松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年12月23日(日)
説教題「目に見える確かな救い」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章14節〜23節

 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。

旧約聖書: エレミヤ書 第31節〜34節



レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
最後の晩餐 ( The Last Supper ) / レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci,)

最後の晩餐 ( The Last Supper ) / レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci,)
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 (Chiesa di Santa Maria delle Grazie)
ミラノ(Mirano)/イタリア

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本日の説教の説教題を「目に見える確かな救い」といたしました。このような説教題にしようと思ったのは、ずっと前からのことからであります。この礼拝はクリスマス礼拝でありますが、この礼拝において洗礼と聖餐が行われるからです。教会は二千年前から歩みを始めていますが、その歩みの最初のところから、二つの目に見える確かな救いが与えられていました。一つが洗礼であり、もう一つが聖餐です。何を信じたらよいのか分からない時代にあって、ずっと変わることのなかった確かな救いのしるしが教会にあるのです。

最近、洗礼について書かれた本を読みました。その本は、もともとは一九七〇年代にヨーロッパで書かれた本で、今年、日本で翻訳されて、ついこの前、発売されたものであります。なぜ四十年以上も前の本を、しかもヨーロッパの本を日本に紹介しなければならないのか。それは洗礼が教会にとっていかに大切であるかということを、もう一度日本の教会においても再認識してほしいという訳者の願いがあったからです。

その本からいろいろなことを学びましたが、その中の一つはこういうことです。目に見える確かな救いのしるしである洗礼と聖餐は、教会の最初の出発のときから二千年にわたって続けられてきたということです。時代を経て、だんだんとなされるようになってきたのではない。最初からあったのであります。

聖書にもはっきりとそのことが書かれています。洗礼に関しては、主イエスご自身が言われていることは意外と少ないものです。しかし主イエスは弟子たちにはっきりとこう言われています。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…」(マタイ二八・一九)。教会は主イエスのこのご命令に従って、洗礼を授け続けて、教会を造り上げてきました。新約聖書に収められている多くの手紙も、この洗礼のことが前提に書かれています。

また目に見える確かなもう一つの救いである聖餐もそうです。これも主イエスが定めてくださった。それが本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所です。パンと杯にあずかる聖餐、それは主イエスが最初に定めてくださり、主イエスのご命令通りに教会が行い続けてきました。教会はこの聖餐を祝うために、どんな時代でも人々は集まりました。迫害が厳しい最中にあっても、集まることをやめなかったのです。

本日はこの礼拝の中ですでに洗礼式が行われました。お二人の姉妹が洗礼を受けられた。皆さまがご覧になった通りです。ここに新しく生まれ変わったお二人がおられます。今日からキリスト者という名前で呼ばれます。キリスト者としての旅立ちの日です。このお二人がどのように変わったのか。あるいはこれからどう変わるのか。目で見ただけでは違いが分からないかもしれません。しかしはっきりと目にも見える形で違いが現れます。それは、洗礼を受けた今日から、聖餐に与ることができるようになるということです。

教会では、洗礼を受けた方のことを、現住陪餐会員と呼びます。お二人は教会の名簿に加えられた。教会員になった。その教会員のことを、現住陪餐会員と言うのです。現住というのは、今ここに住んでいるということです。事情があって、他の場所に引っ越しをされて、まだ教会の籍がここに残っている場合は、他住会員と言ったり、この教会では不在会員と言っています。

陪餐というのは、聖餐に与るという意味です。陪餐の陪の字は、そばにつくという意味があります。聖餐の食事のテーブルのそばについているのです。その食卓にあずかるのです。現住陪餐会員とは、今ここにいて、食卓にあずかる会員という意味なのです。洗礼を受けることによって、そこがはっきりと変わるのです。

教会員をこのようにネーミングするくらいですから、教会はこの食事を大切にしてきたのです。他ならぬ主イエスがこの聖餐を定めてくださったからであります。そして主イエスは、いろいろなところで、この食事の交わりを大切にされた方でもあります。主イエスは時には食事に招かれることもありましたが、ご自身から人々を食事の席に招く場合もありました。

食事の席を設けて、人を食事に招くホスト側の人にとって、食事の席が空席になるということほど、悲しいことはないと思います。食事の席にいるべき人がいない。これは悲しいことです。主イエスにとって、神にとって、本来いるべき人がいないというのは、どれほど悲しいことでしょうか。

私たちはルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。ルカによる福音書ではいろいろなことが語られてきましたが、第一五章のところでは、失われたものの三つの譬え話が語られていました。一つ目の譬え話は、百匹の羊のうち、見失ったたった一匹の羊を、神がどこまでも捜し求める譬え話でありました。見失った一匹を見つけたときの神の異常なまでの喜びが語られています。残りは九十九匹もいるから、一匹を失ってもどうしたことはない、というのではありません。一匹がいないというのは、神にとっては異常事態なのです。

私事になりますが、今年の八月に私たちの夫婦に息子が与えられました。病院で出産し、一週間ほどは病院で過ごしましたが、それから自宅に戻り、三人での生活を続けています。そのように生活をしておりましたが、先々週から先週の初めにかけて、三泊四日で息子が入院をすることになってしまいました。幸いにすぐに元気になり、今では退院して元気に過ごしていますが、一種のウイルスにやられてしまったようです。

息子が入院している間、私と妻の二人だけで、家で過ごす数時間がありました。出産前まではそれが当たり前だったのですが、その数時間は、息子が不在という状況。寂しくて仕方ありませんでした。我が家にとって、本当に異常事態が起こってしまった。神にとってもそれは同じであります。一匹の羊がいない。私たちのうちの誰か一人が欠けてしまう。食事の席に空席が一つできてしまう。私たちが想像する以上に、それは神にとって異常事態なのであります。

ルカによる福音書の第一五章の失われたものの譬え話の中には、こんな譬え話もありました。放蕩息子の譬え話です。ある人の息子が、自分の財産の分け前をもらって、遠い国へと旅に出かける。旅先で放蕩の限りを尽くして、全財産を使い果たしてしまう。飢饉が起こって食べるものがなくなり、困り果ててしまったときに、ハッと我に返る。父の家に帰ろうという思いに至り、実際に家に帰還する。帰ってきた息子を父親が受け入れるという話です。

洗礼を受けることは、この放蕩息子の帰還に他なりません。自分の返るべき場所はここであった、自分のこれから過ごすべき家はここであったと思い、帰ってくることが洗礼を受けることです。そして放蕩息子が帰還してきたら、何が行われたのか。祝宴が行われました。無事に帰還した祝いの食事です。そしてそれ以降も、その家では日常の食事が続けられていったことでしょう。放蕩息子の空席はもはやなくなった。そこに息子がいる。放蕩息子の父にとっての異常事態はなくなったのです。

主イエスが求めておられるのも、こういう食事の席なのであります。いるべき人がいない、空席がある食卓ではなく、空席が一つもない食卓、それを主イエスが求めておられます。そして主イエスはこの食事の席のホストとなってくださるのであります。


今日、私たちに与えられたルカによる福音書の聖書の箇所は、主イエスが整えてくださった食事の話であります。先週、私たちが御言葉を聴いたのは、今日の箇所の直前の箇所です。ここには何が書かれていたか。主イエスが二人の弟子を先立って派遣されて、過越しの食事を準備してくるようにお命じになりました。二人は主イエスの指示通りのことを行い、しかるべき場所に食事の準備をしたということです。

それだけではなくて、今日の箇所でも主イエスがこの食事の主催者であることが分かります。今日の箇所の最初の一四節から一九節までは、食事が始まるときの話、食前の話です。主イエスが言葉を述べられる。感謝の祈りをされる。そのようなことが書かれていました。そして二〇節からは食後の話。「食事を終えてから…」(二〇節)というように書かれています。徹頭徹尾、主イエスが整えてくださった食事なのであります。

主イエスはこの食事の席を本当に心から望まれていたようです。一五節にこうあります。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(一五節)。心から願っていたということが、「切に願っていた」という言葉に表れています。新約聖書の元の言葉のギリシア語でこの箇所を読むと、ここは願望の言葉が二つ並べられています。ある新約聖書の学者は「願いに願っていた」と訳していますし、古い文語訳の聖書では「望みに望みたり」と訳されています。私たちは普段、あまりこのような言葉は使わないと思います。それほど主イエスはこの食事をしたいと、以前から切に、本当に、心から、強く望んでおられたのです。

この食事の席についたのは、主イエスの他に十二人の弟子たちでありました。十二人の弟子たちにはどんな人がいたか。他でもない、あの裏切り者のユダがいました。すでにユダは裏切りを企てていた。そして間もなくその裏切りを実行に移そうとしているユダがいたのです。あのユダでさえも、主イエスの食事の席についていた。主イエスがそれを望まれたからであります。

ユダだけでなく、一番弟子のペトロたちも食事の席についていました。ペトロたちも、ユダの裏切りとは違いますが、主イエスの十字架が起こったときに、主イエスを見捨てて逃げてしまいます。この弟子たちも失敗をしてしまうのです。主イエスの食事の席に招かれたのは、このような弟子たちであったのです。

