松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年11月4日(日)
説教題「荒廃の中で輝く信仰」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第21章5節〜9節

 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

旧約聖書: イザヤ書 第37章26〜32節

MCC(松本キリスト教協議会)が主催する聖書人形展が、カトリック教会において開催されています。今日は一三時まででありますから、まだご覧になっておられない方は、帰りがけに観ることもできます。一昨日から始まりましたが、一昨日は私たちの教会が受付の担当でありまして、私も受け付けをしながら、この人形展を観ることができました。

この聖書人形展の人形を造られた方は、ルーテル教会の方であります。制作者のプロフィールのところに書いてあったことですけれども、この方は若い頃に病を患われ、人生に絶望するようなこともあったようです。療養をして、本人もそれほど乗り気ではなかったようですけれども、洋裁学校に入った。そしてその後、人形作りに出会った。神がなされることで、無意味なことは何一つなかったと、今は自分の人生を振り返っておられる方です。

今回のこの人形は、外国でも展示されたようでありますけれども、具体的にどのような展示なのかと言うと、主イエスの十字架から復活の場面を展示しているものです。人形展でありますから、当然、動きはありません。聖書の一つずつの場面が展示されています。その横に聖書の言葉が加えられているだけです。一〇か国語くらいの聖書の言葉が記載されている。それを暗い部屋で灯りに照らされて、聖書の言葉だけを頼りに場面ごとに造られている人形を観ていきます。

場面は全部で一五くらいあります。最初の場面は、主イエスの十字架の出来事の前夜に行われた裁判の様子です。その後、十字架の道を進まれていく場面が描かれています。最後は復活の場面です。墓が空っぽで、マグダラのマリアが墓を覗き込んでいる場面です。一五の場面それぞれは別個に造られたものですが、時計回りに観ていくと、一つのストーリーになっています。バラバラの素材が集められて、一つの物語になっているのです。

そもそも聖書というものは、この人形展のように、バラバラの話が一つの物語としてまとめられたところがあります。例えば福音書に書かれている物語は、物語全体として伝えられていったのではありません。ルカが筆を執ったのは、主イエスが天に挙げられて、数十年経ってからであります。それまでは口伝えで伝えられましたが、最初から最後まで、全部の物語がまとまって伝えられたのではありません。あるときには主イエスがこんな話をされた。別のときには主イエスがこんな奇跡を行った。クリスマスのときにはこんな様子でお生まれになった。最後は十字架にお架かりになられた。三日目にお甦りになられた。それらの話が別々に、独立して、素材ごとに伝えられたのです。

ルカはあるときに筆を執って、それらの独立していた話の素材を、一つの物語として書きました。ルカは教養の高い人物であったようです。聖書の中に「医者ルカ」という言葉もありますから、同一人物であるとすれば、ルカは医者であるわけです。パウロの主治医で、伝道の旅行に同行したのではないかと言われています。パウロや他の人たちから口伝えで主イエスのいろいろな話を聴いていたのでしょう。それから手元にいくつかの文献を置いて、ルカによる福音書を書きました。すでに書かれていたマルコによる福音書も、手元に置いていたと言われています。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所、その前の箇所も視野に入れますと、話の素材はいろいろとあると思います。第二一章の一~四節には、やもめがわずかな額を献金する話が書かれています。その次の箇所には、主イエスがエルサレム神殿の崩壊を予告する話が書かれています。さらにその次の箇所には、終末の徴、終わりの日が来る際にはどんな徴候があるのかという話が書かれています。実はこの話の流れは、マルコによる福音書と同じです。ルカもマルコによる福音書に従ったのかもしれません。

しかしそうであるならば、これらの話の結びつきを考えなければなりません。やもめがわずかな額を献金したなどということは、小さなニュースにもならないような話です。主イエスが目を留められなかったら、忘れ去られてしまったような話です。それに対し、エルサレム神殿が崩壊をする、そんな話は大事件です。さらに終末の徴の話。エルサレム神殿どころではない。世界の終わりに関することです。もっと大きな大事件です。一体これらの話がどういうふうにして繋がっているのでしょうか。やもめの献金という小さな話と、神殿の崩壊や終末の徴という大きな話に、繋がりはあるのでしょうか。

その答えは少し保留にして、説教の最後のところで明らかにしたいと思いますが、神殿が崩壊するなどいう大事件や、ましてこの世が終わるという終末のことは、私たちが苦手とするところだと思います。あまりこのような話題を私たちは真剣に考えないと思います。

