松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年12月2日(日)
説教題「救い主がやってきた」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第21章34節〜38節

 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。

旧約聖書: イザヤ書 第9章1〜6節

教会の暦で言いますと、今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントというのは、クリスマス前の期間のことです。今年のクリスマス礼拝は、二三日が日曜日なので、この日に行います。今日の日曜日がアドヴェント第一主日、来週がアドヴェント第二主日、そしてクリスマス礼拝の日がアドヴェント第四主日という言い方をします。

このアドヴェントの季節は、クリスマスに向けての準備をします。先週の日曜日、私たちの教会ではいろいろな準備が行われました。朝のこどもの教会では、アドヴェントカレンダー作りが行われました。楽しみにしていた子どもたちも多いようです。アドヴェントカレンダーは、一から二五までの窓枠があり、十二月になったらその窓の数字を毎日一つずつ開けていきます。今日は二日ですから、窓が二つ開いたところでしょうか。窓を毎日空けながら、クリスマスが来るのを待つわけです。

また先週の午後には、クリスマスツリーを組み立てて、ツリーの飾りつけもしました。これもこどもたちが中心になってやってくれたことです。その他にも、教会の玄関のところにすでに飾られていますが、クリスマスのリースを作りました。ろうそくを四つ立てたアドヴェントクランツも作りました。このような備えをしながら、アドヴェントの期間はクリスマスが来ることを待つわけです。

アドヴェントという言葉は、教会が長きにわたって用いてきた言葉であるラテン語の言葉で、来る、到来するという意味のある言葉です。クリスマスが来るのを待つわけです。私たちは今、アドヴェントの期間を過ごしている。しかしアドヴェントと、わざわざ外国語で言わないで、日本語でいう言い方もあります。アドヴェントを日本語にすると、「待降節」と言います。待つという字に、降誕、クリスマスを降誕とも言いますが、降誕の降の字に、季節の節という字を付けます。アドヴェントは「来る」という意味ですけれども、日本語にすると「待つ」という字をあてるのです。「来る」と「待つ」では合わないではないか、という意見もあります。しかし、私は「来る」にしても「待つ」にしても、大きな違いはないと思います。クリスマスがやって「来る」のを「待つ」からであります。

このようにアドヴェント、待降節の期間、私たちはクリスマスを心待ちにします。けれどもよくよく考えてみると、少しおかしな話かもしれません。クリスマスはもう来たのです。確かにクリスマスは楽しみです。心が躍ります。しかしそれはもう過去の出来事です。その出来事を待つというのは少しおかしいのではないかと思います。

待つということに関して言うならば、私たちはここ数週間、終わりの日、終末に関する御言葉を聴き続けてまいりました。ルカによる福音書第二一章に、そのことが書かれているからです。終わりの日に、主イエスが再び来てくださいます。私たちはその日を待っています。イスラエルの民が救い主の来られるクリスマスを待っていたように、私たちも終わりの日を待つ。その意味で、クリスマスを待つよりも、私たちは主イエスがもう一度来てくださる日を待つ。この待ち方のほうがふさわしいのではないかと思います。

先々週になりますが、私は説教塾の二十五周年のシンポジウムに出掛けてまいりました。シンポジウムの内容に関して、後で少し触れたいと思いますが、今ここでは、ある牧師と話をしたときのことに触れたいと思います。その牧師は、私よりも先輩の牧師であります。私が今、しているように、ルカによる福音書の連続で説教を行ったことのある方です。私が今、ルカによる福音書を説教している、と言ったら、その牧師にどこまで進んだか、と聞かれました。第二一章のところだと答えたら、終末のところだね、と言われました。

