松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年1月6日(日)
説教題「私たちは祈られている」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章31節〜34節

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

旧約聖書: アモス書 第9章9〜15節



私たちが聖餐にあずかるときに、聖餐制定の聖書の言葉が朗読されます。私たちの教会でもそうですが、たいていの教会ではコリントの信徒への手紙一第一一章の言葉が読まれます。その言葉の中に、こういう文章があります。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(二七~二九節)。

この言葉を聴くのは、これから聖餐にあずかろうとしているときです。どのようにお感じになられるでしょうか。「ふさわしくないままで」とか、「自分をよく確かめたうえで」と言われています。果たして聖餐にあずかってよいものかどうか、躊躇してしまった経験のある方も、もしかしたらおられるかもしれません。私は松本東教会では見たことがありませんが、洗礼を受けているのに聖餐にあずからなかった、パンにも杯にも手を出さなかった方が時々おられるようです。その方に、どうして聖餐にあずからなかったのですかと聞くと、こんな答えが返ってきます。自分は聖餐を受けるのにふさわしくないからだ、と。

しかしこれは完全なる誤解です。たしかに自分をよく確かめてみると、自分は神に対して後ろめたいことを行っている、そのような負い目、罪があるでしょう。そういう意味でのふさわしさは確かにないのです。けれども聖餐を受けないということは、どういうことを意味しているか。それは、少し表現が過ぎるかもしれませんが、神から差し出された救いの手を、払いのけることです。神さま、あなたの力なしで、自分の力で何とかやってみせます、ということになってしまいます。

そうではなくて、聖餐にあずかることは、神に全面的に委ねることに他なりません。「自分をよく確かめたうえで」と言われます。自分自身を吟味してみます。その結果、自分が罪人であることが明らかになります。その罪を赦していただくことが必要だということになります。自分は罪を悔いて、赦していただく。その悔いる心こそ、聖餐にあずかるのにふさわしい心なのです。罪を赦していただかなければ自分は立つことができない。神に全面的に委ねることが聖餐にあずかるときの心なのです。

このように自分自身を吟味するのはとても大切なことです。聖餐のときはもちろんそうですが、聖餐のときだけに限りません。私たちは他人を吟味することはよくするでしょう。他人をふるいにかけて、この人はこんなところが良くて、あの人はこんなところが駄目だと仕分けをします。しかし自分自身を吟味することは、どちらかと言うと少ないのではないでしょうか。私が毎日用いている祈りの本の中に、このような祈りの言葉があります。「私は他人に対しては厳しい要求を課したのに、自分自身には同じ要求を課しませんでした」。これは一日の終わりになす悔い改めの祈りですが、なかなか鋭いところを突いていると思います。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所では、ふるいにかけられることが語られています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」(三一節)。ふるいにかけるということは、吟味をするということです。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のアモス書にも出てきました。「見よ、わたしは命令を下し、イスラエルの家を諸国民の間でふるいにかける。」(アモス九・九)。アモス書では、神が直接命令を下してふるいにかけています。ルカによる福音書では、神の許可を得たサタンです。サタンは誘惑をする者です。私たちの信仰が本物かどうか、誘惑にさらされても曲がることがないかどうか、吟味されてしまうのです。

主イエスにこのように言われてしまい、弟子の一人であったペトロが強気の態度に出ます。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(三三節)。なぜペトロはこんなにも強気の態度でいることができたのか。私たちはペトロが実際に三度、主イエスを否んでしまったことを知っています。なぜペトロはそんな弱さがあったにもかかわらず、強気だったのか。それは、自分自身をよく吟味しなかったからだと思います。

そのペトロがこの後、自分自身を吟味せざるを得ない状況に置かれます。ユダの裏切りが発覚し、主イエスが逮捕されるときに、弟子たちはいつの間にかいなくなってしまいました。ルカによる福音書は、実はそのことははっきりとは書かれていなくて、他の福音書では主イエスを見捨てて逃げてしまったことが書かれています。実際にそうだったのでしょう。しかしペトロも、主イエスが逮捕されるときにはとっさに逃げてしまいましたが、それでも主イエスの後をこっそりと追いかけたのです。あんなことを言った手前、後ろめたいという思いもあったと思います。遠く離れたところで、それでも主イエスのことが見える範囲で、こっそりとついて行ったのです。