神が世界をお造りになった。そしてその世界を導いておられる。そこまではよいかもしれないけれども、この世界をやがて完成させる。完成されるということは、それが世界の終わりです。完了されるわけです。その完了は一体どのように完了されるのだろうかということになる。私たちは世界がどのようにして造られたのかということなら考えやすいと思います。世界がどのように存在し、なぜ私が存在するのか、こういうことは考えると思います。しかし世界がどのように終わりを迎えるのか、私たちはこのことを考えるのは不得意です。せいぜい自分は死んだ後にどうなるのだろうということを考えるくらいだと思います。
一七〇〇年頃から出てきた考えに、理神論と呼ばれる考えがあります。これは、終末を考えるのが不得意な人間が思いついた考えであります。神の存在は信じる、そして神が世界を造られたことも信じる。この点では私たちと同じ考えに立っています。しかし問題はその先です。神は世界を造ったら造ったで、その後は放ったらかしと考えるのです。

理神論とよく結び付けて言われるのは、この世界は「時計仕掛けの世界」であるということです。当時の時計は精巧に作られました。たくさんの歯車があり、複雑な構造をしている。時計職人という人たちが作りました。いよいよ完成すると、ぜんまいを巻いて時計を動かし始める。そうすると、もう時計職人の手から時計は離れて、あとは自動的に時計が時を刻んでいきます。

理神論は世界もそのようであると考えたのです。神が世界を造られたけれども、後は放ったらかし。神があらゆる法則を最初に定め、後は世界が自動的に動いている。今の世界を見ても、とても神が支配されているようには見えない。まして神がこの世界を完成させるなどとも思えない。理神論はそういう考えをするのです。

理神論のこの誤った考えがどこから出てきているのかというと、いろいろな説明をすることはできるでしょうけれども、要するに終末のことが抜け落ちてしまったことが一つの原因です。終末を考えるのが不得意な人間が考え出した思想の一つです。終わりのことが抜け落ちると、このような考えにまでなってしまうことがあるのです。

終末を考えるのが苦手なのは、何も私たちだけではありません。理神論を考え付いた人たちだけでもありません。本日、私たちに与えられた聖書の箇所に出てくる人たちも、終末を考えるのが不得意であったようです。

ここに出てくる人たちは、立派なエルサレム神殿を見ていて見惚れていた人たちです。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると」(五節)とあります。エルサレム神殿は人々の生活の中心でありました。エルサレムに済んでいる人たちはもちろんです。しかしすべてのユダヤ人たちにとって、重要でありました。毎年エルサレムに巡礼に来ること、礼拝に来ることが定められていたからです。エルサレム神殿がない生活は考えられませんでした。

そんな人たちに対して、主イエスは崩壊の予告をするのです。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(六節)。人々はこれを聞いて、そんな馬鹿なことがあるはずがないでしょう、と思ったに違いありません。しかし主イエスが言われているこのことは、四〇年後に実際に起こってしまうことなのです。

実はこのエルサレムの神殿が、かつて破壊されることがありました。かつての神殿、最初の神殿ありますが、これはソロモン王によって建てられたものです。しかしその後、イスラエルは存亡の危機に立たされます。いや、実際に国が滅ぼされるということを経験した。今日、合わせてお読みしたイザヤ書の箇所には、そのような状況が書かれています。「お前はこうして砦の町々を、瓦礫の山にすることとなった。力を失ったその住民は、打ちのめされて恥に覆われ、野の草、青草のように、穂をつける前にしなびる、屋根に生える草のようになった。」(イザヤ書三七・二六~二七)。ここにあるように、エルサレムの街が瓦礫の山になってしまったのでしょう。ソロモンが建てたエルサレム神殿も破壊されてしまいます。

やがてイスラエルは国を再建することができ、神殿も再建されました。これが第二神殿あります。主イエスの頃も、エルサレムにあったのは第二神殿です。どうやら「見事な石と奉納物」(五節)で立派に飾られていたようです。かつて神殿が崩壊したなどという出来事は忘れてしまったのでしょうか。ユダヤ人たちは一度、神殿を破壊されてしまった経験がありますから、私たちよりも危機意識が強かったはずです。それなのに、主イエスのこの予告に対して、そんなことがあるはずはないでしょう、という反応を示したのです。

そんな神殿が壊れるようなことがあるとすれば、もうそれは世界の終わりでしょう。七節からの箇所は、そのような話の流れで続いていきます。神殿が崩壊する、それはつまり世界の終わり。世界の終わりがあるからには、どんな徴が、どんな徴候があるのかということを彼らは問うています。そんな徴候などないでしょうと言わんばかりです。