それに加えて、このようにも言われました。アドヴェントはクリスマスを待つ期間だとみんな思っているかもしれないけれども、実はもっと大切なのは終末を待つことではないか。だから、あなたはたまたまアドヴェントの期間に、第二一章を説くことになるけれども、それこそがこの時期にふさわしい聖書箇所ではないか。そう言われました。アドヴェントはもちろんクリスマスを待つ期間でありますが、クリスマスを待つことに重ね合わせながら、私たちは主イエスが再び来られる終末を待ち望む期間でもあるのです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は、終わりの日を待つにあたり、主イエスがその心構えを私たちに教えてくださったことが書かれています。私たちは終わりの日を待っている。その待ち方が問題です。本気でまっているのか。それとも備えることなく待っているのか。そのことがここで問われていることです。もしも私たちが本気で待っているとすれば、備えをしながら待っているとすれば、いつその時がやってきたとしても、私たちは一向に困らないわけであります。しかし、備えをしていなければ、その時が今突然やってきたとしたら困ったことになってしまう。そこで違いが生じるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所を理解するのに、別の聖書箇所を少し参照してみたいと思います。「聖書は聖書が解釈する」、これは宗教改革者たちが盛んに言った言葉です。聖書を読んでよく分からない箇所がある。その場合にどうしたらよいのか。誰かに解説をしてもらう、それも一つの手です。宗教改革の時代までは、聖書を本当の意味で解釈することができるのは、ローマ教皇ただ一人だと考えられていました。ルターをはじめとする改革者たちはそのことに反対します。聖書の解釈は教皇の専売特許ではない。むしろ聖書は聖書自身が解釈をしてくれると考えたのです。

今日の箇所でも具体的にそのことをしてみたいと思います。この聖書箇所をどのように理解したらよいのか。他の箇所で参考になりそうな箇所を開いてみたいと思います。

まずは同じルカによる福音書からです。第一二章三五~四〇節にこうあります。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(一二・三五~四〇)。

これは「目を覚ましている僕」の譬え話です。自分の主人の帰りをどのように待つのか、その待ち方のことが書かれています。ただ今お読みした箇所に書かれていたのが、よい僕です。主人がいつ帰ってきても、一向に差し支えのない待ち方です。

しかしこのような待ち方をするのではなく、悪い僕の待ち方が、続く箇所で書かれています。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(一二・四五~四七)。今日の聖書箇所に「放縦や深酒」(三四節)という言葉がありました。要するに、今お読みした箇所で書かれているようなことです。主人が帰ってくることにまったく備えができていなかったのです。

もう一つ、聖書の箇所を開いてみましょう。今度はローマの信徒への手紙です。第一三章一一~一四節にこうあります。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ一三・一一~一四)。

ここでは時の話がなされています。今は夜です。「酒宴と酩酊」(ローマ一三・一三)という言葉も出てきました。ローマの夜の街に、ひときわ明るい場所があったのだそうです。今でいえば居酒屋です。「酒宴と酩酊」と言えば、当時のローマの人はそのような場所をすぐに思い起こしたのだそうです。

確かに今は夜で、そのような場所では夜の生活がなされているかもしれません。けれども朝が近づいています。朝がやってくるのだから、いつまでも夜の生活をしないで、朝に備えた生活をしよう。光の武具を身に付けよとか、主イエス・キリストを身にまとうということが言われています。朝が近いのだから、備えていなさいと言われているのであります。

それぞれの聖書箇所で、終わりの日がやって来る、その備え方が語られています。具体的に書かれている箇所もあります。「キリストを身にまとう」などという言葉もそうだと思います。しかし今日のルカによる福音書の箇所はもっと具体的です。主イエスがお語りになった言葉を、ルカだけが記録をして残してくれたのです。

三六節のところにこうあります。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(三六節)。もちろんのことですが、主イエスは眠ることを禁じておられるのではありません。私たちの姿勢のことを言われています。それも祈りの姿勢のことを言われているのです。

先週、平日にたくさんの集会がなされました。水曜日の祈りの会、木曜日のオリーブの会だけでなく、金曜日の一穂の会もなされました。クリスマスに受洗を志しておられる方の準備の会も行われました。これらの会では、最初に祈ることから始めます。そして会の終わりには祈りをもって会を閉じます。祈りに始まり、祈りに終わるのです。ある牧師が、教会の集会はその内容も大切だけれども、もっと大切なのは祈りで始まり祈りで終わることであると言っています。勉強会であろうと、交わりの会であろうと、祈りによってその会が作られていることが大事だと私も思います。

