松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年10月14日(日)
説教題「救い主がやってくる道」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第20章41節〜44節

 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

旧約聖書: 詩編 第110編

志を立てて聖書を読もうとすると、挫折することもあると思います。教会の中でよく使われる言葉ですが、つまずいてしまう聖書の箇所があると思います。それまでは順調に読み進めてきたのに、ある箇所まで来ると、つまずいてしまうのです。

旧約聖書の最初から読み始めた場合、最初には天地創造の物語があります。次いでアダム、エバの物語があります。その息子たち、カインとアベルの話もある。兄のカインが弟アベルを殺してしまう。人間はひどいものだ、そう思いながら読み進めていく。そうすると、ノアの洪水の物語があります。ノアの家族以外、それに限られた動物以外を洪水によって神が滅ぼされる話です。この話は一体何だということになる。神は愛の神ではないのか。このノアの話につまずく方もあるでしょう。

ノアの話を通り過ぎたとして、次に出てくるのはバベルの塔の話です。そしていよいよアブラハムが登場します。アブラハムは最初、子どもが与えられませんでしたけれども、待望の子イサクが与えられます。しかしあるとき、そのイサクを神が献げよとアブラハムに命じられる。実際にイサクは最後の最後のところで、献げられずに済んだわけですが、神がアブラハムの独り子を献げよと言われるなんて、そう思われる方もあるでしょう。この話につまずかれる方も多いでしょう。

さらに読み進めていくと、たとえば創世記の次に出エジプト記があります。物語として面白い話もありますが、今の私たちにとっては、いささか退屈なことも書かれています。イスラエルの人たちが礼拝をするために、様々な建物や道具などを整えなければなりませんでしたけれども、それに関する細かなことがたくさん書かれています。「一枚の幕の長さ二十八アンマ、幅四アンマで、すべての幕を同じ寸法にする。」(出エジプト二五・二)。こんなことが延々と書かれている箇所もあります。そうすると、私たちにとってはうんざりして、読み飛ばしてしまうことも多いと思います。

旧約聖書からではなく、どちらかというと私たちになじみの深い、新約聖書から読み始める人も多いでしょう。しかしある牧師は、新約聖書の最初のマタイによる福音書からではなく、二番目にあるマルコによる福音書から読み始めなさい、そう勧めている先生もいます。なぜかというと、マタイによる福音書の最初、つまり新約聖書の最初ですが、イエス・キリストの系図から始まるからです。人の名前の羅列です。数名の名は聞いたことがあっても、大部分は聞いたことがない。新約聖書の最初からつまずいてしまう人も多いと思います。

マタイによる福音書の冒頭部分は、新約聖書の最初の部分です。序の部分です。英語で言うと、イントロダクションです。イントロダクションという英語は、動詞ではイントロデュース(introduce)という言葉です。日本語に訳すと「紹介する」となります。私たちが誰かと誰かを引き合わせるときに、お互いを紹介します。こちらは誰々さんで、あちらは誰々さん、という形でお互いを出会わせる。お互いを無事に出会わせれば、引き合わせた人はもう引っ込んでしまってもよいわけで、二人がその後、うまくやってくれればよいわけです。

本の最初の部分であるイントロダクションもそうです。これから本を読み始めるにあたり、本を書いた人と本を読む人とを出会わせる。それが序(イントロダクション)の部分です。たいていの場合は、読者の興味を惹くようなことが書かれています。ところが、新約聖書の序の部分はどうか。系図です。人の名前の羅列です。つまずかせてしまう部分です。こんな名前の羅列などせずに、なじみの深いクリスマス物語から始めればよいのに、一体なぜマタイによる福音書はそんなイントロダクションにこだわっているのでしょうか。

この系図の中にはいろいろな人物の名前が出てきますが、ダビデという王さまの名前が出てきます。本日私たちに与えられた聖書箇所の中にも、ダビデという名前がありました。マタイによる福音書の系図は、言うまでもなく主イエスの由来はどこにあるのかということを示しているわけですが、今日の話もそのことに関係があります。当時の人々は、救い主はダビデの子孫から生まれると考えていました。マタイがイントロダクションで示そうとしたのも、そのことが原因です。

