松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年1月20日(日)
説教題「何も不足しなかった」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章35節〜38節

 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

旧約聖書: 創世記 第22章9〜18節

少し気の早い話かもしれませんが、今年のイースターは三月三一日になります。イースターは毎年決まった日に行っているわけではなく、毎年変動します。決め方は教会によっても多少異なるのかもしれませんが、多くの教会では「春分の日の後の最初の満月の後の日曜日」というルールに従って決められています。なぜそんな複雑なルールなのかと言うと、イスラエルで祝われていた過越祭というお祭りにかかわりがあるからです。主イエスの十字架は過越祭のときに起こりました。ですから、過越祭の決め方にならって、キリストの教会でもイースターをこのように決めているわけです。

松本東教会ではルカによる福音書から連続して御言葉を聴き続けていますが、今日の聖書箇所は第二二章三五節以下の箇所です。このままのペースでいきますと、イースターのときにちょうど主イエスの十字架から復活の場面が与えられることになりそうです。イースターはあと二か月と少し先のことです。今日の箇所でも、いよいよ主イエスの十字架が本当に近づいてきたということになります。

今日の箇所は、最後の晩餐の席上の話です。一二月のクリスマスのときに、第二二章一四~二三節の聖餐制定の箇所が与えられました。そこから最後の晩餐の場面が始まり、いろいろな出来事がなされ、いろいろな話がこの席上で語られたようです。

今日の話はその同じ席上での話でありますが、今日の箇所が最後の晩餐の最後の場面になります。主イエスと弟子たちとの間で対話がなされていますが、主イエスの最後の言葉は「それでよい」という言葉です。「それでよい」というのは「十分だ」という意味ですが、ある聖書学者はこのことを「もう話をするのは十分だ」と解釈しています。もちろん文脈からは、剣が二振りで十分だと言っているわけですが、この聖書学者は少し違った理解をするわけです。

私も含めて、多くの者はそんなふうには考えないわけですが、しかしこの聖書学者が言っていることもそれなりに筋が通っているところがあります。最後の晩餐の席の話がここで終わりになり、三九節では「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。」とあるからです。いずれにしても、主イエスは「それでよい」と言われて、次の場面へと移行されました。夜のことです。夜にもかかわらず、祈るために外出されるのです。ルカによる福音書は、別の箇所で、夜通し祈られる主イエスのお姿を伝えています。このようなことはよくあることだったのでしょう。弟子たちもいつものように主イエスに従ってついていきました。

しかしいつも通りというわけにはいきませんでした。来週以降の箇所になりますが、ユダの裏切りが起こります。主イエスが逮捕される。裁判にかけられる。有罪となり、十字架での死刑の判決が下されます。このようにして主イエスが十字架にお架かりになる。「犯罪人の一人として数えられた」(三七節)のであります。


弟子たちは危機に直面することになりました。自分たちの師匠が「犯罪人の一人に数えられた」というような一大事が起こってしまうのです。本日、私たちに与えられた箇所は、この危機と切っても切り離すことができない関係にあります。危機のときにどのようにせよということが主イエスによって語られているからです。

今日の箇所の最初の三五節にはこうあります。「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと」(三五節)。これはこれから迎える危機の話ではなく、かつて弟子たちが体験したことを思い起こさせて、このように主イエスは言われています。

具体的にどのような体験だったのか。そのことであろうという出来事が、ルカによる福音書では二箇所書かれています。まずは第九章一~六節です。一~三節をお読みいたします。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」」(九・一~三)。この箇所でも、「財布も袋も履物も持たせずに」ということに合致しそうです。

しかしもっとよく合致している箇所もあります。それが第一〇章一~一二節です。三~四節をお読みいたします。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」(一〇・三~四)。「財布も袋も履物も」という言葉から、おそらく主イエスが弟子たちに思い起こさせているのは、第一〇章の出来事ではないかと思います。かつての弟子たちの一つの成功体験です。

しかし今は危機に直面している状況です。間もなく危機が起ころうとしています。主イエスの言われる言葉も変化します。それが、第二二章に戻りますが、三六節からの言葉です。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」(三六節)。

通常のときと危機のときでは、やはり違うものです。危機に直面したとき、あるいは危機に間もなく直面しようとしているとき、いつも通りの生活をしているわけにはいきません。場合によっては日常のものを捨てる必要があります。そして日常持たないものを手にする必要があります。

