松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20121209

2012年12月9日(日)
説教題「人間の罪に飛び込まれる主イエス」

説教者 本城仰太 牧師 

新約聖書: ルカによる福音書 第22章1節〜6節

 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

旧約聖書: 歴代誌上 第21章1〜6節

今日からルカによる福音書の第二二章に入りました。ルカによる福音書の書かれ方としては、だんだんと主イエスの十字架が色濃くなっていく書かれ方をしています。今までの箇所でも、すでに十字架がはっきりと見えてくるような箇所もありましたが、この第二二章からは色濃くなってくるというよりも、もうその出来事が起こり始めると言ってもよいと思います。主イエスの十字架のための計略が、具体的に立てられたからであります。

この計略を立てたのは、主イエスにかねてから殺意を抱いていた祭司長たちや律法学者たちと、主イエスの弟子の一人でありました。主イエスの十二人の弟子の一人、ユダがそうだったのです。ユダの名は全世界に広まっていると言っても過言ではありません。ユダと言えば裏切り者。裏切り者というレッテルが貼られて、全世界へとその名が知れ渡ってしまいました。ユダがここで裏切りを企てた後すぐに、最後の晩餐の場面へと移ります。絵画の世界で、その最後の晩餐の絵がたくさん書かれていますが、ユダの頭にだけ聖人を表す輪が描かれないことがあります。ユダは裏切り者だからというのがその理由でしょう。

このようなことからも、主イエスの痛ましい十字架が起こってしまった責任が、ユダに押し付けられていると言ってもよいと思います。もちろんユダに責任があるのは間違いないことです。ユダ以外にも、今日の箇所に出てくる祭司長たちや律法学者たちにも、その責任が押し付けられることがあります。その責任の範囲が全ユダヤ人たちに広げられることもあります。さらに使徒信条にも告白されているように、ポンテオ・ピラトという当時のローマから派遣されてきた総督に、その責任が押し付けられることもあります。

ユダであろうと、ユダヤ人たちであろうと、ポンテオ・ピラトであろうと、主イエスの十字架の責任を一方的に押し付けるだけでは、私たちには責任がないという話では済まないと思います。自分には主イエスの十字架の責任がない、悪いのはあの人たちだと言うわけにはいきません。なぜかと言うと、今日の箇所ではユダが裏切りを企てたわけですが、私たちもユダのようになる可能性があったからです。

ユダは一体なぜ裏切ったのか。これは聖書に書かれていることの中で最大の謎と言ってもよいでしょう。ユダの裏切りの理由を多くの人が探ってきました。このことを探るためだけに大きな本が書かれたこともあるくらいです。聖書やそのほかのいろいろな文献の中に、ユダの裏切りの理由がこうだったからではないかと、いろいろ推測されて書かれています。

例えば一つの考えられている大きな理由は、ユダは金が欲しかったからではないかと言われています。マタイによる福音書の同じ場面によれば、ユダは祭司長たちのところへ赴き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(マタイ二六・一五)と言っています。ルカによる福音書とは少し書かれ方が違いますが、マタイによる福音書のいい方ですと、金目的と言えなくもないかもしれません。ヨハネによる福音書では、ユダは会計役をしていたようですが、「その中身をごまかしていた」(ヨハネ一二・六)と書かれています。お金が欲しかったから主イエスを売り渡してしまったのだというのが一つの説明です。

しかしもっと違う理由があったように思われます。もう一つ別の理由としては、ユダが主イエスに対して失望してしまったからではないかと考えられています。主イエスはメシア、救い主として期待されていました。ただしどういう救い主であるかということが重要です。私たちは今となっては主イエスがどのような救い主であられるかということを知っていますが、この時はまだ誰もそのことを知りませんでした。ユダや弟子たちをはじめとして、多くの人々は主イエスに別の救い主として期待をしていました。すなわち、傾きかかっているイスラエルの国を強い国として再建してくれる救い主を期待していたのです。

ところがその期待を裏切るかのような発言を、主イエスは第二一章のところでなさいます。第二一章では、エルサレムの神殿が崩壊するという予告をされます。それだけではなくて、エルサレムの街全体が滅亡するというようなことも言われます。ユダはこのことにショックを受けたのだと思います。失望して、主イエスを売り渡すことを決意したのかもしれません。

二つの理由をこれまでに挙げてきましたが、今日のこの箇所にはっきりと書かれている、もう一つの理由があります。三節にこうあります。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれているユダの中に、サタンが入った。」(三節)。ユダがなぜ主イエスを売り渡してしまったのか。ルカによる福音書の説明としては、ユダの中にサタンが入ったからです。ユダはサタンに誘惑されて、そのようなことを企ててしまったのです。

ユダにとっては、主イエスが思い描いていた救い主とは違うのではないか、そんな迷いの中でサタンの誘惑に遭ってしまいました。人間が弱っているときに、誘惑がやってきてしまった。そしてユダは引っかかってしまった。主イエスを裏切ってしまい、裏切り者のレッテルが後世にわたって貼られることになってしまった。私たちも他人事では済みません。主イエスの十字架が、人間が最も弱っているときに、誘惑に遭ったことによって生じてしまったのです。