しかしそうであったとしても、私たちにとってはどこか遠い話である、それが正直なところだと思います。ダビデの子孫であろうとなかろうと、主イエスが私たちの救い主であればよいわけです。ダビデの子孫であることが、私たちにとって何の意味があるのか。その意味で、本日私たちに与えられたルカによる福音書の箇所もまた、一体この箇所は何の意味があるのか。そうお考えの方も多いと思います。

しかし少し見方を変えて考えたいと思います。松本東教会では、ルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。第一章から始めて、今日の箇所はもう第二〇章の終わりのところです。いろいろな話がありました。三週間前、第二〇章九~一九節の箇所から御言葉を聴きました。これは「ぶどう園と農夫の譬え」です。譬え話です。三週間前に申し上げましたが、ルカによる福音書では、これが最後の譬え話でした。主イエスはこれ以降、譬え話を語らなくなる。

そして今日の箇所が、主イエスがなされた最後の論争の箇所として知られています。主イエスはこれ以降、論争をしなくなった。もっとも、十字架にお架かりになるときの裁判において、多少、論争じみたこともされています。しかし裁判は相手方の一方的な裁判でしたので、論争とは言えないでしょう。そうなると、これが最後の論争なのです。その点でも、この箇所が重要であると言えるでしょう。

今日の箇所は実にあっさりと書かれています。「イエスは彼らに言われた」(四一節)というように始まっています。彼らというのは、今までに論争をふっかけてきた人たちのことです。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(四四節)と、主イエスが逆に彼らに問いかけています。そして誰もそれに答えていません。他の福音書を見ると、彼らはそれに答えることができなかった、というようなことが記されています。メシア、言い換えると救い主に関する論争で終わっている。しかも誰もそれに対して適切に答えられていない。そういう論争が、最後の論争になったのです。

この論争で問われているのは、救い主とは一体だれか、救い主はどんな人なのか、ということです。ダビデうんぬんという話ではなく、こういう問いならば、私たちにとってもこれは重要です。私たちを救ってくださる救い主がおられる。それはイエス・キリストに違いないが、それではイエス・キリストはどんな救い主なのか。問われているのはそのことです。

そこで主イエスがどのような救い主であるかを考えてみる。主イエスは優しい救い主だ。そんなイメージを持たれている方もあると思います。何でも赦してくださる。そう考えている方もあるかもしれません。それとは反対に、主イエスはずいぶんと厳しいことを言われる。確かに愛のある方かもしれないが、いくぶん厳しすぎるところがある。とても主イエスが言われている通りに自分はできない。そんなふうに思われている方もあるかもしれません。

私たちも救い主に関していろいろなことを考えます。救い主とはこんなお方ではないかと救い主像を作り出します。もしかしたら、思い込んでしまうこともあるでしょう。それは当時のユダヤ人たちも同じでありました。救い主はダビデの子孫から生まれてくる、人々はそう考えていました。「メシアはダビデの子」(四一節)というのはそういう意味です。ダビデの子孫と言われるときに、人々の頭の中にはある期待がありました。それは、あのダビデ王のように、イスラエルが最も輝いていた時代を取り戻して欲しいという期待でした。人々はメシアにその期待を寄せていたのです。

イスラエルという国は、激動の歴史を経てきた国です。ダビデ王の時代、それからその子どもであるソロモンの時代、このわずかな時代のみ、繁栄したと言えるでしょう。それ以外の時代は、他の大国の間にあって肩身の狭い思いをしていました。肩身の狭いどころか、大国に滅ぼされて国を失っていた時期もありました。今日の聖書箇所の時代である今から二千年前も、イスラエルはローマ帝国によって支配されていました。なかなか自分たちの理想の国を築けない現実がありました。そんなときに、人々は何を期待するか。救い主が現れて欲しい。ダビデの子孫からの救い主が現れて欲しい。ダビデと同じように国を再建して欲しい。人々はそういう救い主を熱望していたのです。

