松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20120930

2012年9月30日(日)
説教題「神のものは神に返しなさい」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第20章20節〜26節

 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

旧約聖書: イザヤ書 第55章6〜7節

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、とてもよく知られている言葉があります。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(二五節)という言葉です。なぜこの言葉が、教会の人たちだけではなく、一般によく知られているのか。それはこの言葉が、政治と宗教の分離を表す「政教分離」の考えにかかわっているからと言われるからです。聖書の中の政教分離の言葉と言えば、この主イエスの言葉が引かれることが多いのです。

政教分離と言っても、実際は一八世紀になってから初めてアメリカでこの考えが定着しました。それまでは分離よりも、むしろ一致でありました。政教が一致をしていたことの方が多かったのです。新約聖書が書かれた頃にも、ローマ帝国の皇帝がいました。その後、ローマ帝国は滅亡してしまいましたが、別の帝国が現れて、やはりここにも皇帝がいた。皇帝はしばしば教会の問題に介入してきました。

しかし皇帝側からの介入ばかりではなく、教会もしばしば政治に介入していきました。ローマ・カトリック教会の教皇は、時代にもよりますが、かなりの力の持ち主でした。ウルバヌス二世という教皇がいましたが、この人の演説によって第一回目の十字軍が結成されました。つまり教会が政治に介入し、軍事行動を引き起こしたというわけです。

こういうことがいつの時代にも起こり、政治と宗教の問題が論じられてきました。時には血を流すような戦いに発展してしまったこともありました。国家と教会との間の望ましい関係は何か。新しいアメリカという国が造られるときもそうでありました。同じアメリカの中でも、様々な教派がすでに入り込んでいました。政治と宗教が一致してしまうと、ある教派にとって有利になるけれども、別の教派にとっては不利益を被らなければならなくなります。それでは新しい国づくりに影響してしまう。

そこで採用されたのが、政教分離の原則でありました。今日では多くの国が、政教分離の原則を採用しています。日本においてもそうであります。そして政教分離を主張する際に、ほら、主イエスもこの箇所で、政教分離のようなことを言っているではないか、と引用されるわけです。

本日、私たちに与えられた箇所では、本当に政教分離のことが言われているのでしょうか。そうだとしたら、主イエスはだいぶ先のことを見通されていたことになります。なるほど、そのようにこの箇所を読みとることもできなくはないかもしれません。しかし主イエスがここで言われているのは、教会と国家との望ましい関係という大きな話よりも、むしろ私たち一人ひとりにかかわるもっと身近なことだと思います。「神のものは神に返す」、それは一体どういうことか。私たちがこの言葉を体現して生きるとすれば、一体どのように生きたらよいのか。そのことが問われていることだと思います。

そのことを踏まえた上で、今日の箇所から聴いてまいりたいと思います。主イエスのところに「回し者」(二〇節)が送られてきたことが記されています。この回し者を送った張本人たちは「律法学者たちや祭司長たち」(一九節)です。この人たちは、第二〇章の最初のところで、主イエスに問答を仕掛けて、やり込められてしまった人たちです。ですからもう素性がばれてしまっている。自分たちよりも、別の人たちを送り込んで、主イエスを陥れようとしたのです。

この人たちは「正しい人を装う」(二〇節)と書かれています。装うというからには、正しくないにもかかわらず正しい人のふりをしているということです。この正しさは一体何か。かつての口語訳聖書では「正しい人」ではなく「義人」となっていました。義なる人ということです。一体何に対する義でしょうか。神に対する義であり、律法に対する義です。この人たちはいかにも人の良さそうな人というよりは、むしろいかにも律法を正しく守って生活していそうな人たちだったのです。

そういう人たちから「わたしたちが肯定に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(二二節)と尋ねられたらどうでしょうか。相手はいかにも律法を守ってそうな人です。皇帝に税金を納めるなどとはとんでもないと考えてそうな人です。そういうふうに聞かれたら、相手に合わせて「皇帝に税金を納めることは間違っている」と言ってしまいそうなものです。彼らの意図は、そこにあったのです。

このとき主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(二五節)と答えられました。納めるべきか納めないべきか、その答えははっきりしないところがあります。しかし答えの受け取り方によっては、どちらにも解釈できてしまいます。

実際に、主イエスが十字架につけられる前、捕えられて裁判にかけられます。その裁判の席で、主イエスはこのように訴えられます。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(二三・二)。つまり、今日の箇所のやり取りを受けて、彼らは主イエスが皇帝に税金を納めることを禁じたということにしてしまったのです。彼らの意図がそこにあったのです。

彼らはこのようにして主イエスを批判することで頭がいっぱいでした。「あの男は皇帝に税金を納めることを禁じた」、その批判の矛先を主イエスに向けることに躍起になっていたのです。

人を批判することは簡単です。ちょっと難しい質問をして、特に政治の問題なんかがよいのかもしれませんが、そのような質問をして、うまく答えられないところにつけ込んでしまう。人に対する批判をするのは、人間が得意とすることかもしれません。人を批判するのは簡単。しかしその批判が自分にそのまま返ってくることを多くの人は忘れてしまう。もしも自分が同じ批判にさらされたとしたら、どう答えるのか。批判する方も、同じ批判に答えなければなりません。

この「正しい人を装う回し者」(二〇節)は、その背後にいた「律法学者たちや祭司長たち」(一九節)は、主イエスにぶつけたのと同じ問いを、どのように考えていたのでしょうか。彼らは皇帝への税金を断固拒否して、納めなかったのでしょうか。どうやらそうではなかったようです。

