ( El Greco )
トレド美術館 ( The Toledo Museum of Art )
オハイオ州/アメリカ

クリックすると作品のある「salvastyle.com」のページにリンクします。

今年の一月六日の礼拝の説教で、祈りの話をいたしました。この日に与えられた聖書の箇所は、同じルカによる福音書第二二章の三一~三四節でありました。特に三二節のところに、主イエスのこんな言葉がありました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(三二節)。この言葉に基づき、主イエスが私たちのために、信仰がなくならないように祈っていてくださること説教の中で語りました。

その際に、祈りに関する一冊の本を説教の中で引用し、皆さまにご紹介いたしました。そうしたらすぐに、思わぬ反響がありました。実際にすぐに注文をお願いしてこられた方もあります。その本を読んでみたいという声もありました。そこで、私がまとめて注文をとることにし、希望者を募りましたら、思いのほか多くの注文がありました。本日、すでに届いていますので、注文された方のメールボックスにその本を入れておきました。

たくさんの方から反響があったということは、祈りを学びたいと思っておられる方が多いということなのでしょう。東日本大震災があり、しばらくした頃に、被災地というわけではありませんが、被災地に近いところにある教会の牧師が、こんな経験をしたのだそうです。教会にいたら、突然、一人の青年が訪ねてきた。その牧師が応対すると、その青年はこう言いました。祈りたいのだけれども、祈りの仕方を教えて欲しい。そこで、その牧師は祈りの仕方を教えて一緒に祈った。こんな出来事があったのだそうです。

この青年のように、実際に私たちが祈りをするのに際して、いろいろな課題があると思います。祈りの心を知りたいと思われている方もあるでしょう。祈ることを習慣にするにはどうしたらよいのかと思われている方もあるかもしれません。長年にわたり祈りをしてきたけれども、もう少し祈りの言葉を豊かにしたいという方もあるでしょう。あるいは、人前で祈ることを憚ってしまうという思いを持っておられるかたもあるかもしれません。

これらの課題を乗り越えていき、神に祈ることは言うまでもなく大切なことであります。祈りが信仰者にとって重要だから、もちろんそうでありますが、それだけではありません。祈りは私たちの心を豊かにします。祈りは私たちの世界を広げることです。祈るとき、私たちは想像力の翼を広げるのです。

私が以前、ある牧師の祈りを聞いたときに、自分の世界が広がったことを感じました。その祈りは、病を得て、これから手術を受ける教会員を覚えての祈りでした。普通ですと、その方の手術が無事に終わりますようにと祈るでしょう。しかし祈られたのはそれだけではありませんでした。その手術を担当する医師や看護師のことまで覚えて祈りをしたのです。私はその祈りを聞くまでは、そんなことを考えたことはありませんでした。せいぜいその方の手術がうまくいきますように、手術後に無事に回復しますように。せいぜい祈るのは、手術を受ける方のことで、その範囲内でしたが、その牧師の祈りを聞いた時に、私の世界が広がった。祈りの範囲が広がるとは、私たちの世界の範囲が広がり、想像力が広がるということなのであります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、主イエスが祈られる姿が記されています。他ならぬ主イエスの祈りです。どんなに立派な言葉で、堂々たる態度で祈りをされているのかと思いきや、どうもそういう祈りではなかった。主イエスがなぜこのような祈りをされたのだろうか。そのことも、私たちは想像力を広げて考えて見なければなりません。

この祈りは、ゲツセマネの祈りとして知られている祈りです。他の福音書を見ると、主イエスがゲツセマネの園で祈られたから、ゲツセマネの祈りです。ところが、ルカによる福音書では、オリーブ山での祈りとなっています。オリーブ山とゲツセマネは目と鼻の先です。どちらでも大差ないと言えばそうかもしれませんが、ルカはなぜオリーブ山と書いたのか。それは、おそらくゲツセマネという地名が、ルカの読者にはあまり知られておらず、オリーブ山の方が親しみがあったからかもしれません。実際にオリーブの山にはオリーブの木が生えていたようですが、私たちもオリーブ山と言われた方が親しみを覚えるかもしれません。しかも、オリーブ山で主イエスが祈っておられることは、すでにルカによる福音書に出てきています。

いずれにしても、主イエスがオリーブ山で祈られた。今回も、そしてしばしばこの山で祈られたようです。今日の箇所に「いつものようにオリーブ山に行かれると」(三九節)とあります。いつものようだったからこそ、主イエスを裏切るユダもまた、主イエスがどこに行かれるのか、そのことが分かったのだと思います。いつも通り、主イエスはそこで祈りをされる。

主イエスの祈りの言葉はこうです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(四二節)。この祈りの言葉を、想像力を広げてよく考えてみなければなりません。杯という言葉が出てきています。これは何か。旧約聖書に、こんな記述があります。「主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ。」(イザヤ五一・一七)。

また同じような記述ですが、こんな記述もあります。「わたしの怒りの杯を、飲まなくてもよい者すら飲まされるのに、お前が罰を受けずに済むだろうか」(エレミヤ四九・一二)。いずれの記述でも、あまり良からぬことを杯は表しているようです。ここで言われている杯も、もちろんそのように考えることができ、主イエスがこれから十字架で受ける受難のことが言われています。主イエスは「この杯をわたしから取りのけてください。」(四二節)と祈っているわけです。

