松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年11月25日(日)
説教題「神の言葉は決して滅びない」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第21章29節〜33節

 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

旧約聖書: イザヤ書 第40章6〜8節

毎月初めの日曜日に長老会を行っています。礼拝が終わって、お茶の会があります。会計の奉仕をしてくださっている方は、その奉仕もあります。それがひと段落しましたら、まずは長老会で食事をしてから会議を始めます。まだ会議は始まっていませんから、この食事の席ではいろいろなことが話題になります。

何気ない話でありましたけれども、今月の一一月のときには、こんな話題が出ました。もうすぐ十二月であります。雪が降る季節が近づいてきました。今年は雪がたくさん降るのか、それともあまり降らないのか。私たちはそんなことを思いながら、冬を迎えます。そのときに、ある方がこんな話を紹介してくださいました。「カマキリが高いところに卵を産み付けると、その冬は大雪になる」という話です。実際に今年はカマキリが高いところに卵を産み付けた。雪がたくさん降ることを予測し、埋もれないようにするのでしょうか。そんなカマキリの様子が見られるから、今年は雪が多いのではないか。そんな話が話題になりました。

この話に信憑性があるのかどうか。科学的にも裏付けられているのか。少し調べてみましたけれども、賛否両論、いろいろな意見がありました。どうやら本当にそうであるとか、単なる思い込みだとか、いろいろです。実際のところはよく分かりません。しかしこのような季節を見分ける知恵を、私たち人間はいろいろと見つけるものです。

例えば、夕焼けが見えたら明日は晴れ、という知恵があります。これは何でもない知恵です。太陽は西に沈みます。ここ松本では、西の方角に北アルプスがありますから、それほど真っ赤に染まった夕焼けは見られないでしょう。しかし例えば水平線に夕日が沈む場合、空が真っ赤に染まります。このような夕日が見られるためには、西に雲があってはなりません。雲は西から流れてきますから、夕日が見える、それはすなわち明日、天気がよくなるというわけであります。

その他にも、たくさん挙げることができるかもしれません。天気にことに限らず、野菜や果物を見ても、季節を感じると思います。今の時期は、もう冬に入ったと言ってもよいでしょうけれども、冬本番を前にした時期です。店頭に、林檎や大根や葱や白菜が並んでいると、いよいよ冬が近いと思わされます。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所にも、このような季節の知恵が記されています。イスラエルにもたくさん生えていたいちじくの木を観察することによって得られる知恵です。三〇節のところに「葉が出始めると」(三〇節)とあります。マタイによる福音書とマルコによる福音書では「枝が柔らかくなり」という言葉もあります。いちじくの木にこれらの様子が見られると、ああ、もうすぐ夏がやってくる。みんなその知恵を知っているでしょう、と主イエスは言われるのです。私たちもこういう知恵はよく知っているのです。


しかしここで主イエスが言われているのは、信仰のことです。信仰に関する知恵です。三一節以降にこうあります。「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」(三一節)。「これらのこと」とあります。これらとはどのようなことでしょうか。先週までに私たちに与えられた聖書の箇所に、エルサレムの神殿が崩壊するとか、エルサレムの街全体が滅亡するとか、そのような予告がありました。それだけではなくて、世界の終わるような徴候が現れる。そんな話もありました。「これらのこと」とは、今挙げたすべてのことであります。このような一見すると恐ろしいことが現れたら、逆に神の国が近づいていることを悟りなさいと主イエスは言われるのです。

神の国が近づくというのはどういうことでしょうか。神の国は、ルカによる福音書の大きなテーマです。神の国という言葉自体も、四〇回ほど出てきます。この後は残すところ、今日の箇所を除くと、三回しか出てきません。説教の中でもたびたび触れてまいりましたが、神の国とは神が支配をなさるところです。主イエスがもたらすのも神の国です。多くの人々と出会ってくださいました。主イエスに触れる、つまり神の国に触れた者は、変わっていきます。神がその人を支配なさるからです。

ここでの表現は、神の国が近づいたということです。マルコによる福音書では、主イエスの口から発せられる第一声の言葉はこういう言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ一・一五)。ルカによる福音書では、第一声ではありませんでしたが、主イエスが弟子たちを伝道の旅に派遣されるとき、「神の国はあなたがたに近づいた」(一〇・九)と言いなさいと命じられます。弟子たちもそのように言ったのでしょう。

