松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年10月21日(日)
説教題「最も自然な生き方」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第20章45節〜21章4節

 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

旧約聖書: イザヤ書 第53章11〜12節

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所に何が書かれているのかと言うと、献金のことが書かれています。やもめがエルサレムの神殿で献金を献げたときの様子が書かれています。私たちも礼拝で献金をしています。毎週、献金をする。しかしだからといって、献金の話が毎週あるかといえば、そうではありません。献金の話はどこか扱いにくい話題であります。扱うとすれば、慎重にならざるを得ません。キリストの教会においても、献金をめぐるトラブル、お金をめぐる争いが絶えなかったからでありあす。

教会の最初期の頃にも、献金がらみのトラブルがありました。聖書にもきちんとそのことが記されています。最初の教会はエルサレムにできました。ペトロが説教をして、洗礼を受ける者たちがたくさん与えられました。そこに教会ができたのです。早速、人々は財産を持ちより、献金をします。その献金をした中に、アナニアとサフィラという夫婦がいました。

使徒言行録第五章にその話が記されていますが、アナニアとサフィラは自分の土地を売って献金をしました。それだけでも立派なことだと思いますが、この二人は土地の代金をごまかしてしまいます。今の時代に置き換えて言うと、一千万円で売れたところを七百万円で売れたと教会には報告する。そして残りの三百万円は自分の懐に収めておく。そのようなことをしたようですが、なんとこの二人はその場で倒れて息絶えてしまいます。こんな出来事が、教会の歴史の最初のところで起こってしまうのです。

アナニアとサフィラの場合にせよ、今日の聖書箇所のやもめの場合にせよ、問われているのは献金の額ではありません。額を比べるならば、やもめの献金額はアナニアとサフィラに到底及びません。そうではなくて、問われているのは、その献げ方であります。

たかが献金、と思われるかもしれません。しかしされど献金です。どのように献げるのか、信仰の姿勢にかかわってくると思います。例えば、いろいろと献金の献げ方の事例を考えてみるとよいと思います。

ある人は、自分の所得がいくらあるかということを考える。そこから家賃、食費などの生活費を差し引く。そうするとこれだけの額が残る。それなら、まあこのくらいを献金しても、生活には響かない。だからこのくらいの額の献金を献げる。こんな献げ方もあるでしょう。

別の人は、こういうふうに考えます。自分の所得はこのくらいある。生活費のことはまず考えないで、献金額を決める。しかもわずかではなく、自分にとって少し痛いくらいの献金額をまず決める。そして献金額を差し引いた残りのお金で生活をする。そういう献げ方もあるでしょう。

たかが献金かもしれませんが、実は献金によって、その信仰生活が表れてくるところがあると思います。アナニアとサフィラの話は、また改めて聴く機会があると思いますが、この二人もやはり信仰の姿勢が献金に出てしまったと言えると思います。普段、話題にしにくい献金ですが、信仰者の姿が献金の献げ方に表れてくるのであります。

やもめの場合もそうでありました。本日の聖書箇所には献金をしているやもめの姿が描かれている。多くの説教者たちが言っていることですけれども、このやめも以上の献金者は探しても見つからない。多くの説教者たちはそう言っています。献身的に献金をした人の事例は、いくらでも挙げることができると思います。お金を献げなかったとしても、献身に生きた人の事例だって挙げることができると思います。しかしどんな事例を挙げたとしても、やはりこのやもめには及ばないのであります。

やもめは夫を亡くした人です。しかしこのやもめはいつ夫を亡くしたのかは分かりません。やもめに関する情報はほとんどありません。やもめは夫がいないわけですから、自分を保護してくれる人がいないということになります。当時のやもめは、最も弱い存在でありました。そのため、旧約聖書には、やもめを大切にしなさい、やもめに親切にしなさいということがたびたび書かれています。今日の箇所では、律法学者たちが「やもめの家を食い物」(二〇・四七)にしていたようですが、そんなことは許されてはいなかったわけです。

そのやもめがエルサレム神殿に礼拝にやってきます。社会的に弱い存在でありましたから、やもめに目を留める人はほとんどいなかったと思います。金持ちたちに埋もれるようにして、献金を献げます。献金額は二レプトンです。レプトンというのはお金の単位です。聖書の後ろの単位表に「最小の銅貨で、一デナリオンの一二八分の一」とあります。一デナリオンは一日分の賃金です。ですから一レプトンというのは、今の金額で言うと、五十円とか、数十円というお金であります。やもめが献げたのは、その位の額であります。

