松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年11月18日(日)
説教題「将来を知る者は不安に駆られない」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第21章20節〜28節

 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

旧約聖書: ヨブ記 第28章12〜28節

FEBCというキリスト教ラジオ放送局があります。そのFEBCが毎月発行しているFEBC1566という読み物があります。松本東教会でも取り寄せていますので、お読みになっておられる方もあると思いますが、十一月のFEBC1566の大一面のところに、加藤常昭先生と雨宮慧先生という方の対談が載せられています。「聴こう、神の言葉を!」というタイトルが付けられている対談です。

加藤常昭先生のことは皆さまもよくご存知であると思いますが、雨宮慧先生とは一体どのような先生か。雨宮先生はカトリック教会の司祭であります。上智大学の教授でもあり、聖書学者でもあられます。聖書学者として、プロテスタント教会の牧師たちからも高く評価をされている方です。特に私も読んでいますけれども、詩編の注解などはとてもよいものです。

このお二人が「聴こう、神の言葉を!」ということをめぐって対談をしているわけですが、対談の大部分の内容は、聖書の読み方に関する内容になっています。どのように聖書を読んだら、その結果として神の言葉を聴くことになるのか。その話がなされますけれども、加藤先生が一つの懸念を表明しておられます。特にプロテスタントの聖書学者ですけれども、学問的に聖書を読むには読んでいるけれども、それが必ずしも教会の訳に立っていないということです。

実際に私が学会などに出かけていきますと、聖書学に関する研究発表もなされています。しかしその発表者が本当にキリスト者なのか、信仰者なのかもよく分からない発表もあります。たしかに研究発表で言っていることはそうなのだろうけれども、教会にとって役に立つような発表ではない場合もあります。

知識だけで聖書を読む。この箇所にはこういうことが書かれている。その知識だけで聖書を読む。これは聖書本来の読み方ではありません。加藤先生が対談の中で言われていることですけれども、「聖書に心で触れる、私たちの存在そのもので触れる」。これが聖書の本来の読み方なのです。

それでは一体どのように聖書を読めばよいのか。この対談の中で、これは牧師とか説教者にとっての読み方かもしれませんが、雨宮先生がこのような方法を言われています。とにかく徹底的に聖書を読む。聖書の言葉を追い、この箇所には何が書かれているのかを考え抜く。場合によっては言葉を調べるために辞書を用いる。しかし最初から、聖書を解説してくれる注解書は用いない。そうするとやはり、この言葉の意味がよく分からないとか、これはどういうことを言っているのかということが知りたくなってくる。そのような問題意識を持ってから聖書の解説書を開くというのです。

もしかすると、このことは説教の聴き方にもかかわってくるかもしれません。礼拝に来て、今日の聖書朗読を聴いて、なんだかよく分からない。分からないから、では先生、解説をお願いしますという思いで説教を聴く。その解説を聴いて分かったような気になる。

そういう聴き方もありますが、こういう聴き方もあると思います。例えば今日の説教の説教題は「将来を知る者は不安に駆られない」であります。なぜこのような説教題が付けられているのだろうか。なるほど、今日の聖書箇所の中に「不安」という言葉がある。「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」(二五節)。たしかに何をしてよいか分からない状況では不安だろう。しかし自分はどうだろうか。「将来を知る者は不安に駆られない」とあるが、自分は将来のことを知っているだろうか。いやいや一寸先も分からないではないか。

そんなことをいろいろと考えることができると思います。その上で、説教を聴く。このようにいろいろと自分のこととして聖書の言葉を考えるのが、加藤先生が言われている「聖書に心で触れる、私たちの存在そのもので触れる」ということだと思います。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の聖書の箇所は、少し読んだだけでは、やはり何を言っているのだか、よく分からないところもあると思います。エルサレムの滅亡が予告されていたり、人の子が来るというような内容が書かれています。これが一体、自分とどのようなかかわりを持つのか。まずは雨宮先生が言われる通り、聖書の言葉とじっくりと向かい合うところから始めてみます。

そうすると、二〇~二四節ではどうやらエルサレムのことが言われていることが分かってきます。エルサレムが滅亡するような恐ろしいことまでも言われているようです。少し聖書の範囲を広げてみますと、第二一章の五~六節のところに、同じような話しが書かれていたことに気付きます。ここではエルサレムの神殿が崩壊する予告ですが、同じことが別の角度から語られているのではないかということも分かってきます。二五~二八節も同じことが言えます。二五節には「徴」という言葉がありますが、これも七~一九節で言われていました。終末、つまり世界の終わりのときに現れる徴のことです。