私たち信仰者も、神のご支配を受けるようになりました。神の国が近づいてきて、私たちも変えられたのです。自分から神の国に向かって歩んだのではありません。向こうからやってきた。そういう意味で、神の国が近づくというのは、よくよく考えてみると驚くべき表現だと思います。近づくというのは向こうからやってくるのです。自分が向こうに向かって行くのではない。自分がその場にとどまっていても、向こうからやってくるというのです。

そのやってくるのをどのように見分けるのかというのが、今日の箇所で主イエスが言われていることです。いちじくの木を見ていると、夏が近づいてきたということが分かる。それと同じように、終末の徴が見えてきたならば、神の国がますます近づいてきたということが分かるというのです。遠くにあるというのではない。逆にもう完全にここにやってきたというのでもない。もうすぐのところまでやってきている、近づいているというのであります。

三二節には「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」(三二節)とあります。「すべてのこと」というのは、先ほどの「これらのこと」というのと同じです。エルサレムの神殿が崩壊するとか、エルサレムの街が滅亡するとか、終末の徴が現れるというようなことです。つまり私たちにとって恐ろしいことが現れるということです。これらの恐ろしいことが現れると、私たちはどう思うでしょうか。この時代が終わってしまうのではないかと思います。もう駄目だと思ってしまうのです。

しかし私たちがもう駄目だと思ったところで、主イエスは滅びないものがあると言われます。まず主イエスが言われているのは、「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」(三二節)ということです。「時代」という言葉が出てきました。日本語の聖書で「時代」と訳されているものもありますが、「世代」と訳されていることもあります。英語ではジェネレーションという言葉です。時代には時代を構成する人がいます。一時代が終わると、一世代が入れ替わります。時代も世代も、ほとんど同じ意味を表していると考えることができます。

主イエスが「この時代は決して滅びない」と言われていますが、問題はこの時代とは一体何かということです。どの世代の人たちのことでしょうか。どの時代の人たちのことでしょうか。実際にいろいろな意見があります。主イエスと同時代人の人たちのことではないかという考えがあります。時代よりも世代という意味を考えたときに、これはユダヤ人たちのことではないかという考えもあります。主イエスの時代ではなく、ルカによる福音書が書かれたのは一世代新しくなってからでありますから、ルカの時代ではないかと考える人もいます。いやいや、そうではなくて、終わりのときに生きている人たちの世代のことではないかと考える人もいます。

いろいろな意見が乱立しています。聖書の解説書にいろいろなことが書かれています。書かれていますけれども、ずばりこれだと断言することができません。いろいろな説明がなされ、いろいろな考えができる。私もずばりこれだと断言することができません。

しかしいずれにせよ、私たちが考えておかなければならないことがあります。滅びる、滅びないということを主イエスは言われています。時代や世代が滅びる、滅びないということを考える。人類が滅亡するということや、日本人が滅亡をするということを考えてみる。恐ろしいことですが、ユダヤ人の滅亡を目指した者たちもいました。滅びる、滅びないということを、私たち人間は少し安易に考えてしまうかもしれませんが、私たちが決めるわけにはいかないのです。

主イエスがここで何を言われているのか、聖書学者たちの間でも意見が分かれるところで、私たちもその真意を完全にくみ取ることができないかもしれませんけれども、一つはっきりとしていること、私たちがわきまえるべきことは、私たちの側で、滅びる、滅びないということを決めるわけにはいかないということです。もう駄目だ、もう滅亡だと私たちが決めたとしても、主イエスは「この時代は決して滅びない」(三二節)と言われるのです。

滅びも神からやってきます。神がお造りなられたものは被造物です。造られたものです。造られたからには、やがて過ぎ去っていきます。滅びるものです。けれどもここで主イエスが言われているのは、滅びの儚さではありません。滅びよりもむしろ滅びないことに関してです。

本日、合わせて旧約聖書のイザヤ書をお読みいたしました。イザヤ書のこの第四〇章の箇所は、ある歴史的な出来事を前提にして書かれていると言われています。イザヤ書全体を読むと、分かることですけれども、イザヤ書の第三九章以前と、イザヤ書の第四〇章以降は少し調子が変わってきているのが分かります。第四〇章以降は、イスラエルが経験したバビロン捕囚という出来事を前提にして書かれているのです。

バビロン捕囚とは、バビロニアという国にイスラエルが滅ぼされてしまい、国の主だった人々が遠いバビロンの国に捕囚民として連れて行かれるという出来事です。今日の聖書箇所の少し前のところですが、「荒れ野」(イザヤ四〇・三)という言葉もあります。エルサレムの街は本当に荒れ野のようになってしまいました。それまでに神殿がありましたが、神殿も破壊されてしまった。エルサレムの街は荒廃してしまった。それだけではなくて、バビロニアの国に連れて行かれた人にとっては、荒れ野に帰り道などない。そんな状況だったのであります。