杯を飲むと言えば、ギリシアのソクラテスを思い浮かべることができます。ソクラテスは「アポロンの託宣」を受けて、ソクラテスが一番知恵のある者であると言われます。なぜかと言うことを探ったときに、それは自分が無知を自覚しているからだという答えにたどり着きました。それに比べ、周りの者たちはそのことを自覚していない。そんなことから、ソクラテスは敵も多かったようです。裁判にかけられて、最後は勇敢にも毒杯を自ら口にしました。

このソクラテスの最期と比べると、主イエスのオリーブ山での祈りは、ある意味ではみっともない祈りと言えるかもしれません。ソクラテスに限らず、聖書の中にも教会の歴史の中にも、殉教の死を遂げた者たちもいます。勇敢な最期を迎えた人々と比べると、主イエスの死への向き合い方は、少々見苦しいところがあると言われてしまうかもしれません。なぜ主イエスはこうだったのでしょうか。なぜ主イエスはこのような祈りをされたのでしょうか。想像力を膨らませて考えるとどうでしょうか。主イエスがこのような祈りをされたのは、主イエスが死を本当に真剣に考えていたからであります。

人間は誰もが死ななければなりません。人間は誰もが死ななければならない、そのこと以上に、人間は皆、罪人です。聖書は人間の罪と死を、決して切り離して考えるようなことはしていません。

最初の人アダムが造られ、世界も造られたわけですが、園の中央に善悪の知識の木と命の木が造られました。神はアダムに、善悪の知識の木から決して取って食べてはいけないと言われました。ところが蛇にそそのかされて、その実を食べてしまった。神の言われたことに従うことができなかったのです。それが罪です。人間は罪を犯し、不従順になってしまいました。その人間を、永遠に生きることがないようにと、命の木の実を遠ざけられました。つまり、罪のままで永遠の命にあずかることを、神はお許しにならないのです。

想像力を膨らませて考えてみていただけると分かりますが、罪のまま、今のまま、ずっと死ぬことなく生き続けたいと思うでしょうか。誰もそれを望まないと思います。神もそれをお許しになられません。私たちは神と共に、隣人と共に生きるようにと造られましたが、罪のために、死ななければならない存在です。死は生の断絶です。何よりも神との断絶が死に表れています。

主イエスは十字架での死の間際に、こんな言葉を叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ一五・三四)。この言葉も、死を前にして、勇敢であるよりも、ある意味ではみっともない言葉であるかもしれません。しかし主イエスが受けてくださった杯は、神との断絶を意味していました。主イエスの死は、神に見捨てられることであったのです。主イエスは死の本当の怖さを知っていたゆえに、このような祈りをされ、このような言葉を叫んでおられるのです。

本日の聖書箇所の四三~四四節は、括弧でくくられています。これは、ルカによる福音書にもともとなかった言葉ではないかと考えられているからです。聖書は、もともと本にたどり着くことができません。何百、何千もの写本があります。すべての写本に同じことが書かれていればよいのですが、そんなわけにはいきません。少しずつ異なることがあります。ルカによる福音書のこの箇所もまたそうで、古くからある有力な写本の多くは四三~四四節がないのです。そうするとこの四三~四四節は、ルカ自身が書いたものではなく、後の時代の人が手を加えたということになるかもしれません。

しかしある聖書学者が指摘していることですが、この四三~四四節は、非常にルカ的な、そして聖書的な特徴が見られる箇所でもあります。天使が現れることなども、どこかルカによる福音書のクリスマスのときの出来事を思い起こしますし、汗が血の滴るように地面に落ちるという描写も、他の福音書に見られることです。実際に主イエスは情熱的に、文字通り命を懸けて祈られました。そんな主イエスに対して弟子たちは呑気に寝ていました。主イエスが神に見捨てられることが始まるだなんて、弟子たちは想像力を膨らませる術もなく、呑気に寝ていたのであります。

主イエスは弟子たちに対して、二度にわたって祈りなさいということを言われました。「誘惑に陥らないように祈りなさい。」(四〇節)。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」(四六節)。四六節では「起きて」という言葉が付け加えられていますが、これは弟子たちが寝ていたからです。主イエスは祈れと言われます。何のためにか。誘惑に陥らないためにです。それでは誘惑とは一体何でしょうか。

誘惑とは何か。いろいろな答えを考えることができるでしょう。弟子たちにとって、すぐに来たる誘惑が待ち構えていました。主イエスがユダの裏切りによって逮捕されます。このとき、弟子たちは分かれ道に立たされます。主イエスがいなくなる、それでも主イエスの弟子を続けるか、という分かれ道に立たされるのです。

弟子たちがまず直面したのは、この誘惑です。ペトロは勇ましいこと言っていました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(三三節)。ペトロは偽りからではなく、本心からこのように言っていたのだと思います。その時は本当にそう思っていたのです。そんな勇ましいことを言っていたのにもかかわらず、五四節からの箇所で、ペトロは主イエスのことを三度知らないと言ってしまうのです。