ここで用いられているのは「徴」という言葉です。わざわざ漢字にされています。この漢字の成り立ちを調べてみましたら、なかなか面白いことが書かれていました。もともとこの言葉は、王様が隠れている人材を引き出すという意味なのだそうです。例えば「徴兵」と言いますが、これは王が兵力になりそうな、隠れている人を表面に引き出して、兵士に取り立てるということになります。聖書では「徴税人」と呼ばれる人も多く出てきます。本来ならば税金は払いたくないわけで、徴税人は隠れているお金を引き出して、税金を納めさせるわけです。奥に眠っていたことを表面に引き出すという意味が、この漢字にはあります。

終末も奥の方に眠っているために、普段、私たちもあまり考えないのかもしれません。しかし終末を考えざるを得ないような徴が表面に浮かび上がってくることもある。そのことが、八節以下で主イエスが言われていることです。「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」(八節)ということは、人々がそれだけ救いを欲しがっているということの表れでもあります。実際にキリスト教と似て非なるものの多くはそのように言っています。

「時が近づいた」(八節)というのもそうです。二〇世紀の終わりに大予言などいうものがありましたが、それも終わりの時が近づいたということです。大きな戦争が起こるときもそうです。戦争が起こると、核兵器が使われて、世界が滅亡する、世界の終わりだというように叫ぶ宗教のグループを耳にしたことがあります。現代でも起こっているこれらのことは、主イエスがここでみんな言われていることなのです。

こういう徴のようなものがたくさん現れる中で、主イエスは私たちに何を命じておられるのか。それは「惑わされないように気をつけなさい」(八節)ということです。主イエスのここでのお言葉を反映するにように、新約聖書の手紙では「惑わされるな」という言葉がたくさん出てきます。例えば、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(エフェソ五・六)という言葉があります。惑わされやすい私たちの性質があるからこそ、これらの言葉が多く書かれたのだと思います。

終わりの徴のようなものが見えたとしても、私たちは惑わされるなと言われていますが、具体的にはどのようにすればよいのでしょうか。終わりの徴のようなものが見えたとしても、私たちは惑わされていつもと違うようにふるまうのではなく、いつも通りの信仰を持っていればよいのです。

私たちが信仰を持つのはどうしてでしょうか。平穏のときのみに信仰を持てるというのではありません。危機がやってきたら信仰を投げ出してしまうならば、それはおかしなことでしょう。逆に、平穏なときには信仰は要らないけれども、危機の時だけ、終末の徴が現れているときだけ信仰を持つというのもおかしなことでしょう。いつどのようなときにも、私たちの信仰は信仰であるのです。平穏なときも、危機のときも、輝きを失うことはないのです。

宗教改革者のマルティン・ルターの言葉ではないかと言われていますが、このような言葉があります。「たとえ明日、世界が終ろうとも、私は今日、りんごの木を植える」。私はかつて、ルターがこの言葉をどこでどのような文脈の中で書いているのかを捜し出そうとしましたが、ついに見つけることができませんでした。どうやら探すことはできないようで、ルターの伝説のようにして残されている言葉であるようです。

しかしこの言葉が、ルターが言ったのであれ、他の信仰者が言ったのであれ、私たちの信仰をよく表していると思います。私たちのいつもと変わらぬ信仰を持って歩む。それが惑わされないということです。平穏なときも、そして危機が迫っているようなときでも、いつもと変わらぬ歩みをするのです。

やもめの場合もそうです。やもめはエルサレムの神殿にわずかな献金を献げました。この献金額では、見事な石のひとかけらにもならないような額です。しかもやめもが献金を献げた直後、エルサレム神殿は崩壊するだろうという予告が主イエスによってなされるのです。崩壊する危機が迫っているならば、献金など献げてもどうにもならないと思ってしまうかもしれません。しかしやもめにも、ルターと同じ言葉を当てはめることができると思います。「たとえ明日、エルサレム神殿が崩壊しようとも、私は今日、レプトン銅貨二枚を献げる」。

これが私たちの信仰です。誰の目にも留まることのないような、小さな信仰の歩みであったとしても、その小さな歩みが輝きを放つのです。私たちが与えられている信仰は決して空しくなることがない。空しくならないどころか、平穏なときはもちろん、危機が迫っているようなときにこそ輝き出す。それが私たちに与えられている信仰なのであります。