そのときに、周りの人々から、あなたはあのイエスという男の仲間ではないかと問われます。一度、二度、三度と問われ、ペトロは否認をします。三度も聞かれたのです。このときペトロは自分自身を吟味する時間がたくさんあったでしょう。一度、否認してしまった。しかしまた吟味する時間があった。それでも二度、三度、否認してしまった。ペトロは結局、この場面まで自己吟味をすることはなかったのです。

このことはペトロばかりではありません。聖書を読んでいる私たちも、自分自身を吟味するようにと求められています。私が以前、あるところで聖書の学びをしたときのことです。先生がいて、生徒たちがいます。その先生が生徒にこんな質問をしました。「聖書には一体何が書かれていますか」。かなり漠然とした質問かもしれません。生徒たちは口々にこのように答えました。「神の愛」「イエス・キリストの話」「教会のこと」。先生は頷きながら、生徒たちの答えを聞いていました。するとある生徒が「私たちは罪人です、そのことも聖書に書いてあります」、そう答えました。先生も他の生徒たちも、確かにその通りだと苦笑をしました。

この最後の答えは、事実その通りです。聖書は私たちの罪を明らかにします。聖書には、神に造られた私たち人間がどうあるべきかということがはっきりと語られています。私たちがあるべき姿になれないからといって、割引をすることは決してありません。私たちのあるべき姿がはっきりと示されています。しかしそのあるべき姿と現実の私たちとのギャップは大きい。聖書に出てくる登場人物もまた自分と変わることはないし、自分自身もあるべき姿にはほど遠いものです。私たちは自分を罪人だと認めたがらないところもありますが、聖書を読めば読むほど、自分自身を吟味せざるを得ません。そして自分自身の罪を知らざるを得ません。聖書は私たちに自己吟味を求める、それが聖書の持っている一つの役割です。

自己吟味のことに関して、もう一つの話を付け加えたいと思います。洗礼を受けられた方に、私から個人的にプレゼントをしている本があります。祈りに関する本です。洗礼を受けられて、キリスト者としての生活が始まるのですから、祈りの生活を整えて欲しいとの願いも込められています。祈りの生活は難しく考える必要は特にないと思います。その都度、祈りたい言葉で祈ればよいのです。習うより慣れよという言葉がふさわしいと思います。しかしそれでも、何らかの祈りの手引きが役に立つものです。私たちはやはり祈りを教わって、祈ることを習得していくのです。

この本には、最初の方に祈りの心構えのようなことが書いてあって、後は実際の祈りの言葉がたくさん収められている本です。その最初のところに、祈りの法則というものが書かれています。どのように祈ったらよいのか、その心構えの第二のこととして、このように書かれています。

「祈りの第二の法則は…祈りにおいて具体的でなければならないことです。…あいまいに自分を立派にしてくださいと、神に願い求めるだけでは十分でありません。自分に欠けていて、自分に必要であると認められる、ひとつひとつのことを、神に願い求めなければなりません。…自分を吟味しなければ、ほんとうの祈りではありません。そして自分を吟味することは、困難であり、消耗することであり、とりわけ恥ずかしく感じることであり、屈辱的なことです。多くの人々は、自分自身と対決するよりも、自分自身から逃避して、人生を過ごします。私たちの祈りは、祈りとも言えないものになりがちですが、その一つの最大の理由は、祈りの基礎である、神の前に自分を吟味するきびしい訓練に、ほとんどの人々が顔をそむけることにあります。祈りと自己吟味とは、相伴うべきものです。」(バークレー『はじめての祈り』、一二頁)。

なかなか痛いところを突いていると思います。真理を突いているからです。自己吟味をなかなかしようとしない私たちです。だから祈りも抽象的なものになってしまう。どこか味気ない祈りになってしまう。この本によれば、それは自己吟味が足りないからそうなるのだということです。もっと自分を見つめ、自己吟味をするならば、自分の足りないところ、至らないところが見えてくるはずで、祈りももっと具体的になる。私たちの信仰生活は、聖餐にあずかるときも、祈りにおいても、自己吟味をすることが極めて大切になります。