そんな人々の期待に対して、主イエスが一つの問いを投げかける。それが今日の箇所です。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」(四一節)。そして次の箇所で、主イエスが詩編第一一〇編を引用されます。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで』」(四二節)。「主は、わたしの主」というように、二度、「主」という言葉が出てきます。最初の「主」は父なる神のことです。二番目の「わたしの主」というのは、救い主メシア、イエス・キリストのことです。つまりダビデが、「神が私の主であるイエス・キリストにお告げになった」と言っているわけです。ダビデがイエス・キリストのことを主と言っている。それなにになぜ、ダビデよりも低いかのように「ダビデの子」と言うのか。主イエスはそう言われるわけです。

この矛盾点を突かれて、彼らは答えることができませんでした。言われてみればそうだ、と思って黙ってしまったのかもしれません。その横で弟子たちも聞いていたでしょう。今は矛先が彼らに向けられている。しかし自分たちに向けられたらどうしよう。主イエスが突然振り返って、それではあなたがたはどう思うのか、そう聞かれたらどうしようと思っていたに違いありません。救い主メシアはダビデの子だと漠然と考えていたけれども、本当にそういうお方なのか。その問いに適切に答えられる人は誰もいなかったのです。

実際に人々は主イエスという救い主のことを誤解していました。主イエスがもしかしたらメシアかもしれない。ローマの支配から解放して、強い国を作り上げてくれるメシアではないか。実際に主イエスの弟子の中でも、そのように考えていた人がいたようです。ユダの裏切りもまた、主イエスに対するメシアの期待を裏切られたからだ、そういうふうに言えなくもありません。主イエスに今まで従っていたけれども、どうも私が思い描いていた救い主とは違う。私の救い主像に合わない。そんなことになってしまっていたのです。

私たちも弟子たちのことを笑うわけにはいきません。私たちもかつては主イエスという救い主を誤解していたことがあったかもしれません。イエス・キリストというお方が救い主である。教会に行くとそのことを聞かされる。本当に救い主なのだろうか。どうも自分の思い描く救い主とは違う。力があって、光り輝く、神々しい姿が救い主にふさわしいのではないか。

しかし、イエス・キリストはどうもそういう救い主ではないらしい。イエス・キリストはなぜ立派な王としてお生まれにならなかったのか。飼い葉おけの中で生まれたというではないか。本当に救い主なのか。宮殿のような立派な家はないのか。なぜ何も持たずに、貧しくお生まれになったのか。救い主なのに、なぜ十字架にお架かりになったのか。十字架にお架かりにならずに、立派な教えを語り、人々を導き、人々に崇められながら、天に昇っていけばよかったのではないか。それが救い主にふさわしい姿ではないか。私たちがかつて思い描いていた救い主と、実際の主イエスとの姿には、かなりのギャップがあったと思います。

なぜこのようなギャップが生じてしまうのか。私たちが勝手に思い描く救い主像と、聖書が私たちに伝える主イエスはかなり様子が違います。私たちの知恵では、残念ながら救い主を把握しようとしても、把握しきれないところがあります。そしてもしも私たちが救い主を限られた知識で把握しようとしてしまうと、救い主を偶像化することになります。救い主は本来ならば私たちの知識を超えるはずです。その救い主を私たちの頭の中に押しとどめようとする。偶像化してしまうのです。

松本東教会のこどもの教会では、最近、十戒を学んでいます。十戒は十の戒めであります。その中で第二の戒めは「偶像を刻んではならない」という戒めです。数週間前に、私が子どもたちにこのテーマで説教をいたしました。その説教で私が最初に語ったのは、「アイドル」という言葉です。英語で偶像のことをアイドルと言います。これは日本語にもなっています。人気の若い芸能人のことをアイドルと言います。なぜ偶像という意味の言葉をアイドルという言葉に選んだのか。それは、若い芸能人を偶像のようにするからです。これが私の理想の人。その理想化された人間を、アイドルという偶像に押し込めるのです。

私たちは十戒の第二の戒め、「偶像を刻んではならない」という戒めを守っているでしょうか。物理的な像を刻んで拝んでいる人はまずいないでしょう。しかしそれで守ったことになったと言えるのか。私たちは生ける神を偶像にしてはいないでしょうか。本来ならば把握し切れない神を、まあ神はこういうお方だろう、そのように偶像の中に押し込めていないでしょうか。神がこういうお方だ、救い主はこういうお方に違いない、ダビデのような立派な国を作ってくれる。私たちに都合のよい神を作り出したとき、それは偶像の神になってしまいます。しかし神は私たちの頭に収まりきるお方ではありません。私たちの知識をはるかに超えるお方であるからです。