主イエスの十字架の背後に、このような誘惑があり、裏切りがあったのです。それだけではなくて、二節のところではっきりと「イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。」(二節)とあります。主イエスに対する明確な殺意もあったのです。この殺意を抱いたのは「祭司長たちや律法学者たち」です。聖職者です。殺してはならないという戒めを誰よりもよく知っていた人たちです。それにもかかわらず、憎しみを抱き、殺意にまで膨れ上がっていた。まさに主イエスの十字架は、人間の最もドロドロとして面が露わになっていると言ってもよいでしょう。

主イエスの十字架だけではなく、このことは聖書全体で見られることです。「聖書」は「聖」という字が当てられています。私たち人間の世界で起こるのとは違う、何か聖いことがたくさん書かれていると思うこともあるかもしれません。確かにそのようなことも書かれています。清く、美しい、すばらしい教えも記されています。愛に満ちた言葉や出来事も書かれています。

しかし聖書はそれだけではありません。むしろ多く書かれているのは、人間のとてもドロドロとした面です。殺人、妬み、貪欲、そして裏切りが書かれています。聖書の最初を開いてみると、まず創世記があります。天地が造られ、人間が造られます。最初に造られた人間はアダムとエバです。楽園で過ごします。どんなにすばらしく過ごしたのかと思いますが、神から言われた約束を守れずに破ってしまうということがすぐに書かれています。

そしてアダムとエバの息子たち、カインとアベルという兄弟ですが、兄弟で愛し合って生きたのではなく、兄弟殺しの殺人が起こってしまいます。ノアの時代には人々の堕落がひどく、洪水によってノアの家族以外が滅ぼされてしまうということが書かれています。美しい話というよりも、人間の世界でのドロドロとした話が際限なく書かれているのです。

松本東教会の水曜日の朝と木曜日の夜に祈りの会を行っています。祈りの会では、旧約聖書のヨシュア記から、毎週一章ずつ御言葉を聴いています。先週は第一一章の箇所でした。ここまでヨシュア記を読んでみると、なかなか受け入れ難いようなことが多く書かれています。ヨシュアに率いられたイスラエルは、ヨルダン川を渡り、約束の地の中へと入っていきます。約束の地といえども、そこにはすでに町があり、そこに住んでいる住民がいたのです。ヨシュアたちはその町の人たちと戦い、勝った後は王様だけではなく、全住民を、老若男女を問わず、滅ぼし尽くすということをします。主なる神から命じられてそのように淡々とヨシュアたちは行ったわけですが、こういう記述は、私たちはなかなか受け入れ難いと思います。

そのヨシュア記の第一〇章の最初のところに、エルサレムという地名が出てきます。聖書の中でエルサレムという地名が出てくるのはこの箇所が初めてのことになります。この町もやはり王がいて、住民がいたわけですが、そこの王を木に架けて処刑し、住民を滅ぼし尽くすということがなされます。そしてエルサレムの街に、その後もいろいろなことがありましたが、イスラエルの民が住み、二千年前に主イエスが木に架けられて殺されるという十字架が起こったのです。

聖書のどこを取り出したとしても、多かれ少なかれこのようなことが書かれています。一体なぜ聖書はこんなにドロドロとしているのか。その答えは、主イエスが私たちに与えてくださる救いと無関係ではない。むしろ人間のドロドロとしたところに救いの光が輝くのです。

もうすぐクリスマスです。主イエスが来られます。私たちはクリスマスを待つアドヴェントの季節を過ごしています。先週の説教の中で、アドヴェントという言葉の意味を説明しました。アドヴェントは来る、到来するという意味があります。主イエスが来られる、到来されるわけですが、私たちはこの期間を単純な喜びだけで過ごすわけにはいきません。主イエスが一体どういう道をたどって来られるのか、到来されるのか、そのことを考えなければならないからです。主イエスは人間のドロドロとした部分を通られて、私たちのところにやって来てくださったのです。

マタイによる福音書の最初、すなわち新約聖書の最初になりますが、イエス・キリストの系図が記されています。名前の羅列でありますけれども、この系図は当時の常識から考えると、一風変わった系図になっています。なぜかと言うと、この系図の中に、主イエスの母のマリアを含めて、五人の女性の名前が入っているからです。私は五人の女性の名前と申し上げましたけれども、正確に言うと、名前ではない形で登場している女性がいます。

こういうふうに登場しています。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」(マタイ一・六)。「ウリヤの妻」とあります。ウリヤというのは男性の名前ですが、その妻が系図に出てきます。ウリヤの妻はバト・シェバという名前ですが、王様であったダビデは人の妻でソロモン王をもうけたのです。ウリヤはダビデに仕える兵士でしたが、その妻バト・シェバがあまりにも美しくて、どうしても手に入れたいと思い、ウリヤを戦死させて、バト・シェバを手に入れて、子をもうけたのです。ダビデが犯した大きな罪です。イエス・キリストの系図の中に、わざわざ「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書かれているのは、ダビデの罪、もっと言うと人間の罪を明らかにしているからです。人の妻によって子をもうけたとはっきりと書くのです。一風変わった系図であるもう一つの理由は、人間の罪があからさまにされている系図であるということもあるのです。