私たちが自己吟味をするのは、私たちに足りないところを明らかにするためです。神が私たちに求めておられることがある。どこが足りないのか、自己吟味をしなければそれは分かりません。そして私たちが自己吟味した結果、その足りないところを、神が埋めてくださるのです。

本日の聖書箇所の三二節のところにこうあります。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(三二節)。ある聖書学者が、この三二節は「わたし」と「あなた」の相関関係になっていると言いました。つまり、「わたしは…。だから、あなたは…」という構造になっていると言うのです。これは案外、私たちにとって、とても大切なことを指摘してくれています。神が赦しを与える、だから私たちは赦される、という順序です。この順序が逆になることはありません。私たちが自分を立派にする、だから神が聖餐にあずかる資格を与える、そうではないのです。

主イエスのこの言葉は、私たちを立ち上がらせる言葉です。自分が座り込んでいるのではなく、立っていると思っている。それが成り立っているのは、神が私たちを支えていて下さるからです。私は一体何によって立っていたか。それは祈られていたからだ。他ならぬ主イエスご自身によって祈られていたと言うのです。

私たちの信仰は、自分自身で立つことではありません。これもよくある誤解ですが、自分自身の力で立つ、いかにも信仰者はそうであるように思えてしまいますが、そうではないのです。信仰はむしろ自分では立てないことを知ることです。自分自身を吟味した結果、自分では立てない。自分には誇るべきものは何もないかもしれないけれども、そんな自分が支えられている。祈られている。そのことに生きることが信仰です。この聖書箇所のペトロのように、傲慢にも自分で立つことができると言い張るのではなく、神さま、あなたの支えが必要です。あなたの赦しが必要ですと、神に全面的に委ねることが信仰なのです。ペトロもまた、主イエスがこの箇所で言われたことを、生涯にわたって噛みしめて信仰の歩みを送ったと思います。

今日の説教の説教題を「私たちは祈られている」と付けました。祈られているというのは、今日の聖書箇所に他ならぬ主イエスが祈ってくださったことが記されているからです。これはとても大切なことです。私たちの信仰はここから出発しなければなりません。

この国では、お正月の期間、様々な形で祈りがなされます。そこでなされる祈りは、こちらからあちらへの一方通行的な祈りでしょう。私たちが祈る。ただそれだけです。私たちが祈られている、そんなことを考えて祈る人などいないでしょう。

しかし私たち信仰者は違うのです。私たちが祈りをするにも、聖餐にあずかるにも、信仰の生活をする上で、私たちは祈られている、まずはそのことを覚える。例えば、信仰者である親は子のために祈ります。子どもに対して、「祈っているからね」と言う場合もあるでしょうけれども、子どもの知らないところでもたくさんの祈りが献げられています。その子どもにとって、実は長いこと親から祈られていたことを知った時、その衝撃は大きいと思います。これは何も親子の間だけではありません。家族の間でも、信仰の友の間でも、信仰者の交わりが生じているところはどこででも同じです。私たちは祈る者でもありますが、祈られている者でもあるのです。

そして今日の聖書箇所が私たちに伝えていることは、他ならぬ主イエスご自身が私たちのために祈っていて下さるということです。今の私たちのためにも祈っていて下さる。支えていてい下さる。そのことは衝撃的なことでしょう。私たちが神に対して祈るよりも前から、まず神が祈っていて下さる。それが私たちの信仰の土台なのです。

主イエスは続けて言われます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(三二節)。力づけるという言葉は、強めるという意味のある言葉です。何を強めるのか。それは信仰です。信仰が弱くなっているところを、強めることができる。あなたがたはそれができると、主イエスは言われるのです。なぜそれができるのか。主イエスが信仰がなくならないように、ゼロにならないように、祈っていて下さるからです。だからゼロになることはありません。ゼロになってしまったら、もう強めるどころの話ではなくなってしまいますが、ゼロにはならない。だから私たちは、他者の弱っている信仰を強めることができる。力づけることができるのです。

信仰者の交わりは、何よりも祈りの交わりです。主イエスが私たちのために祈っていて下さる。だから私たちも互いに祈り合うことができる。支え合うことができる。兄弟姉妹を力づけることすらできるのであります。