松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20121007

2012年10月7日(日)
説教題「生きるにも死ぬにも、神によって生きる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第20章27節〜40節

 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

旧約聖書: 出エジプト記 第3章1〜6節

来月の十一月の中旬に、説教塾の二五周年記念のシンポジウムが行われます。七月にこの教会に来てくださいました加藤常昭先生を中心にして、二五年前に説教の学びの会が始まりました。それが説教塾ですが、私も説教塾のメンバーの一人です。来月、ここに出かけたいと思っています。

今回のこのシンポジウムは、オランダからイミンク先生という方をお招きします。説教塾にも以前からかかわりのある先生です。この先生は、オランダ改革派教会の先生です。二〇〇三年からオランダ改革派教会の神学校の校長をされました。また、オランダ改革派のグループだけでなく、プロテスタント教会の合同の神学大学がオランダで設立されたようですが、そこの学長の職に現在あたっておられます。

この方をお招きするにあたり、説教塾で今、準備にあたって読まれているのが、この先生が書かれた『信仰論』という書物です。加藤先生がこの夏、英語から訳してくださいました。英語の聖書のタイトルは「Faith」(信仰)です。もともとオランダ語で書かれましたが、オランダ語のタイトルは「神を信じること」であるようです。これが英語に翻訳され、そして英語から日本語に翻訳をされました。

タイトルの通り、この書物は信仰について書かれたものです。日本語では信仰「論」となっているわけですが、それでは具体的にどんなことが論じられているのでしょうか。序文のところに、イミンク先生のこういう文章があります。少し長いかもしれませんが、引用します。

「われわれは…言葉を重ねて、信仰について語ることはできる。たとえば、何を信じているかを説明することができるのである。しかし、それは宗教にとって大切な事柄ではない。宗教とは、ただ単に意見や信念の事柄ではなく、実践し、霊性に生きるという事柄なのである。われわれは通常の日常生活において自分たちの信仰を生きている。正確に言えば、日常の憂いや願いを抱いて生きているただなかで、自分の信仰を実践し、神を信頼しているのである。」(『信仰論』、三頁)。

信仰は頭や心で理解するのではない。もちろんそれも大事なのでしょうけれども、イミンク先生の強調点はそこにはありません。それよりも、信仰は生きるということなのです。信仰を実践して生き、神を信頼して歩むということ、そのことが信仰なのだとイミンク先生は言います。

このことはこの本を読み進めていけば、さらに具体的にいろいろな表現で書かれているわけですが、一つだけご紹介いたします。「信仰の生活とは、神と神の救いについて、それが本当のことだという確かな信念を持つというようなことではないのである。つまり、信仰とは神に対する信頼であり、神が信頼に値する方であるということを知ることである。」(五六頁)。イミンク先生が言われるように、信仰は自分が確かな信念を持つことではない。そうではなくて、信仰は神に対する信頼だと、ずばり断言されています。

私たち信仰者にとって、あるいは信仰を持ちたいと願っている者にとって、神を信頼することが大切です。これなくてしては、信仰はあり得ません。今日は歌いませんが、讃美歌の四九四番の一番の歌詞にこうあります。「わが行くみち、いついかに、なるべきかは、つゆ知らねど、主はみこころ、なしたまわん」。私の歩む道がどのようになるかはまったく分からないけれども、主は御心を行ってくださる、そういう意味の讃美歌です。神に対する信頼なくしては歌えない讃美歌です。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所で問題になっている復活についても、同じであります。神に対する信頼なくしては、復活を信じることはできないでしょう。キリスト者は復活を信じています。イエス・キリストが十字架にお架かりになった後、三日目に復活されたことを信じています。それだけでなくて、キリストがお甦りになってくださったゆえに、私たちもやがて復活する。そのことを信じているのがキリスト者です。

そのことを信じてはいます。そしてある程度の説明することはできます。けれども、もしも皆さまが、キリスト者でない方からこのように尋ねられたらどうでしょうか。「一体、復活後、私たちはどうなるのですか?」。「天国に行きます」、そういうふうには言うことはできるかもしれません。しかし具体的にもっと聞かれたとすれば、答えるのに困ってしまうと思います。困ってしまうのはもっともなことです。なぜかと言うと、聖書には復活後にどうなるか、そのことはほとんど記されていないからです。だから私たちは具体的には答えられないのです。

聖書にはたくさんの手紙がありますが、多くの手紙はパウロという伝道者によって書かれました。多くの手紙の中で、パウロが何を書いているのかと言うと、救いについて、洗礼について、キリスト者としていかに生きるべきか、そのようなことが書かれています。復活についても書かれています。