文字通り、これは最後の晩餐でありました。主イエスが十字架にお架かりになって死なれるのが、翌日だったからというのもあります。それに、全員が揃うのが、これが最後だったからでもあります。主イエスはみんなが揃っているこのときに、最後のチャンスに、この食卓を切に願い、望まれ、そして実現したのです。

主イエスはこの最後の晩餐の席で、私たちが今も続けて行っている聖餐を定めてくださいました。聖餐を定めてくださるにあたり、主イエスはどんな言葉を言われているか。この言葉を聖餐の制定語と言います。ルカによる福音書だけでなく、他の福音書にも、またコリントの信徒への手紙一にも、主イエスがどんな言葉を言われて、この聖餐を定めてくださったのか、制定語が記されています。この後、実際に聖餐がなされますが、そこで読まれるのは、コリントの信徒への手紙一の聖書箇所になります。

ルカによる福音書が記録している主イエスの制定語はどんな言葉だったのでしょうか。一九節のところにこうあります。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(一九節)。これは聖餐のパンに対する言葉です。パンが裂かれるわけですが、主イエスの体が十字架で裂かることを意味しています。主イエスはここで「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

主イエスの十字架は一回限りでしたが、聖餐は何度も繰り返し行われます。一回限りではない。その意味で、最後の晩餐は最後の食事なのではなく、聖餐の最初の食事でありました。そして最初の食事で途切れることなく、その後の教会の聖餐へと続いて行った。今日も私たちの教会で行われるのは、その続きなのであります。

パンに続いて、杯の制定語はこうでありました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(二〇節)。杯のぶどう酒は、主イエスが十字架で流された血を意味しています。主イエスのこの血によって新しい契約が結ばれると言われます。

本日、私たちに合わせて与えられたのが、旧約聖書のエレミヤ書であります。松本東教会では、毎週メインとなるのは新約聖書の箇所ですが、旧約聖書の箇所も合わせて一箇所、読んでいます。新約聖書に関連する箇所を選んでいます。旧約聖書と新約聖書と二つに区切られていますが、何で区切られているのかというと、契約で区切られています。古い契約と新しい契約。契約が変わったので、聖書も二つに区切られたのです。

古い契約のことが、本日のエレミヤ書の箇所にも書かれていました。「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」(エレミヤ三一・三二)とあります。かつての契約が古い契約です。神がイスラエルの民に、守るべき戒めを与えられました。これらの戒めを守れば、神が祝福を与えてくださるという契約でした。しかしイスラエルの民は破ってしまった。「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」(エレミヤ三一・三二)。

この古い契約ではなく、新約聖書の新しい契約のことが、このエレミヤ書の箇所で予告されているのです。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ三一・三四)と言われています。新しい契約は、神が私たちを赦し、私たちはその神を信じるという契約です。主イエスによってこの新しい契約が定められた。私たちは洗礼を受けてこの新しい契約の中に入る。そして聖餐の食卓につくのです。

今日はクリスマス。主イエス・キリストがお生まれになったことを祝う礼拝を、私たちは今行っています。主イエスがお生まれになって、母マリアがその手に主イエスを抱きました。父ヨセフも抱いたことでしょう。二人の手には、しっかりとした重みがありました。神の独り子の重みを感じた。神の手ごたえを感じることができた。二人はとても幸いな人であったと思います。

しかし幸いなのは、何もこの二人だけではありません。今日の日に、聖餐に与ることができる私たちも幸いなのです。これは目に見える確かな救いのしるし。手ごたえのある確かな救いです。主イエスは十字架にお架かりになる前に、聖餐を定めてくださった。弟子たちの手にも、その手ごたえがあったでしょう。そして今日、聖餐にあずかる私たちの手にも、その手ごたえが確かにある。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。あなたがたとは、他ならぬ私たちのことです。

この食卓は、主イエス・キリストが切に願っている食卓です。今日の食卓もそうです。主イエスはここに私たちをどうしても招きたいと思っておられる。すでに洗礼を受けた方の席が備えられています。これから聖餐にあずかります。今日、洗礼を受けた方の席も備えられています。共に初めての聖餐にあずかります。そして今日この場には、まだ洗礼を受けておられない方がおられます。食卓の席が空席のまま空いています。主イエスがどうしてもこの食卓に招きたいと願っておられます。切に願っておられます。この食事の席に共につくことを考えていただきたいと思います。ここに確かな救いの手ごたえがあるのです。