松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年12月30日(日)
説教題「一番偉くなりたい人は仕える人になりなさい」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章24節〜30節

 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

旧約聖書: 詩編 第23編

先週の日曜日はクリスマス礼拝でした。いつものように御言葉を聴いただけでなく、私の司式で二名の方の洗礼式が行われ、また聖餐(パンと杯)をいただくこともできました。先週の礼拝において、私たちに与えられた聖書の箇所が、最後の晩餐での聖書箇所だったというのは、神の大きなご配慮だったと思っています。ルカによる福音書から連続して御言葉を聴き続けていますが、偶然、先週が聖餐の箇所だったのです。クリスマスでしたけれども、この箇所から御言葉を聴くことにしました。

しかし先週の聖書箇所で聖餐が定められた食事の席、最後の晩餐の食事が終わりというわけではありません。たしかに先週の箇所が、聖餐の制定箇所ということになります。この食事の中でも最も強調されるべき箇所と言えるでしょう。しかしこの食事はそのまま続けられます。先週の箇所になりますが、二一節から、ユダの裏切りの予告がなされます。主イエスはユダの名前を挙げないものの、この食卓についている誰かが裏切ると言われるのです。弟子たちは驚きます。一体誰が、という議論を始めるのです。これもこの食事の席で起こったことです。

本日、私たちに与えられた箇所は、その議論の続きになります。誰が裏切るのか。俺ではない。それではお前か。お前でもない。それならばあいつか。というような議論が続けられたのでしょう。次々と人の名前を挙げていく。人をめぐる議論をしているうちに、いつの間にか、誰が一番偉いかという議論になっていたのです。それが今日の話です。

誰が偉いか。ここで用いられている偉いという言葉は、元のギリシア語の言葉では大きさを表す言葉です。誰が一番大きいか。あの人よりこの人の方が大きいか、小さいか。そんな議論をしているのです。人の大きさと小ささを計るためには、人と比べなければなりません。十二人の弟子たちの中で一番偉いのは誰かを話し合っていたのですから、何度も弟子たちの名前が挙げられて、あの人とこの人とを比べ合ったのでしょう。人間はこのように、人よりも自分が大きいか、小さいか、このようにしか大きさを計ることはできません。絶対的な基準があるわけではない。人と比べてのみ、計ることができるのです。

私たちも自分と他人を比べてみます。大きさを計るのです。そして自分の置かれている位置を把握する。このことは自分のことだけではありません。例えば自分の子どもを他人の子どもと比べてみる。こんなことができるとか、こんな能力があるとか、この学校に通っているとか、そのようなことで大きさを比べます。会社に勤めておられる方は、自分の会社が大企業なのか、中小企業なのか、優良企業なのか、そうではないのか、そんな比べ方をします。これも大きさを比べているのです。

私たちの生きている社会はこういう社会であると言ってもよいでしょう。それはちょうど主イエスが二五節で言われている通りです。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。」(二五節)。実際の王や守護者がいなくても、それに代わる者たちがいて、支配し権力を振るっている。上に立つ者が下に立つ者を支配しているのが、私たちの社会であります。

このような支配の仕方は、たとえば君主制と言ったりします。独裁主義などとも言うことがあるでしょう。私たちの国や多くの近代国家では民主主義という体制がとられています。民主主義というのは、英語でデモクラシーと言います。デモというのが民衆を表す言葉です。クラシーというのは支配という意味があります。民衆が支配するから、民主主義なのです。

これに対して、教会はキリストクラシーと言われることがあります。デモクラシーとは違うのです。たしかにデモクラシーのように見えるところもあります。教会総会や長老会では、何事を決めるに際しても、過半数の賛成が必要になります。その意味では民主主義なのです。しかし私たちがそのようにしているところで、キリストの支配がなされている。それがキリストクラシーという言葉に表れています。

キリストクラシーとは具体的にどういうものなのか。それが、本日私たちに与えられた聖書箇所に示されていることでもあります。主イエスの支配は根本的に違うのです。上に立って支配をする君主制でも独裁主義でもなく、また民主主義でもありません。キリストは私たちの下に立つ。人の下に立つことによって、支配をなされる。二六節にこのようにある通りです。「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(二六節)。

主イエスのこの言葉は、最後の晩餐の席で言われた言葉です。弟子たちが、誰が一番偉いかという議論を始めた。そこに主イエスが口を挟まれたのです。最後の晩餐の食事の席では、聖餐が定められただけでなく、いろいろなことが語られたり、なされたりしたようです。