しかし復活後にどうなるのかということは、ほとんど書かれていません。パウロは自分の考えを手紙の中に書いたのではなくて、神から教えられたこと、これを啓示と言いますが、神から啓示されたことを手紙の中に記しました。いろいろなことが神からパウロに啓示されましたが、残念ながら、復活後にどうなるのかということは、ほとんど啓示されませんでした。だからパウロはそのことを書くことができなかったのです。

それでもわずかながらに、パウロが書いていることがあります。コリントの信徒への手紙一第一五章三五節以下です。ここで開いて読むわけにはいきませんから、後でお読みになるとよいと思います。死者の復活後の体は一体どうなっているのだという話です。私たちが現在、まとっているのは肉の体です。それが霊の体になるとパウロは言います。

それでは分かりにくいので、比喩を用いてパウロは話しています。種が地面の中に埋められて死ぬかもしれないけれども、やがて種とは別の体、芽が出て、茎が伸びて、葉が生えて、花が咲く。そのように種から別の体になるではないか、これが霊の体だと言っています。しかしパウロが語れるのもそこまでです。確かに今とは違う体になるのだろうけれども、具体的にははっきりよく分からないと言った方がよいと思います。

この箇所以外に、復活後にどうなるのかということが書かれているのは、今日、私たちに与えられた箇所です。主イエスがベールに包まれた天国の様子をチラッと見せてくださいました。三五節から三六節にかけてこうあります。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(三五~三六節)。復活後に私たちは「天使に等しい者」になる。また「復活にあずかる者として、神の子」となると、主イエスは言われるのです。主イエスのこの言葉もまた、やはりはっきりとはしないところがあると思います。

復活後に一体どうなるのか。死後の世界、天国はどんなところなのか。私たちの想像がいろいろと膨らむと思います。想像というよりも、妄想と言った方が近いかもしれません。

この聖書の箇所で出てくるのも、様々な妄想の結果、復活などなければよいというサドカイ派の主張です。サドカイ派は上流階級の者たちから成るグループであると言われています。今はよい生活を送っていた。それゆえに、別に復活に希望をかけなくてもよかったのかもしれません。

サドカイ派は旧約聖書の中でも最初の五つの書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つをモーセ五書と言いますが、サドカイ派はモーセ五書を大切にしました。モーセ五書にある書かれたもの以外は受け入れなかったようです。モーセ五書を通読すると分かることですが、そこには復活の思想は出てきません。旧約聖書の中でも後の時代に書かれたもの、たとえばダニエル書などそうですが、復活の思想が出てくる書もあります。しかし少なくともモーセ五書には出て来ない。

そこで、サドカイ派の復活はないという主張を確固たるものにするために、ここに出てくる話が作り上げられたのです。七人の夫を迎えた女性の話です。議論のための作り話です。もしこのような女性が本当にいたならば、議論どころではありません。悲劇の女性です。議論をするよりも、すぐさま慰めなければなりません。

サドカイ派がこのような作り話を作った意図ははっきりしています。復活があると、このようなややこしいことになってしまうではないか。こんなややこしいことになってしまうならば、復活はない方が話はすっきりする。だから復活はないのだと主張になるわけです。このサドカイ派の主張に対して、他のグループからの反応もあったのでしょう。サドカイ派はこのように主張してくるけれども、復活があると信じている、例えばファリサイ派のグループは、この場合は最初の夫に優先権があるとか、最後の夫に優先権があるとか、いろいろな反応もあったようです。

これらは私たち人間がいろいろと妄想を広げた結果、起こっている議論です。私たちも復活後にどうなるのか、妄想を広げたことがあるでしょう。この話のように、夫が七人とまでは言わないでも、二人の夫や妻を迎えたことがある場合には、復活後、一体私はどちらの夫、妻になるのか。そんなことを考えないわけではありません。

それだけではなく、私たちが復活したときに一体、自分はどのくらいの年齢で復活するのか。長寿を全うして召された場合、死の直前の体で復活するのか。そんなことでは困る。若い頃の体で復活した。若いと言っても、赤ん坊では若すぎるから、自分がもっとも肉体的に優れていた二十代か三十代の体で復活させて欲しい、などと考えます。さらに、自分が若い体で復活するのなら、自分の親はどうなのだろうか。自分の子どもはどうなのだろうか。もしも三世代が同じ若い頃の体で甦るのなら、三世代が並んだ時にはどんな気分なんだろうと考える。

あるいは、自分や家族や友が復活したのはよいけれども、また再び天国で一緒に生活する中で、愛に破れたり、傷つけ合ったりすることがないだろうか。そんなことを考えてまた心配になる。そんなことをいろいろと考えるかもしれません。