ですから、今日の旧約聖書の箇所では「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ四〇・八)と語られていますけれども、この言葉は廃墟の中で語られた言葉なのです。立派な建物が建っていて、これらの立派な建物にうつつを抜かすな。やがてこれらは過ぎ行くのだから。そういう状況の中で語られたのではないのです。荒廃の中、荒れ野に向かって、廃墟の街に向かって、この言葉が語られたのです。人々はもう駄目だ。希望がない。世界も終わりだ。そう思っている人々に対して、預言者イザヤはこの言葉を神からいただき、語りました。やはりイスラエルの人たちもまた、このときは自分たちで勝手に滅びを決めていたのです。もう駄目だ、滅びる以外にないと勝手に決めていたのであります。

主イエスは「この時代は決して滅びない」(三二節)と言われていますが、「すべてのことが起こるまでは」(三二節)という条件付きであります。すべてのことが起こってしまったとすれば、やはりこの時代、この世代も過ぎ去るわけです。続く三三節には「天地は滅びるが」(三三節)と続いていきます。時代も世代も、天地でさえも滅びる。その中で何が唯一、滅びないのか。それは神の言葉であります。「神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ四〇・八)のであります。

本日、この説教の前に、讃美歌一八七番を歌いました。讃美歌はいつも一か月ほど前に決めています。この讃美歌もそのくらい前からこの礼拝で歌うことを決めていました。讃美歌は、その時その所でふさわしいものを選びます。選ぶのに苦労することもありますが、この一八七番はほとんど迷わずに決めました。

この讃美歌は一番と二番だけの短いものであります。糧が尽きないということが歌われています。ガリラヤ湖畔で、主イエスが五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人、実際はそれ以上の人たちを養いました。余ったパンくずを集めると、十二の籠がいっぱいになったほどです。この話は主イエスの奇跡に話です。ここからどういうメッセージを聴き取ればよいのか。

すでにルカによる福音書のこの箇所から説教をいたしましたが、私たちは、主イエスが与えてくださるもの、神が与えてくださるものは、決して尽きることがないということを、知ることができました。主イエスのパンは私たちを養う。余るほど養ってくださる。これはもちろんパンだけの話ではなくて、主イエスから語られる言葉も、決して尽きることはないのです。そこからいくらでもメッセージを聴き取ることができる。なぜかと言うと、神の言葉は決して滅びることがない。尽きることがないからであります。

私たちは、有限な存在です。有限な世界の中で生きています。天地は滅びると主イエスもはっきりと言われています。滅びるのです。しかしそのような有限な歩みをする中で、私たちは永遠に変わることのないものに触れることができる。それは神の言葉であります。

先週の火曜日から木曜日にかけて、私は二泊三日で東京の方に出掛けてまいりました。説教塾の二五周年のシンポジウムが行われました。以前の説教でも申し上げたことですが、オランダの改革派教会から、神学校の校長も務められた方ですが、イミンク先生という方をお招きし、その方の講演を聴いたりいたしました。

この講演の内容のことに関しては、またお話をする機会もあると思います。このシンポジウムには、全国から百名以上の牧師たちが集まっていました。その中に、松本東教会のかつての牧師たちもおられました。そんなに長い話ができたわけではありません。短く近況を伝え、松本東教会の今の様子をお伝えしました。

考えてみますと、時の流れと共に、教会もまた変わっていくものであります。牧師も代わることがある。もちろん教会も変われば、礼拝のメンバーも変わるのです。かつての牧師が、今の教会の様子を写真で見る機会があったそうですが、その写真の中に映っている人たちのほとんどが知らない人になっていた。しかしそのことをとても喜んでおられたという話を聞きました。

時と共に教会が変わり、メンバーも変わっていきます。しかし変わらないものがある。それはそこで語られている神の言葉です。語る者、聴く者が変わろうとも、変わらないただ一つのものは、決して滅びることのない神の言葉です。過ぎ行く私たちは、決して変わることのない神の言葉に触れて生きることができるのです。それが教会です。神の国はここにすでに近づいてきている。私たちが礼拝をしているとき、すでに神の国に触れているのです。聖餐の糧にあずかるとき、私たちは神の国の食事の席にすでに触れているのであります。