財布、袋、剣のことが個々で言われています。財布と袋のことは一言触れられるだけですが、剣のことは細かいことまで言われています。特に「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」(三六節)と言われています。少し考えてみていただくと分かりますが、通常の生活で大切なのは、明らかに服です。服を少なくとも数着持っていないと、日常生活が成り立ちません。しかし危機のときは違います。危機のときに、服数着などと言っていられない。場合によっては服を捨てる必要もあります。主イエスも、服を売ってまで、剣を手に入れろと言われる。

この剣のことがなぜこんなにも話題に挙がっているのでしょうか。弟子たちは財布や袋はすでに持っていたと思います。だからあまり話題にならなかったのだと思います。ところが剣はどうか。主イエスに言われて、大急ぎで捜し出してみたところ、二振りだけあった。しかも服を売ってまで手に入れよと言われる。主イエスにはどのような意図があったのでしょうか。なぜそんな物騒なものを持てと言われたのでしょうか。

弟子たちは二振りしかありませんでしたので、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります。」(三八節)と答えます。そうすると主イエスは「それでよい」(三八節)と言われます。「それでよい」という言葉は「それで十分だ」という意味です。聖書の元の言葉では、二つの単語からなる言葉で、直訳すればやはり「それで十分だ」ということになります。しかしある聖書学者は独自の翻訳を出版していて、この箇所を次のように訳しています。「そのようなことで十分なのか?」。

これは疑問文として訳されています。「それで十分」という言葉は、発音の仕方や文脈によって「それで十分?」というように疑問文になります。この聖書学者はそう考えるのです。たしかに常識的に考えれば、二振りの剣では「それで十分?」と言いたくなります。主イエスの一行は、主イエスと十二人の弟子たちを合わせて、少なくとも十三人です。一人が一つずつ剣を持ったとしても、十三の剣が必要です。

しかも、再来週の箇所になりますが、五二節のところにこうあります。「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。」」(五二節)。相手方に対して、剣二振りではとても足りません。だからこの聖書学者は「そのようなことで十分なのか?」と考えるわけです。

たった二振りの剣が用いられるときが来ました。これも再来週の箇所になりますが、四九~五〇節にかけて、こうあります。「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」(四九~五〇節)。ここで二振りあった剣の一つが用いられたわけです。五一節で主イエスは「「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。」(五一節)とあります。主イエスのお言葉によれば、本当に剣が二振りで十分だったのです。とても相手方には二振りでは太刀打ちなどできませんでしたけれども、主イエスは「それでよい」、二振りあれば十分だと言われたのです。

この聖書学者が「そのようなことで十分なのか?」と訳したように、私たちの目からすると、本当にこれで十分なのかと思うような事態はたくさんあると思います。明らかに私たちの目からすると不足している。しかし主イエスにとって、それは十分なのです。

十分だったのは、結果から分かることです。私たちは結果が出るまでは、不十分ではないか、足りないのではないかと思い悩みますけれども、結果が出ると、意外にも十分だったということをよく経験します。主イエスがかつて弟子たちを伝道の旅へと派遣されたときに、何も持たせませんでした。弟子たちに不安もあったでしょう。けれども、弟子たちは大喜びをしながら帰ってきて、伝道の旅が成功したことを報告しました。「何も不足しませんでした」と報告ができたのです。剣が二振りで本当に足りるのかと弟子たちも思ったでしょう。もちろん相手方を追い払うことなどできませんでしたけれども、主イエスの意図は違いました。実際に用いられたのは、一振りだけだったのです。万事が不足することなく、事足りたのです。

私たちの実際の信仰の歩みもそうです。私が松本東教会に赴任してまもなくの頃、ある教会の牧師から、色紙を送られたことがありました。その色紙には、こんな言葉が書かれていました。「今日からは杖一本の公生涯」。公生涯というのは、主イエスが伝道を始められてからの期間のことを指します。伝道を始められたのは、およそ三〇歳くらいだったと言われていますが、それから三年くらいしてから十字架にお架かりになるわけです。この期間が公生涯です。「今日からは杖一本の公生涯」というのも、主イエスの公生涯になぞらえて、あなたも今日から公生涯ですよ、という意味が込められています。持ち物は杖一本です。十二人の弟子たちが伝道の旅行に派遣されたときに、マタイによる福音書とルカによる福音書の記述では「何も持って行くな」ということでしたが、マルコによる福音書だと「杖一本」だけ許されていました。ですから、「今日からは杖一本の公生涯」なのです。