ダビデが神に忠実な立派な力ある王として知られていますが、ダビデもまた罪を犯しました。バト・シェバに関する罪だけでなく、もう一つ知られている大きな罪が、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書に記されています。ダビデが王としての地位を固め、晩年の頃であったようですが、人口の調査をしてしまったという罪です。これもサタンに誘惑されたわけですが、為政者ならば、人口の調査をして当然と考えられます。

しかしなぜこれが罪になってしまうのか。聖書にははっきりとその理由が書かれていませんけれども、おそらくこういうことであろうと言われています。ダビデは神に頼るのではなく、人数に頼ったからだ。つまり、自分の国にはこれだけの人がいる。これだけの兵士がいる。だから安心だ、安全だ。神なしでもやっていけると考えてしまったのです。

ダビデといえども、聖書ははっきりとダビデが犯した罪を書くのです。偉大な王であるならば、聖書から除外をすればよいのに、そう思うかもしれません。しかし聖書はその道を取らない。これほどまでにと思うほど、人間のドロドロした部分を描きだすのであります。

主イエスがクリスマスにお生まれになりましたが、主イエスがたどって来られた道は、まさにそういう道だったのであります。人間の罪にまみれた道です。人間が誘惑に遭って、誘惑に屈してしまった道です。ダビデも誘惑されて罪を犯した、ユダも然りです。この後、主イエスの弟子のペトロたちもそうなります。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」(二二・三一)。

誰一人、誘惑に耐えることができない人間たちの中で、お一人だけ、唯一、この誘惑に耐えられたのが主イエスです。ルカによる福音書第四章のところで、主イエスがすべての伝道活動を始められるにあたってまず悪魔からの誘惑に遭われます。四十日四十夜にわたる誘惑に耐えられた上で、主イエスは歩み始められます。主イエスが単に誘惑に耐えられた、それだけでなくて、主イエスが十字架に向かって歩むあらゆる誘惑に耐えられた。十字架への道を踏み外すことなく主イエスは歩まれたのであります。そして来週の箇所では、主イエスは御自分の死を迎えるにあたっての準備をされるのです。

ルカによる福音書では、ユダがなぜ裏切ったのか。その理由として前面に挙げられているのは、サタンから誘惑に遭ったからであります。第四章のところで主イエスを誘惑し、失敗してしまったサタンは、機会をうかがってその時が来るのを待っていました。いよいよその時がやって来た。今度は主イエスに対してではなく、ユダという一人の人が選ばれた。ユダが最も弱っていたとき、人間が最も弱っていたときに、サタンの誘惑が入り込んできてしまったのであります。

このように考えると、私たちもユダのようであります。少なくともユダになり得る可能性があった。私たちの中にはその弱さがあります。自分はユダではなくてよかった、ただそう思うわけにはいきません。主イエスの十字架の責任を、ユダだけに押し付けるわけにはいきません。私たちにもその責任があるのです。

しかし聖書が私たちに伝えている最も大きなメッセージは、私たちはユダのようだ、だから気をつけなさいということではありません。たしかに私たちはユダと同じところがある。しかし神は私たちにユダとは別の道を用意してくださっているのです。

ユダが主イエスを裏切った後、一体どうしたのか。ユダは主イエスが有罪、死刑の判決を受け、後悔しました。そして売り渡した相手である祭司長たちのところに行って、こう言いました。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」(マタイ二七・四)。それに対し、彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」(マタイ二七・四)と言い放ちました。ユダが悔い改めたのに、彼らにはそれを受け入れる力も、それを赦す力もなかったのです。ユダの罪を彼らは解決することができなかったのです。

ユダは絶望をして自ら命を絶ってしまいます。その悲惨の出来事は、マタイによる福音書にも、使徒言行録の最初のところにも記されています。ユダは悔い改めを求める場所を誤ってしまったのです。悔い改めるところまではよかったのかもしれませんが、誰に悔い改めるのかが大切です。ユダは間違ったところに悔い改めてしまった。付け加えるようですが、ダビデは罪を犯したときに、「わたしは主に罪を犯した。」(サムエル記下一二・一三)と言いました。人間に悔い改めても解決にならないのです。神に正しく悔い改めを求めて、初めて罪の赦しが起こるのです。

確かに私たちにもユダのようなところがあると思います。しかしユダのようになるのではない道、別の道が備えられました。主イエスは人類が今までに通ってきたドロドロとした道をたどってきてくださった。清く美しいところから、私たちのところに降ってくるようにして現れたのではない。むしろ私たちのすべての罪を担ってくださったのであります。だからこそ、このお方だけのところに、まことに悔い改めることのできる場所がある。主イエスが来てくださったことによって、私たちは悔い改め、罪赦されて、まことに生きることができる道が与えられたのです。