松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年11月11日(日)
説教題「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第21章10節〜19節

 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

旧約聖書: ダニエル書 第12章1〜4節

本日のこの説教の説教題を「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」といたしました。教会の前に掲示板がありますが、そこに一週間掲げられていました。毎週日曜日、夕礼拝が終わったところで看板の説教題を貼り替えています。それから一週間、今日の日までこの説教題が掲げられていたわけですが、道行く人々はこの説教題を見て、どのように感じられたことでしょうか。あるいは、先週の週報にもこの説教題の予告がありましたから、皆さまはどのように感じられたことでしょうか。私も伺ってみたい気がいたします。

この説教題でありますが、本日私たちに与えられたルカによる福音書の箇所の最後のところが基になっています。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(一九節)。ルカによる福音書だけではなく、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも同じときの出来事が記されています。少しずつ表現が違っていますが、この一九節の箇所はルカだけがこのようになっています。マタイとマルコでは、本日の説教題であります「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」となっているのです。

違う表現になっていますが、同じことが言われていると思います。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」、ルカは少しそれを言い換えて、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(一九節)と言っています。救いが命を勝ち取ることだと考えているわけです。

救いを得るために、私たちがどのようにしたらよいのか。それは私たちにとって最重要課題です。最も関心を寄せることでしょう。そんな関心を寄せて聖書を読んでみると、そこに書かれていることは、神が私たちを救ってくださったということです。私たちが救いを勝ち得たのではない。ただ神が救いを差し出してくださった。聖書を読めば読むほど、聖書を学べば学ぶほど、教会で説教を聴けば聴くほど、私たちはそのことを知らされます。私たちが何かよいことをしたからではないのです。神の良い子どもであるから救われたのではなく、悪い子にもかかわらず神が救ってくださったのです。

そうなると、私たちは救われるために何もする必要がないということになってしまうかもしれません。確かに私たちが何かをするにしても、私たちにできることはほとんどありません。しかしまったく何もしなくてよいのかというと、そうではありません。救いのために私たちは何もできない。だからこそ私たちは忍耐する必要があるのです。忍耐とはじっと待つことです。神が何かをしてくださることをじっと待つことです。私たちが人生を生きるにも大切なことですし、何よりも信仰を持って生きるにも大切なことなのです。

今年の七月に、加藤常昭先生をお招きし、説教をしていただきました。午後には講演もしていただきました。そこで私たちが学んだことは「慰め」です。自分が気落ちしてしまったときには、誰かに慰めてもらいたいと私たちは思います。また誰かが気落ちしてしまったときには、その人を慰めたいと私たちは思います。慰めるためにはどうすればよいでしょうか。私たちは相手のために、何か慰めになるようなことをすることはなかなかできません。何か慰めになるような言葉をかけることもなかなかできません。加藤先生から私たちに示されたのは、ただ一緒に寄り添うということです。一緒に並んで困難に向かい合う。一緒に並んで神に向かう。私たちにできることは少ない。ただ祈るだけであるかもしれません。やはりここでも問われるのは忍耐ということです。

私も教会の牧師として、教会の方から話を聞く機会があります。いろいろな悩みや苦しみを聞きます。やはり私も具体的な助けになるようなことはほとんどできません。ただ相手の話を黙って聞くことの方が多い。しかし相手に寄り添うのです。そして話を聞き終わったところで、聖書を読み、祈りをいたします。いろいろなことを祈るかもしれませんが、やはり私の祈りはこういう祈りに集約していきます。「どうかこの兄弟、姉妹が忍耐をすることができますように。その忍耐の中であなたが状況を変えてくださいますように。そのために忍耐をする力を与えてくださいますように」。

最近、私がよく考えさせられる聖書の言葉があります。主イエスがお語りになられた言葉で、とても有名な言葉です。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ五・三九)。かつて私はこの言葉や「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ五・四四)という言葉を、自分にはとても不可能な言葉だと思っていたところがありました。一部の立派な信仰者だけができる話だと思い、あまり真剣に考えてこなかったようなところがあります。