このような問いは際限なく広がってしまいます。私たちの限られた知恵と知識でいろいろと考えます。しかし答えはやはり出ない。私たちの限られた知恵と知識を超えて、私たちは想像することができないからです。

しかし主イエスのお答えは、私たちの知識と知恵を超える答えでありました。次元の違う答えでした。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(三四~三六節)。この答えは、すべての妄想に終止符を打つ答えです。

「この世」と「次の世」という言葉が使い分けられています。「この世」の知恵と知識の限界を超えます。「次の世」では、私たちが頭で考えるような世界よりも、はるかに想像を超えた世界がそこにあります。私たちの頭で考えるような自分自身よりも、はるかに想像を超えた自分自身がそこにいます。

このことをよく表している、こんな話があります。ある神学者が夫を亡くした年老いた女性からこんな質問をされました。「天国で私の愛する夫と会えますか?」。その神学者はこのように答えました。「会えるのは愛する人だけではありませんよ」。その女性はあっけにとられてしまったそうです。別の神学者が、この神学者の言葉を解説してくれました。天国で再会できるのは、何も愛する者たちとだけではない。むしろ地上では愛することができなかった、憎たらしいと思って顔も見たくないと思っていた、そんな人とも再会する。しかも相手を愛し、愛される交わりの中で再会する。それほど私たちは完全な状態で復活するのだ。そのように解説がなされました。

このことは、復活後を考える際の重要なヒントを私たちに与えてくれると思います。私たちがこの限られた頭で復活後を考えるとき、私たちがまず思うのは、愛する者と再会をしたい。そのことです。この年老いた女性のように、そのことばかりを問うと思います。そのことばかりしか考えないならば、私たちはサドカイ派と変わるところがない。しかし愛することが出来なかった人と愛の交わりの中で再会したい。そんなことにまで、誰が考え及ぶでしょうか。「神さま、どうかあの愛することができない人と、復活後に愛をもって再会させてください」などと祈るでしょうか。

主イエスが言われる復活は、このような復活です。私たちの知恵や知識、考えや思いをはるかに超えた復活です。だからサドカイ派とも議論がかみ合わない。私たちの考えるような復活ともかみ合わないかもしれません。しかし私たちの想像をはるかに超える復活が用意されている。「天使に等しい者」、「復活にあずかる者として、神の子」、主イエスはそう言ってくださいます。天使のように神に仕え、神を賛美する者として、完全な愛に生きることができる神の子として、私たちは復活するのです。

なお、私たちの頭ではとらえきれないところがあると思います。しかし、そのとき私たちがすべきことは、神を信頼する、ということであります。神が必ずよいように、私たちを復活させてくださるのです。

サドカイ派に対する答えは、まだ続いていきます。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(三七~三八節)。

先ほども申し上げたことですが、サドカイ派はモーセ五書を大切にしました。その同じモーセ五書の箇所、しかもモーセが初めて神とお会いして、これからなすべき使命を告げられる重要な箇所を、主イエスは引用されます。先ほど、合わせてお読みした旧約聖書の箇所です。神がご自分を自己紹介して、こう言われます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記三・六)。

サドカイ派の主張としては、死者の復活はない、と言っているわけですから、アブラハム、イサク、ヤコブの三人も、かなりの前の時代を生きた人ですから、すでに死んでいます。サドカイ派の主張に沿って言うならば、死者の復活はないのだから、アブラハムもイサクもヤコブも死んでしまったことになります。

しかし主イエスの解説によれば、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われている、しかも神は死んでいる者の神ではなく、生きている者の神なのだから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われている時点で、アブラハムもイサクもヤコブも復活しているのだ、ということになります。確かに地上の命を終えてしまった三人であるかもしれない。しかし神によってまだ生きている。神がそう見なしてくださった。この第三章六節の言葉だけで、復活はあると、主イエスは言ってくださいました。

今日のこの説教の説教題を「生きるにも死ぬにも、神によって生きる」としました。少し長い説教題になりましたが、だいぶ迷ってこのように付けました。復活に関する箇所ですから、「死者の復活」とか「復活して天使のようになる」とか、そんな説教題でもよかったのかもしれません。しかしすべての人は神によって生きるわけですから、これがないと死者の復活もあり得ません。すべての人です。それは生きている人ももちろんそうですし、地上の命を終えて死んだ人もここに含まれます。神によってすべての人が生きているからです。

私たちの死後、どのようになるのか、聖書ははっきりとは示してくれません。しかしすべての人が神によって生きる、その約束だけで私たちは満足することができます。神が信頼に足るお方である。神は復活後も、私たちを悪いようにはさせない、その信仰だけで十分であります。生きるときにも死ぬときにも、私たちは神のもの、私たちは神によって生きている者、その信仰だけで十分なのであります。