先週の集会の中でも、特に木曜日の夜の祈りの会が再開されました。夜の祈りの会は、昨年度の後半はほとんど出席者がなくなり、今年度の初めから休会にしていましたが、参加者が与えられて会を再開することができました。とても喜ばしいことです。そこに出席されている方だけではない。教会もここでなされる祈りに支えられているからです。

今まで続けられてきた朝の祈りの会でも、久しぶりに再開された夜の祈りの会でも、集会が終わった後、しばらく雑談をします。雑談と言っても、信仰の話になる場合が多いのですが、その会話の中から聞こえてくるのは、祈ることができるのは本当に幸いなことであるということです。祈れる時と場が与えられている。これはなんと幸いなことではないか、参加をされていた方々が次々と口にしてくださったことです。

私たちの一週間の生活の中にはいろいろなことが起こります。労苦があり、疲れを覚えることが多々あります。そのようなときにはとにかく休みたいと思うのが普通かもしれません。祈ることよりも、ましてわざわざ祈りの会に行くよりも、家に早く帰って休んでおいた方がよいと思うのが、この世の常識です。祈ったところで何の解決になるのかと思ってしまう。しかし主イエスが私たちに言われている生活の整え方は、祈ることによってなのです。

先ほど、説教塾のシンポジウムの話を少しいたしました。ここではその内容の話に少し触れたいと思います。このシンポジウムでは、オランダからイミンク先生という方をお招きいたしました。この先生はオランダの神学校の校長先生をされていた人でもあります。

オランダという国はキリスト教国として知られています。オランダの現状についてもお話を聞くことができましたが、オランダではかつてほど、教会に集まる人が多くないのだそうです。教会に来る人数が少し減ってしまった。しかし、教会に来なくなった人たちが、信仰のすべてを捨ててしまったのかというと、どうやらそうではないらしい。それでも神を信じていたり、宗教心のようなものはまだ残っているようです。しかし教会には行かなくなっている。

そんな現状に直面し、イミンク先生は、教会が現代社会に対して語る言葉がうまく通じていないのではないかという危機意識を持っておられます。教会の言葉が通じない。コミュニケーションがうまくいっていない。だから人々が教会を離れてしまう。離れていった人々を非難するのではなく、教会に対する危機意識を持っておられる方です。

このイミンク先生が特に講演の中で主張しておられたことは、私たちの信仰を生活に根付かせるということです。イミンク先生の言葉で言えば「信仰の生活化」ということです。信仰生活が日曜日だけの生活ではなく、毎日毎日の生活の中で生きてくる。そのことこそが大切ではないかと話されていました。

イミンク先生の講演がなされたわけですが、私は事前にこの講演に対して何らかの応答をするようにと、シンポジウムの準備にあたっていた先生から頼まれていました。イミンク先生のこの講演が終わり、応答をいたしました。私がした発言はだいたいこういうことです。私は毎日曜日に講壇に立って説教を語っているが、私が感じるのは説教の聴き手はどのように生きたらよいのかを知りたいということである。単なる聖書のお話を聞きたいのではなく、聖書に基づいて、どのように生きるべきか、その話を聴きたい。そのことを十分に語ることができたときに、言葉が通じていると私は感じる。そのような発言をいたしました。

この発言に対して、イミンク先生がコメントをしてくださいました。どのように生きるべきなのかということは確かに大切なことであるが、その生活の中心にあるのは礼拝である。礼拝ではいろいろな行為をなしている。讃美歌を歌ったり、祈りをしたり、説教を聴いたりしている。その礼拝行為が中核になって、生活が形づくられていくことが大切であると言われました。

さらに言われたのは、牧師が語る説教の言葉も重要だが、その説教の言葉と同等に牧師の祈りの言葉も重要であるということでした。牧師の祈る祈りの言葉を聴いて、その祈りを模範として自分の生活の中で祈る生活ができることが大切である。そこがまさに信仰の生活化であると言われたのです。