しかし私たちが忍耐をせざるを得ない状況では、この主イエスの言葉が問われる。もっと言えば、主イエスのお言葉が本当に意味を持ってくる、輝きだしてくると思うのです。右の頬を打たれる、これは激しい表現です。本当に頬を打たれるということでなかったとしても、右の頬を打たれるような状況を私たちも経験します。そのとき私たちはどうするでしょうか。相手の右の頬を打ち返すでしょうか。それとも次の攻撃に備えて防御の体制を整えるでしょうか。それともその場から逃げ出すでしょうか。

ところが右の頬を打たれたら左の頬を差し出すというのは、そのような状況を忍耐するということであります。右の頬を打たれたからには、次は左の頬に攻撃が飛んでくるかもしれません。それをじっと忍耐する。ここでも問われているのはそのことだと思うのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、説教題に現れています通り、忍耐のことであります。話としては、先週の箇所からの続きの箇所となっています。先週の箇所は五~九節まででありました。今日が一〇節以降ということになります。

実を申しますと、私は先週の聖書箇所と今週の聖書箇所のどこで区切るのか、そのことでだいぶ迷いました。先週の箇所からの流れで考えますと、主イエスがお言葉を語っておられますが、九節のところでいったん言葉が切れます。一呼吸おいて、再び語り出される。それが一〇節からです。話が途切れたところで、先週と今週を分けることにいたしました。

しかし内容から考えるならば、今日の箇所の最初の一〇節、一一節のところは、先週の箇所と同一の内容と言った方がよいでしょう。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(一〇~一一節)。先週の箇所は終わりの日の「徴」の話でした。終わりの日が来たるときには、どんな徴が現れるのかということです。戦争や暴動のことも言われています。そして今日の箇所で、主イエスはそれらに加えて、地震や飢饉や疫病のことなども加えられています。こう考えると、一〇~一一節は先週と同じ話なのです。

この話が転換するのが一二節からです。「しかし」という接続詞があります。逆説の言葉です。つまり違う話が始まっていきます。どういう話に変わるのかというと、忍耐の話に変わっていきます。「世の終わりはすぐには来ないからである」(九節)と主イエスは言われていますが、一二節以降は、終わりの日に至るまでの話です。そのときが来るまで、私たちは忍耐をする必要があります。いろいろな困難があると言われています。これ以上は考えられないような困難なことまでも言われています。迫害され、裏切られ、殺されるということまで言われています。それでもひたすら忍耐せよ、と言われているのです。

この説教におきまして、忍耐と言い続けてきました。ひたすら忍耐せよ、最後まで忍耐せよ、と言い続けてきました。「言うは易し、行うは難し」と思われているかもしれません。忍耐せよというメッセージは分かるけれども、そして忍耐したいとは思うけれども、果たして私に忍耐することができるかどうか。そう思われている方も多いと思います。

しかし主イエスは単にただひたすら忍耐せよと連呼されたのではありません。実際に忍耐せよと言われたのは、最後の一九節だけです。それまでに一体何を語られたのでしょうか。私たちが忍耐する、そのための神の支えを約束してくださったのです。
私たちが忍耐をしているただ中で、「証しをする機会」(一三節)があると主イエスは言われます。実は「機会」という言葉は元の言葉にはなく、「あなたがたにとって証しになる」という意味です。証しのチャンスがやってくるというのではなく、もう証しになっていると言われるのです。

証しというのは証言をすることです。何を証言するのかというと、神を証言することです。神のことを話さなければならない。そうなると私たちは身構えてしまうかもしれません。松本東教会では毎月第二日曜日にノアの会を行っています。老若男女、誰でも参加することができる会で、毎回いろいろなことを行っています。中でも教会員に証しをしていただく機会があります。もうすでに何人もの方の証しを聴く機会がありましたが、みなさんとてもよく準備をしてくださっています。その準備に基づいて話をしてくださいます。もしも自分が証しを頼まれたなら、準備も大変だろうなどとお考えになるかもしれません。

しかしここで主イエスが言われているのはそういう証しではありません。「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」(一四節)と言われています。私はときどき教会内外の方から、牧師は一体どのような生活をしているのかと尋ねられることがあります。日曜日はもちろん礼拝だけれども、普段は一体何をしているのか、よく生活の実体が分からないということでしょう。もちろんいろいろとやることがあります。