私が最近読んでいる本の中に、四世紀頃にシリアで活躍したエフライムという人が出てきました。シリアは当時のローマ帝国で言うと、東の国境あたりになります。この地域は、ギリシア哲学が盛んな地域でありました。このときすでに、ローマ帝国によってキリスト教が公認されていました。そしてキリスト教の中にギリシア哲学が取り入れられていた面もありました。ギリシア哲学はとにかく思索をします。神について、人間について、世界について、いろいろなことを思索します。キリスト教の中にこの思索が取り入れられると、当然のことながら神について、思索をすることが始まります。

けれども、それに対する反対意見もありました。シリアのエフライムもその一人であります。思索をするのは結構だが、造り主である神と、被造物である私たち人間との間には大きな溝がある。その溝を主イエスが飛び越えるようにしてやって来てくださったわけですが、しかしそもそもその溝があるのです。神と人間との違いがあるのです。このことをわきまえておかないと、不毛な思索をすることになってしまう。その結果、私たちが「ああ神を理解することができた」、そう思ったところで、実は私たちが神を把握し切れておらず、誤解をしていた、偶像の神を刻んでいただけだったという可能性も大いにあるわけです。

シリアのエフライムは聖職者であり、たくさんの讃美歌を作ったことでも知られています。その讃美歌の中に、こういう歌詞の讃美歌があります。「人間が神を秤で量ろうとしても、神によって人間は量り返されてしまうだろう。神の全知全能の知恵は、人間よりも偉大であるから」。エフライムはこのような讃美歌を作り、神を讃美しました。神はとうてい私たちでははかり知ることのできないお方。そのように神を讃美していたのです。

今日の聖書箇所のところでは、主イエスは問いを出されただけで終わっています。救い主メシアとは一体どのようなお方であるのか。その問いだけです。誰もそれに答えられませんでした。その問いの答えは、ひとまずここでは保留されています。

その保留された答えが、明らかにされる箇所があります。使徒言行録の第二章に、ペトロの説教が収められています。主イエスが十字架にお架かりになり、復活され、弟子たちとしばらくの間、共に過ごされましたが、その後、天にあげられました。残された弟子たちに聖霊が注がれ、ペトロが代表をして説教を語ります。その出来事が使徒言行録第二章の話です。

ペトロの説教の中に、詩編の第一一〇編が引用されています。主イエスが引用したのと同じ箇所です。使徒言行録第二章三二節からお読みいたします。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を、あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録二・三二~三六)。

ペトロの説教はこれで終わりです。詩編第一一〇編が引用されて、その解釈が示されて閉じられます。「神はこのイエスを復活させられた」(三二節)とあります。主イエスのことを「神は主とし、またメシアとなさった」(三六節)とあります。いずれも主語は神です。神がイエスを復活させた。神がイエスを主とし、メシアとした。私たちがそうしたのではありません。神がそうされたのです。神がキリストの働きをよしとしてくださった。神が十字架にお架かりになった主イエスをよしとしてくださった。それゆえ、私たちの罪が赦された。私たちが救われたのです。

これが、私たちの救い主です。私たちが救い主を作り上げたのではありません。神がこの救い主を与えてくださいました。私たちが思いもしなかった、私たちの知恵では絶対に考えも及ばなかった救い主のお姿です。私たちがこれまでに思い描いていた救い主の姿もあったでしょう。ダビデのような王様の姿ではないにしても、私たちが限られた知識を用いて、頭の中で偶像を作るようにして考えていた救い主もあったでしょう。

しかし私たちの本当の救い主は、私たちが考えていた救い主よりもはるかにまさる救い主です。このお方は私たちを一時的にではない、本当に救ってくださる救い主です。私たちの罪を赦す救い主です。私たちをまことの命の中に生かしてくださる救い主です。これがキリストの本当の救い主としてのお姿なのであります。