つまり主イエスは今日の箇所で、すでに語られたことを再び繰り返して、しかもさらに具体的にお語りになってくださったのです。神殿を含めてエルサレムが崩壊する、エルサレムどころではなくて世界の終わりのときの徴候の話もされています。エルサレムの崩壊のことは私たちとはあまりかかわりのないような話ですし、世界の終わりというのも少々大きすぎる話であるかもしれません。

しかしこれを自分の心を寄せて読む、自分の存在そのもので触れて読んだときに、どのように読むことができるでしょうか。私たちにとってもこれらは危機であります。私たちのよりどころだと思っていたものが崩壊をする。この世の終わりだというような危機が迫っている。そのような危機の際に私たちはどうすればよいのか。そう考えたときに、私たちは「心で触れる、存在そのもので触れる」聖書の読み方ができる。神の言葉を聴くということもできるのであります。

このような国の危機や、世界の危機に加え、私たちの個人的な危機も考えることができるかもしれません。私たちに危機が迫ってきたとき、私たちはどのようにそれを乗り越えればよいのでしょうか。

先週の木曜日、いつもの通りオリーブの会が行われました。先週のテーマは、「悲しみはどう乗り越えればよいのですか」というテーマでした。このテーマに基づいて、私が短い文章を書き、それをみんなで読んで、関連する聖書箇所を挙げて黙想をし、みんなでこのテーマをめぐって話し合いました。

「悲しみはどう乗り越えればよいのですか」というテーマでしたが、何もこれは「悲しみ」に限定をしなくてもよいわけです。「悲しみ」という言葉ではなく、「苦難」とか、それこそ「危機」という言葉を入れてもよいわけです。私たちがそれらをどう乗り越えるかというテーマです。

みんなで話し合いをしているときに、参加者の中からこんな発言が出ました。信仰を持っているキリスト者はとてもポジティブである、という発言です。苦難がやってきた。危機がやってきた。そんなときに人間はネガティブになります。悲観的になります。下を向いてしまいます。しかし信仰者はどこか違う。むしろ上を向く。神を見上げる。「神さまどうしてですか」、「私が今、受けている苦難にどのような意味があるのですか」と神に問い続けます。

そして苦難が去ったら、神に感謝をする。そこには一回り成長した自分がいます。苦難を感謝することさえあり得る。もしかしたら、苦難を乗り切った自分の姿を見て、他人まで励ましていることがあるかもしれない。そんなふうに、信仰者はとてもポジティブであると、みんなで話し合いをいたしました。

もちろん、苦難に襲われた最中にいるとき、ポジティブでいるどころではないときもあります。今日、合わせてお読みした旧約聖書の箇所に出てくるヨブという人物もまたそうでありました。ヨブは人間の中では最も大きな苦難を味わった人物と言ってもよいでしょう。もちろん、まことの人となられた主イエス・キリストが十字架で負われた苦難にはほど遠いわけですが、ヨブは息子と娘をすべて失い、全財産もすべて失うほどの苦難を味わいました。

ヨブは苦難の中で何をしていたのでしょう。もちろんヨブは嘆きました。なにゆえ私がこのような不当な仕打ちを受けているのか、神に訴え続けます。自分は正しい人間のはずなのに、なぜこのような災いが降りかかるのか。それをお許しになる神こそが不当ではないかと、ヨブは嘆いたのです。

このように嘆きながら、ヨブは知恵を問いました。それまでにヨブが知っていた知恵では、神に従う正しい人には幸いがあり、神に逆らう罪人には不幸があるということでした。実は旧約聖書の中でも、詩編の次に箴言と呼ばれる箇所がありますが、この箴言はヨブがそれまでに知っていた知恵を説いているものです。例えば「神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる。」(箴言一〇・七)とあります。これは楽観的な知恵です。こうなれば神に従いさえしていれば、人生のすべてがうまくいくということになりますが、実際にはそうはならないところがあります。

ヨブが正しい人だったのかどうかという話は別にしても、私たちはあんなにいい人がひどい苦難の中にいるという事実を知っています。またあの人は生活がどうもだらしないように見えるけれども、けっこううまくやっているという事実も知っています。ヨブが知っていた単純な知恵では通用しない。説明できない。そこでヨブは新しい知恵を求めるのです。

ヨブ記の中でも第二八章は独特なところがあります。ヨブに苦難が襲い掛かり、友人たちが慰めにやってきます。慰めとは言っても、友人たちと議論をします。ヨブよ、お前のこんなところが駄目だったのではないか。いやいや、私はこんなにも正しい、とやり取りをし合うのですが、この第二八章は少し違います。議論を中断するように、知恵のことが語られているのです。ヨブ記では最後の最後のところで、神の言葉がようやくヨブに届いてきます。それまで神は沈黙をされ、ヨブはなかなか答えを得ることができないわけですが、この第二八章では神が口を開かれているのではないかと思われるような箇所もあるのです。