伝道者として、教会に仕える者として、たくさんのものを持っていたいものです。あれが欲しい、これも欲しい。あんな能力もこんな技能も欲しい。たくさんの求めがあります。しかし神が私に与えて下さっているものは限られている。しかしこれは何も伝道者だけに限った話ではありません。あれがあれば、こんな能力があればと思うのは、誰もが皆そうです。こんなものが教会にあればよいのにと思う。もう少し言葉巧みに、人を教会に誘えればよいのにと思う。いろいろな不足があることを思います。

しかしとても足りない、少ない、何もないと言っているところで、神が働いてくださいます。五つのパンと二匹の魚は男だけで五千人の人にとってはとても足りないと思われる量でした。しかし神がこのわずかなものを用いてくださる。結果としては、すべての者が満腹したのです。「何か不足したものはあったか?」と主イエスは問われます。その都度、私たちは「いいえ、何もありませんでした」と答えることができるのです。

主イエスの弟子たちは、かつて伝道の旅行に遣わされたときに、「いいえ、何もありませんでした」と答えることができるほどの体験をしました。弟子たちはこの後も同じ体験をし続けます。三五節に「使徒たち」という言葉があります。弟子たちのことが使徒たちと表現されています。ルカによる福音書で、もうすでに何度か弟子たちのことを使徒たちと表現されることがありました。例えば、同じ第二二章の二四節に「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」(二四節)とあります。使徒というのは、同じ弟子たちのことを指しますが、遣わされた者という意味が込められている言葉です。

ルカによる福音書を書いたルカは、第一部としてルカによる福音書を書きました。イエス・キリストとは誰かというテーマで、この福音書を書いたのです。ルカはいったんこの福音書を閉じましたが、第二部の執筆に取り掛かります。この第二部が使徒言行録です。使徒言行録というタイトルにも、使徒という言葉が入っています。使徒たちの言葉と行動の記録と言うことができます。つまり、教会の歴史のはじまりのことが記されているのです。

使徒言行録の最初のところに、主イエスが登場しますが、すぐに天にあげられます。弟子たちは残されて、主イエスなしで歩まなければなりません。弟子たちは使徒となり、世界各地へ派遣されて、教会を建てていくのです。この使徒言行録も、使徒たちからすると、「何も不足しませんでした」という物語です。使徒たちはたくさんの危機に直面しました。何も持っていないようなときもありました。しかしすべてを神が満たしてくださり、教会が各地に建てられて伝道が進んでいったのです。

神がすべてを備えてくださることが、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所にも記されています。この話はアブラハムがイサクを献げるという話です。イサク奉献物語などとも言われます。その名の通り、自分のたった一人の息子を献げよと神が言われる話です。

この話をどのように受け止めればよいのでしょうか。聖書にこんな話があるなんてと思われるかもしれません。しかし聖書はどのようにこの話を私たちに伝えているのか。もちろん、こんなのはひどい話だと伝えているのではありません。それではアブラハムがすごい信仰の人であったと伝えているのでしょうか。確かにそんなようなところもあるかもしれません。しかしそれを伝えているのでもありません。一四節にこうあります。「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記二二・一四)。

ヤーウェというのは、神の名前です。主の名をみだりに口に唱えてはならないという戒めがありますので、ユダヤ人たちは神の名を口にのぼらせません。ですからヤーウェとは読まずに、主という言葉であるアドナイという言葉を用いて、「アドナイ・イルエ」と発音します。ユダヤ人たちはこの物語を、「アドナイ・イルエ」だ、と語り伝えました。主が備えてくださる、そのように受け止めたのです。

アブラハムは信仰の父と呼ばれています。この物語のようなところが、そのように呼ばれている由来でしょう。アブラハムは信仰の父ですが、人間です。人間がそこまでしたのですから、神がそのようにしないわけにはいきません。一六節から一八節にかけて、御使いの言葉としてこのようにあります。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記二二・一六~一八)。

人間アブラハムが独り子である息子すら惜しみませんでした。実際にアブラハムは献げることを免れたのです。その代わりに、神の独り子が献げられることになりました。犯罪人の一人に数えられ、十字架にお架かりになったのです。ルカによる福音書の第二二章三七節の『その人は犯罪人の一人に数えられた』というのは、主イエスが旧約聖書のイザヤ書から引用された言葉です。イザヤ書第五三章一一~一二節をお読みいたします。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ五三・一一~一二)。アブラハムに神が約束してくださったことが、このように主イエスの十字架によって実現したのです。