しかし最も多くしていることは何かと問われれば、語るための準備に費やしているという答えになります。日曜日には説教を語ります。水曜日の祈りの会のためにも、説教ほどの準備はしませんが、それなりの準備をします。木曜日にオリーブの会もありますが、この会のために紙一枚分の原稿の準備もします。その他にも子どもたちに対して、訪問先で、いろいろなところで語るための準備をします。そうなってくると、「準備をするまいと、心に決めなさい。」(一四節)という主イエスのお言葉に反しているのではないかと言われそうです。

この「準備する」ということ言葉でありますが、もともとこの言葉には、スピーチのための練習をするとか、暗記をするという意味があったようです。私たちが人前で何らかの話をしなければならない、そうなると私たちは緊張をします。原稿を用意し、練習をし、場合によっては暗記をすることもあるでしょう。私たちはいろいろと心配をします。改革者のマルティン・ルターはドイツ語に聖書を翻訳しましたが、ルター訳の聖書では、「準備する」ではなく「心配する」となっています。つまり、「前もって弁明の心配をするな」と訳したのです。これは異訳であるかもしれません。しかしここでの意味をよく表している訳であると思います。

その意味で、私も説教などの準備はしますけれども、語ることの心配はしていません。自分を信じているからではありません。神を信じているからです。神が私に「言葉と知恵」(一五節)を与えてくださることを信じているからです。そのようにして神が私を支えてくださることを信じているからです。「言葉と知恵」となっていますが、元の言葉では「口と知恵」というようになっています。神が私の口にふさわしい言葉を授け、知恵を授けてくださるからです。

いつも日曜日のこの礼拝に先立ち、祈りをしています。司式・説教をする私と奏楽者と献金感謝の祈りを献げる方が集まり、祈りをしています。祈りが終わると、礼拝堂に出てきて、前方の椅子に座り、礼拝開始時刻を待ちます。何をして待っているのかと言うと、静かに祈りをして待ちます。どんな祈りをしているのかと言うと、あまり複雑なことは祈りません。「主よ、わたしの唇を開いてください」(詩編五一・一七)。という祈りであります。このように祈り、神がこのようにしてくださるからこそ、私は語ることができる。心配することなく、説教をすることができるのであります。

私たちは忍耐を求められていますけれども、私たちが忍耐することができるのは、神がこのように私たちを支えていてくださるからです。神がそのように私たちを支えてくださる。そのことがなければ私たちは忍耐できません。神への信頼があるところに、私たちの忍耐も成り立つのであります。

今日の聖書箇所には、迫害のこともはっきりと書かれています。その中で忍耐する必要があったのです。ルカによる福音書が書かれた時代には、もうすでに迫害が現実となってきています。迫害によって殺された者を「殉教者」と言います。これはご存知の通りです。その後、ローマ帝国の方針が少し変わる時期もあったようです。キリスト者を捕まえて殺すのではなく、棄教をさせることを目的にした迫害もありました。信仰を捨てさせるのです。多くの棄教者が出てしまったようですが、その中でもその迫害に耐える者も出てきます。この人たちを「証聖者」と言いました。聖なる証しをする者たちです。その時代に置かれた人たちにとって、主イエスの今日の箇所の言葉は心に響くものがあったと思います。

しかし昔の人たちだけにとって心に響いたのではありません。私たちもそうであります。私は以前、ある牧師のこんな説教を聴いたことがあります。私たちは試練に遭うことがあります。試練に置かれたら、忍耐をしなければなりません。私たちは試練に遭わないようにと祈るかもしれない。神さま、どうか私に試練を与えないでください、そう祈る。それはそれで、正しい祈りであります。しかしその牧師は、試練に遭わないようにという祈りではなく、試練に遭ったとしてもそれを乗り越えることができるように祈る、そのことを説教で語ったのです。

今日の聖書箇所で主イエスが言われているのも、まさにそのことです。試練はいつでもやってくる。キリスト者になったからといって試練から逃れられるわけではない。試練がやってきたならば、忍耐しなければならない。そのような中に置かれている私たちが、その試練を乗り越えることができるように、神が私たちを支えてくださるのです。私たちはその力を神から得るのです。私たちは無力かもしれませんが、じっと耐え忍んでいる中から、希望がわき上がってくるのです。最後には神が私たちに救いを与えてくださるからであります。