しかしこれは金額が問題なのではありません。金額はどうでもよい。主イエスはこのやもめのことを「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」(二一・四)と評価いたしました。この二レプトンがこのやもめにとっての生活費だったのです。ある牧師がこの箇所で献げられたのが、「二」レプトンであったことがポイントだと言っていました。一レプトンを献金して、残りの一レプトンを自分のために取っておくのではない。二レプトンとも献げてしまったのです。

私たちはこの話を聞くと、いろいろと詮索してしまいたくなります。生活費を全部入れたと主イエスは言われる。その後の生活は一体どうなったのか。この日は全部献げたかもしれない。しかしその次の日はどうだったのか。いろいろと疑問が浮かんでくると思います。しかし聖書はあまり多くを語っていません。語られているのは、ただ貧しいやもめが、二レプトンの生活費を献げた。ただそれだけであります。

私たちは一体この話から何を学べばよいでしょうか。やもめのどのような点を見習えばよいのでしょうか。答えを先に言ってしまいますと、やもめの自由な生き方であると思います。やもめは人の評価から自由になって献金を献げた。そのような最も自然な生き方をしているのであります。

今日の聖書箇所の状況を少し想像していただきたいと思います。やもめがエルサレム神殿で二レプトンの献金を献げています。主イエスがそれを見ておられます。少し離れたところから見ておられたのだと思います。やもめは主イエスと会話をしてはいません。三節から四節にかけて、主イエスのお言葉があります。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(三~四節)。

マルコによる福音書にも同じ話が記されていますが、マルコによる福音書では、弟子たちを集めて主イエスがこの言葉を語られました。つまり、やもめはすでに献金を終えて帰った後に、弟子たちに対してだけこの言葉を言われたのです。最後まで主イエスとやもめの接触はなかったわけであります。

こう考えますと、やもめは主イエスに見られているなどとは思ってもいなかったわけで、ただ自由な思いから献金を献げたわけです。誰かに見られている、主イエスに見られているから献げなくては…。そんなことはまったく思っていない。しかも「生活費を全部」(四節)と言われたのは主イエスです。おそらくやもめは、自分は生活費を全部、献げているとさえ思っていなかったのではないかと思います。肩に力を入れて、さあ生活費全部を入れなくては、そんなことは考えていなかったと思います。

何か嬉しいことがあったのか、感謝すべきことがあったのか、それとも特別な願いがあったのか、罪の赦しを求めたのか、それは分かりません。ただ二レプトンを献げたかったから献げた。それだけであります。本当に自然に、自由に献げた。生活費全部だなんてこれっぽっちも思っていない。そのような姿が主イエスの目に留まったのであります。

献金を献げるということ、本来ならばこのやもめのように自由に献げるものであります。しかしそこにどうしても不自由さが入り込んでくる。神の目ではなく、主イエスの目でもなく、人の目が気になってしまう。人の評価が気になるのです。これは何も献金だけの話ではなくて、奉仕にしても、何にしても同じだと思います。何かと私たちは人の目が気になり、不自由になってしまうのです。

実は、当時のエルサレム神殿での献金の献げ方は、人をとても不自由にしてしまうやり方でした。ある記録によると、エルサレム神殿の献金箱は、トランペットのようなものであったと記されています。そこへ、やもめが二レプトンを入れる。そうするとチャリンチャリンというわずかな音が響きわたります。

それに対して、金持ちがレプトン銅貨よりももっと重い硬貨をたくさん入れる。チャリンチャリンどころではなく、ジャラジャラジャラというとても大きな音がしたと思います。しかもトランペットのような献金箱のところには聖職者が立っていて、献金が終わると大声で報告がなされたようです。「誰々さんが、何々の目的のために、これこれの金額を献げてくれました」。当時の献金はこのような方式がなされたようです。

自分がやもめだったらどうでしょうか。二レプトンしか献げられない。尻込みしてしまうと思います。人の目が気になり、献げること自体を止めてしまおうか、そう思ってしまうかもしれません。しかしこのやもめはそんなことに気を留めることなく、自由な思いから献げたのであります。