ヨブは新しい知恵を求めます。「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか。」(ヨブ二八・一二)。ヨブがすぐにその答えを言っています。「人間はそれが備えられた場をしらない。」(二八・一三)。そして二三節のところです。「その道を知っているのは神。神こそ、その場を知っておられる。」(二八・二三)。

そしてついに神が口を開かれます。「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別。」(二八・二八)。ヨブが求めていた本当の知恵は、人間にはありませんでした。ヨブはそのことをこの第二八章で示され、そのことを次第に知っていきます。私たち人間の知恵には限界があり、神に本当の知恵があることを知るのです。

このことは、本日私たちに与えられたルカによる福音書の箇所でも、とても大事だと思います。大きな危機のことを主イエスがお語りになられています。危機にどう対処すればよいのか、人間はその知恵を求めます。しかし大きな危機に対しては、人間には限界があります。無力であるということを知らなくてはなりません。

東日本大震災がありました。震災も大きな危機でありました。未だに危機の中にあると言ってもよいでしょう。震災後にも震災を意識した説教が多くなされました。ある牧師が震災後に、今日の聖書箇所で語られた説教も私は読むことができました。「地上では海がどよめき荒れ狂うので」(二五節)とあります。震災での津波になぞらえて語られていました。津波も地震も原発の事故も、二五節にありますように、私たちを不安にさせます。

震災が私たちに突き付けたものは、いろいろと挙げることができるでしょうけれども、その一つは不安であると思います。自分は今回は直接の被害には遭わなかったかもしれないけれども、安全、安心だと思っていたことが、実はそうではなかった。次は自分の番になるかもしれない。どうすればよいのか。しかし対処することができるような知恵はありません。だから私たちは不安になるのです。この先がどうなるか分からないから、不安になるのです。

しかし私たちキリスト者に与えられている知恵があります。二七節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光に帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(二七節)とあります。これは旧約聖書のダニエル書の中に記されている表現です。「人の子」という言葉も同じ言葉が使われています。ダニエル書では人の子が誰なのか、はっきりしないところがありますが、新約聖書ではこれを主イエス・キリストのことだと理解しています。終わりのときに、人の子、つまり主イエスが再びやってくる。ルカによる福音書のこの箇所でもそうですし、マタイによる福音書でもそうです。ヨハネの黙示録にも同じような表現あります。主イエスが来られる。何のために来られるのか。それは裁きのためにであります。

裁きというと、これも私たちを不安にさせるものであります。ほとんどの方が経験したことはないと思いますが、裁判を受けなければならないときを想像してみるとします。自分が裁きを受ける。判決に絶対の確証があるならばともかく、そうでないとすれば、判決が目前に迫っているときは不安になると思います。自分が無罪なのか、有罪なのか。自分が解放されるのか、束縛されるのか。分からにと不安であると思います。

まして神に裁かれるとすればどうでしょうか。私たちの生き方が問われる。信仰が問われる。神の前に胸をはって出ることができる人などはいないと思います。私は救われるのだろうか、救われないのだろうか。天国に行けるのだろうか、行けないのだろうか。私もしばしばそのような質問を受けることがありますけれども、そのような質問を受けるということは、質問をしてきた方がやはり不安だからだと思います。裁きの行方が分からないからだと思います。

しかし主イエスは続けて言われます。「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(二八節)。主イエスのお言葉ははっきりしています。裁きの行方がどうなるのか分からないのではない。はっきりとあなたがたの解放、つまり救いをお語りくださるのです。

「解放」という言葉になっています。これは元の言葉では「贖い」という言葉です。贖いという漢字を思い浮かべていただくとよいと思います。漢字の左側は貝ヘンです。貝はお金を表しています。文字通り、奴隷をお金で買い取って、解放をする、自由にするという意味があります。私たちの贖いもそのイメージで考えるとよいでしょう。私たちを罪の奴隷にし、束縛していたところから、神が贖ってくださる。解放してくださる。自由にしてくださる。救ってくださるのです。

裁きは裁きでも、それは私たちを解放する裁きなのです。人々は裁きの行方が分からないから不安でありましょう。しかし信仰者はそうではないのです。教会の人たちは主イエスが再び来てくださることをずっと待ち望んできました。主イエスが来られ、裁きの結果が分からないのであれば、待ち望むはずがありません。しかし私たちにはそのときに何がなされるのか、知らされているのです。私たちの解放が近い、救いがなされると主イエスは言われるのです。

だからこそ、信仰者はポジティブでいることができるのです。なぜポジティブなのか。それは終わりには必ずこうなるということが知らされているからです。どんな危機が起ころうとも、世界が終わりになるほどの危機が訪れようとも、私たちは頭を上げていることができる。終わりには私たちの救いが必ず約束されているからであります。