私たちは牧師の祈りを聞く機会は多いと思います。また牧師の直接の祈りに限らず、祈りの本を用いておられる方も多いと思います。立派な言葉で祈れるようになる必要はありません。言葉を美しく飾る必要はありません。むしろ祈りの心に触れていただきたいと思います。時には自分が思いもよらなかったことを祈っていることがあると思います。ハッとさせられることもあると思います。その祈りの心で自分も真似をするようにして祈ってみる。そうすると自分の世界が広がります。祈りが広がるということは、世界が広がるということなのです。

今日の箇所の最初の三四節に「放縦や深酒や生活の煩い」(三四節)という言葉があります。これらがあると、心が鈍くなると言われています。心が鈍くなるとそれは祈らなくなる、世界がどんどんと狭まっていくということに直結していきます。

放縦というのは、勝手気ままであるということです。深酒というのは、その通りの意味であります。放縦も深酒も、あまりくどくど説明されなくても、よく分かると思います。勝手気ままに自分の思うままにやってくると、本来の自分を見失ってしまうものです。心が鈍くなってしまうのです。深酒というのも、何らかのことで思い煩っている心をあえて鈍くしたいときにお酒の力を借りる。

興味があるのは、ここに「生活の煩い」という言葉があるということです。生活の煩いというのは、文字通りの意味です。生活の何らかのことで心が奪われてしまうことです。心が奪われるとどうなってしまうのか。祈らなくなってしまうのであります。

ある牧師から、こんな話を聞いたことがあります。牧師になるためには、例外もありますが、まず神学校に行かなければなりません。牧師になりたいという志が与えられ、一定期間勉強をして、試験に合格し、牧師として教会に赴任するようになる。けれども神学校に入学したからといって、自動的に牧師になれるというわけではありません。残念ながら挫折をしてしまう人もいる。勉強につまずくというよりは、牧師になるという志を逸してしまう場合が多いのです。

その牧師もまた、そのことでつまずきそうになってしまった。牧師になる志が揺らいでしまった。神学校をやめるべきか悩んだのだそうです。その悩みを、神学校の先生に相談してみた。そうするとその先生は、「君は祈っているかね」と言われたのだそうです。もちろん、その他にもこうしたらいい、ああしたらいいというアドバイスはあったのだと思います。けれどもその牧師はそれらのことはすべて忘れてしまったと言っています。ただ覚えているのは、「君は祈っているかね」という言葉だけだった。

その言葉を聞いて、そうだ、自分は祈っていなかったと反省をして、実際に祈り始めた。そうしたら自分に襲い掛かった試練を乗り越えることができたのだそうです。この世的には何の手を打ったわけではありませんが、祈りで自分自身が整えられていった。祈るということは、神に向き合わなければできないことです。神と向き合い、祈っていくことによって自分が整えられていく。これはその牧師だけの話ではないのです。

主イエスは何よりも祈る人でありました。ルカによる福音書には、主イエスの祈りの言葉も記されていますが、祈っておられる姿が何度も描かれています。今日の箇所もまたそうです。「夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。」(三七節)。主イエスほどのお方であれば、祈らなくてもよいのではないかと思われるかもしれません。祈らなくても、父なる神の御心を知っておられるのではないか。なすべきことをお分かりではないか。そう思われるかもしれませんが、その主イエスが誰よりも祈る人でありました。祈りによって、自分の進むべき道を整えていた。その道の先には十字架があったのであります。

来週からいよいよ第二二章に入ります。もう十字架が目前に迫っています。ご自分は十字架にお架かりになる。三日目に復活をなさる。その後、しばらく弟子たちと過ごされましたが、天に挙げられます。ルカによる福音書はそのときの出来事で閉じられています。

今日の箇所は主イエスが十字架にお架かりになる直前に、最後にお語りになったことの一つです。私たちに祈ることを教えてくださいました。すでに主イエスがクリスマスに来られ、そして終わりの日、主イエスが再び来られる日を待っている私たちです。私たちは労苦したり悩んだりすることも多いと思います。そのようなときに、祈る以外に何もできないかもしれません。しかし祈りこそ、私たちの道を最善に整えるものなのであります。