その中でも、ヨハネによる福音書だけがはっきりと伝えている出来事があります。最後の晩餐の食事の席で、主イエスが弟子たちの足を洗われた。いわゆる洗足の出来事がなされました。主イエスが弟子たちの足を順々に洗われる。弟子たちはびっくりしたことでしょう。先生である主イエスが私たちの足を洗ってくださる。洗い終わった後に、主イエスが言われたのはこういう言葉でした。

「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ一三・一二~一五)。

この出来事は、残念ながらルカによる福音書にはありません。マタイにもマルコにもありません。しかしルカによる福音書の今日の箇所に、この出来事が示唆されている主イエスの言葉があります。二七節のところです。「しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(二七節)。主イエスが自ら給仕する者、仕える者、人の下に立つ者になってくださった。足を洗うことは、下の立場の者がすることです。主イエスが率先してそうしてくださったのであります。

少し想像してみていただけるとよいのですが、人からの影響を受けるときに、一番影響を受けるのはどのようなことが起こったときでしょうか。おそらくこういうことが起こったときに、私たちは動かされやすいと思います。誰か偉い人、立派な人、上の立場に立つ者が、普通だったらやりたがらないような、やらなくていいようなことを行っている。なぜあの人はああいうことができるのだろうかということになる。自分もあの人を見習ってみようとさえ思う。

主イエスがなさったのもそうであります。主イエスは神の独り子です。本来ならば、私たちと同じ人間になること自体、あり得ないことでした。それをしてくださる。そして最も低いところまで降りて来てくださる。人の下に、私たちの下に立ってくださる。それによって私たちを動かす。それが主イエスの愛による支配です。この愛の支配で、主イエスは私たちを変えるのです。

私が神学校にいて、牧師になるための学びを続けていた頃、こんな話を聞きました。これはいわば牧師としての心得のような話です。どのようなことでも例に挙げてもよいのですけれども、教会の中で何らかのことを誰かがしなければならない。けれども誰もそれをやりたがらない。誰もやってくれない。その場合に牧師はどうするのか。まずは自分がそのことを率先してやりなさいという話を聞きました。

牧師が率先してやっていると、どういうことが起こるか。最初は一人だけでやっているかもしれません。しかしそれに気付いた人が、今度は一緒になってやってくれる。必ずそういう人が現れるというのです。これは何も牧師だけの話ではない。皆さまがたった一人で担われている奉仕に、働き手が新たに与えられるということだってあるのです。

この話は、教会をよく表していると思います。教会は、この世の組織とは違います。根本から違います。会社などの組織では、上司がいて、部下がいます。上司は部下に対する様々な権限を持っています。人事権であったり、給与を決める権利だったり、上司の発言は絶対です。上司は上に立ち、部下は従う。

しかし教会はそうではない。牧師が信徒に命令をして教会を動かしていくのではないのです。むしろ主イエスが言われるように、人の下に立つ。牧師も信徒も、皆が下に立ち合う。仕え合う。なぜ教会はそうするのかと言うと、他ならぬ主イエスがそうされたからです。あなたがたも同じようにしなさいと言われたからです。実際にキリストが十字架で死なれるほど、私たちの下に立ってくださった。だから私たちも、キリストほどには下に立てませんけれども、下に立つということを率先して行うのです。これが教会を動かす力であり、人を動かす力なのです。キリストクラシーなのであります。

最後の晩餐の席で、弟子たちの議論をきっかけにして、このような主イエスの言葉が語られました。このことによって、弟子たちは下に立つことを覚えたのです。このことが、後の弟子たちの歩みにとって大きな財産になりました。主イエスが十字架にお架かりになり、復活され、しばらくは弟子たちと共に過ごされましたが、主イエスはやがて天に挙げられます。弟子たちが残されました。弟子たちは各地に伝道に周りました。各地に教会を建てました。その際に、弟子たちもやはりキリストに倣い、下に立つことによって教会を形成していったのです。

今日の箇所の最後のところ、二九節から三〇節にかけてこうあります。「だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(二九~三〇節)。

ある人が主イエスのこの言葉を取り上げて、「あなたがたは仕えなさい」と言っておきながら、「あなたがたは支配するようになる」というのはおかしいではないか。なぜこのような矛盾する言葉が並べられているのだ、というふうに言っています。私はその文章を読んで、それは根本的な誤解であると思いました。ここで言われている支配をするというのは、人の上に立つ支配ではないからです。上からの支配ではない。下からの支配。愛による支配です。最も深いところからキリストが支えてくださる支配です。私たちもその支配に支えられて、人の下に立つことができる。仕え合うことができる。そのようにして、私たちも変われるし、人も変えることができる。キリストの支配はそのようになされるのであります。