一体なぜでしょうか。なぜあんなにも勇ましいことを言っていたのに、簡単に誘惑に負けてしまったのでしょうか。それは、弟子たちが眠ってしまっていたことと関係があると思います。四七節を見てください。「イエスがまだ話しておられると」とあります。これと似たような言葉は、すべての福音書に記されています。つまり、ユダの裏切りが起こったのは、主イエスがまだ話しておられたときだったのです。主イエスが眠っている弟子たちを起こされ、一言だけ言葉を掛けられると、すぐにユダたちが近づいてきた。眠っていたところに突然、誘惑がやってくるのです。

もしもペトロが勇ましいことを言っている最中にユダたちがやって来たとすれば、ペトロも主イエスと行動を共にして、牢に入ったり死んだりということも一緒にしていたかもしれません。しかし眠っているところ、不意を突かれた。誘惑が突然やってきてしまったのです。

弟子たちは眠ってしまった。四五節を見ると、「悲しみの果てに」とあります。弟子たちが眠ってしまった原因が、悲しみの結果であると言うのです。ゲツセマネでもオリーブ山でも構いませんが、主イエスが祈られている最中に、弟子たちが眠ってしまった理由を、それぞれの福音書が記しています。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、ひどく眠かったとその理由が記されています。ルカによる福音書とヨハネによる福音書は別の理由が記されています。それは悲しかったからです。特にヨハネによる福音書では、主イエスは自分がいなくなるというようなことを言われています。それを聞いた弟子たちが悲しんだのです。

弟子たちがなぜ眠ってしまったのか。福音書によって理由が違うわけですが、実際に両方の理由があっただろうと思います。どんな出来事であれ、すべてを一つの原因だけで説明できないものです。複数の原因が絡み合っている場合がほとんどです。これもまさにそうで、弟子たちは疲れもあり、悲しみもあったのです。最後の晩餐、つまり夜の食事の後の外出でしたので、一日の疲れもあったでしょう。ぶどう酒も飲んでアルコールも入っていたでしょう。疲れがあって眠ってしまった。

しかしそれだけではなく、主イエスが失われてしまうかもしれないという悲しみもあった。主イエスほどでないにしても、ある程度のところまで、主イエスと悲しみを共有していたのです。まったく弟子たちが無理解であったわけではないのです。

四一節に「石を投げて届くほどの所に離れ」とあります。これはどのくらいの距離でしょうか。石をどのくらい遠くに投げられるかによりますが、この石の大きさにもよります。この石という言葉は、神殿の石を指すときにも用いられた言葉ですので、もしかしたらある程度の大きさの石だったかもしれません。そうするとそれほど遠くには飛ばせない。ある程度の近さがあったと思います。静かな夜でもありましたし、主イエスの祈る声が、弟子たちの耳にも届いていたかもしれません。主イエスの悲痛な姿、祈りの言葉を目にして耳にして、弟子たちはある程度、悲しみを共有していたのだと思います。

ところが、弟子たちは最初こそは祈っていたかもしれませんが、次第に主イエスと一緒に祈ることができなくなりました。眠ってしまったのです。誘惑に負けてしまったのです。この説教で、誘惑とは何かを考え続けてまいりました。誘惑とは、いろいろな誘惑が考えられるでしょうが、何よりも、祈れなくなること自体、誘惑であります。悲しい、疲れ、あるいは想像力のなさによって、眠ってしまう。眠ってしまい祈れなくなる。これがすべての誘惑に共通することであります。

主イエスは誘惑に打ち勝つために、起きて祈れと言われます。誘惑に打ち勝つわけでありますから、誘惑に勝てるように頑張れだとか、努力しろだとか、何かの知恵や力を授けてあげようとか、そう言われるのが普通だと思います。ところが、主イエスが言われたのは、祈れということだけです。起きて祈っておれとだけ言われるのです。祈ることだけすればよい。しかし祈ることにより、神につながっておれと言われるのです。

本日、教会報の『おとずれ』が発行されました。とてもよいものができたと感謝しております。最近の『おとずれ』は、特によいものができていると思っています。もちろん、以前の『おとずれ』もよいものですが、特に最近のはよいと感じる。なぜそう感じるのだろうか。これも複数の理由があるでしょうけれども、一つの理由は、洗礼を受けられた方の文章が載せられているからです。

どの方の文章でも書かれていますが、洗礼はキリストと結ばれることであり、キリストと共に歩むことの始まりです。洗礼を受けるとは、キリストとつながることです。何よりもキリストと共に死んで、キリストと共に生きるようになることです。洗礼を受けて、キリストから力をいただかずに、キリストと無関係に生きるのではありません。キリストに結ばれて生きるのです。

洗礼を受けたキリスト者は、特別な力や知恵が与えられるわけではありません。しかしキリスト者は、キリストと共に生きることができます。キリストご自身が誘惑に打ち勝ってくださいます。私たちには誘惑に打ち勝つ力がなくとも、この方を通して祈ることによって、私たちが誘惑に打ち勝つ道が拓かれるのであります。