当時のトランペットまではいかなくとも、かつての日本のある教会では、献金箱ではなくて、献金皿が用いられていたそうです。金属製の皿です。それが献金のところで回ってきます。献金袋はありません。お金をそのままお皿に乗せます。硬貨を乗せると、静まった礼拝堂に音が響くことになります。当時は五百円札がありましたから、五百円札以上を献金しないと、とても目立つことになってしまいます。もちろん、そんなことは気にせずに、堂々と自由な思いから献げればよいわけですけれども、こういう方式だと、なかなか自由に献げることもできないでしょう。

そこで、日本の最近の方法は献金袋を用いています。そこにはいくら入っているのか分からないようにする。毎月の長老会でも、会計報告をしています。誰がいくらを献げたか、そのことは分からないようになっています。のべ何人から総額いくらが献げられたという報告しかありません。徹底的に、誰がいくら献げたのか分からないようになっているのです。そこまで徹底しないと、なかなか私たちは自由に、人目を気にせずに献げることができないのであります。

献金はこのように、なるべく自由に献げることができるように配慮されているわけですけれども、献金に限らず、私たちが人の評価から自由になることができるかどうかで、生き方が変わってくると思います。やもめは自由に献金をしました。自由に生きたのであります。

それに対して、律法学者たちが出てきます。今日の聖書箇所の前半部分では、主イエスが律法学者たちを非難されています。一体どんなところを非難されているのか。いろいろなことが言われていますが、要するに、人の評価から自由でないところであります。長い衣を着たがるとか、人から挨拶されることとか、上席や上座に座りたがることだとか、長い立派な祈りを人前でするだとか、要するに人の評価が気になるわけです。人の評価が気になりすぎると、自然と神のことを忘れてしまうのが人間です。そうなると、その人は不自由な生き方をせざるを得なくなってしまいます。何をするにしても、人の目を気にしてしまうのです。

私たちも、律法学者たちを笑うわけにはいきません。私たちも不自由な生き方をしてしまうことも多々あると思います。私たちが何らかのことで悩み、苦しんでいるとき、よくよく考えてみると、その根本的な原因は人の評価から自由でないことがあると思います。肩に力を入れて生きているのです。

そこで、力の入った肩から力を抜きたいと思います。私たちは神に造られました。私たちが神に造られたことを考えるならば、私たちが何をするのが一番自然なのか。それは神を礼拝することであります。神を神とする礼拝をするのです。日本では、日曜日に教会に行く、キリスト者はどこか特殊な人種のように思われているところがあります。信仰を守るために、肩に力を入れて、一生懸命にならなければいけないと思うかもしれませんが、私たちはむしろ最も自然なことをしているわけです。そう考えればよいのです。

献金もそうであります。私たちが持っているもので、神からいただかなかったものはない。すべてのものは神に由来するのです。肩に力を入れて、たくさん献げなくてはと思うのでもなく、人の目を気にして献金するのでもなく、自由な思いから神にお献げしたいだけ献げればよい。それを実際にしたのが、今日の聖書箇所に出てくるやもめであります。

主イエスはここでこのやもめに出会ってくださいました。もう主イエスの十字架の日まで、あと数日のところであります。主イエスはエルサレムでいろいろな人に出会われました。様々な論争を挑んでくる者や、敵意をむき出しにしてくる者もいました。しかしこのやもめとの出会いに、主イエスは喜ばれたと思います。ああ、このエルサレムにもこのようなやもめがいたか、主イエスはそう思われた。そしてこのやもめのためにも、主イエスは十字架にお架かりにならなければならない、そう思ったでありましょう。

本日、合わせて旧約聖書のイザヤ書第五三章の終わりの箇所をお読みいたしました。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ五三・一一~一二)。

イザヤ書第五二章から第五三章にかけて、「主の僕の苦難と死」の歌であると言われています。旧約聖書で主イエスの十字架が表されている箇所が何箇所かあると言われていますが、この箇所ほどはっきりと表されている箇所はないのではないかと思います。この箇所で主の僕、すなわち主イエスのことですが、「命を取られた」(イザヤ五三・八)とはっきりと記されています。何のためにか。「わたしたちの背きのため」(五三・五)であり、「わたしたちの咎のため」(五三・五)にであります。主イエスの十字架によって、私たちの背き、咎、罪が赦されたのであります。

このような神の独り子の代価が支払われて、私たちが買い戻されました。もう一度、神のものとして生きることができるようになりました。それならば、この救い主を信じて歩むというのが、最も自然な生き方になります。罪を赦されて、神のものとされたものとして、私たちに与えられた人生を歩む。これが最も自然な生き方なのであります。