主イエスは「彼らのたくらみを見抜いて」(二三節)言われます。「デナリオン銀貨を見せなさい。」(二四節)。主イエスが「見せなさい」と言われたことが、ポイントであると思います。ほら、あなたがたのポケットに入っているその銀貨を見せてごらんと言われたのです。回し者の張本人が持っていたのかは分かりませんが、少なくともその周りの人たちは持っていたのです。主イエスが「見せなさい」と言われたら、出てきたのです。なぜ彼らは持っていたのか。それは皇帝に税金を納めるためにです。

このデナリオン銀貨は、ローマ帝国内で通用するお金です。この銀貨にはここにある通り、皇帝の「肖像と銘」(二四節)が刻まれていました。当時の皇帝はティベリウスという皇帝です。銀貨には「神聖王アウグストゥスの子である皇帝ティベリウス」と刻印されていたようです。

これに対し、ユダヤ人たちが用いていた通貨もありました。例えば神殿に献金を納めるとき、デナリオン銀貨などは用いない。ユダヤ人たち独自のお金が用いられました。デナリオン銀貨は皇帝の肖像が刻まれています。偶像を刻むということを、ユダヤ人たちは嫌いましたから、そんなデナリオン銀貨を神殿に献げるわけにはいかない。使い分けをしていたわけです。

それにもかかわらず、批判をしてきた張本人たちからデナリオン銀貨が出てくる始末。彼らからデナリオン銀貨が出てきた時点で、この問答の勝敗の行方は決していました。主イエスに矛先を向けたはいいけれど、その矛先が自分たちに向け返されたときに防ぐ手立てが彼らにはなかったのです。相手を批判したけれども、その同じ批判によって自分たちも批判されてしまったわけです。

これは私たちの問題であります。特に最近、世の中は批判に満ちています。しかも愛のない批判です。その批判が自分に返ってくるなどということは考えない。相手をやり込めるだけです。建設的な批判ではない。相手を打ちのめすだけです。政治家であろうと、会社の社長であろうと、教育の責任者であろうと、相手に問題になるようなことがあれば、みんなで一斉に叩く。とにかく叩きまくってテレビの番組や雑誌が出来上がっているようなものもあります。相手を批判すれば、自分も何か言ったように気分がするものです。

しかし本当に愛のある批判はほとんどない。愛のある批判をするためにはどうしたらよいか。その批判が自分にも返ってくることを考えなくてはなりません。一方的に批判するのではなく、自分も相手と一緒にその問題を考えざるを得ないのです。

私が神学生だった頃、夏期伝道実習という実習がありました。実習先の教会でひと夏を過ごすプログラムです。私が行った実習先の教会で、こんな出来事がありました。夏期伝道実習最後の日、もう明日は実習を終えて帰る日でありますが、お別れ会のようなものが開かれる。お別れ会とは言っても、そんな和やかな雰囲気で行われるのではありません。大きなテーブルに神学生が座らされて、教会員の方々が一人ずつ感想を述べられます。当然のことですが、批判が含まれることもあります。もちろん愛のある批判ですが、あなたはこういうところをもう少し改善した方がよいとか、ああいうことも勉強したらよいのでは、という発言もなされます。

神学生は黙って教会員の方々の発言を聴きます。そのすぐ横で、その教会の牧師も黙って教会員の方々の発言を聴きます。その会が終わったところで、その牧師が私と二人だけのところでこのように言いました。「今みんながああいうふうに行ったけれども、私はそのことを自分のこととして受け止めている。教会員も私に対して普段、直接言えないことをあの場で言っているところがある」。そのように言われたのです。単に神学生に対する批判ではない。自分に対する批判でもあると、その牧師は言ったのです。

この牧師の発言のように、自分に向けられたのではない批判も、自分のこととして考えなければなりません。もし私たちが他人を批判するのであれば、その批判が自分に向けられることもわきまえなければなりません。主イエスもあるとき、こう言われました。「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(六・三八)。相手を裁こうとして秤を持ち出す。その同じ秤で自分も量り返されてしまうということです。

主イエスはここで回し者たちに一方的な批判をされてしまいましたけれども、主イエスも批判を返そうとすれば、一方的な批判をできたはずです。相手をやり込めて、打ちのめしてしまうこともできたはずです。ルカによる福音書第二〇章には多くの問答が、つまり論争が記されています。いずれも主イエスの勝利で終わりました。主イエスの力をもってすれば、相手を立ちあがれないくらいに打ちのめすこともできました。「あなたがたは皇帝に税金を納めるかどうかを尋ねてくるけれども、そういうあなたがたもデナリオン銀貨を持っているではないか。そのデナリオン銀貨を皇帝に返せばよいのではないか」。そのように相手をやり込めることだってできたはずです。

しかし主イエスは「皇帝のものは皇帝に」(二五節)の次に、「神のものは神に返しなさい」(二五節)という言葉を付け加えてくださいました。皇帝に税金を納めるか納めないかの話以前に、あなたも神のものを持っているだろう。それを神にお返しをしているか。もし返していなければ、それを返すようにと招いていてくださっているのです。

神のものは神に返すということは、先週、私たちに与えられた聖書の箇所と深くかかわっていると思います。先週の箇所は今日の箇所の一つ前のところです。「ぶどう園と農夫」の譬え話です。繰り返してここで語るわけにはいきません。しかしこのぶどう園の農夫たちは、主人の畑に雇われていたにもかかわらず、主人に実りを返すこともしない。そんな農夫たちでありました。

ぶどう園で働かせていただいているからには、実りを主人にお返しをするのが当然のことであります。実りをお返しするというのは、とても大変な作業であるかもしれません。しかしそれは小さなことの積み重ねです。ここ松本でもぶどうの季節真っ盛りです。お店にはたくさんのぶどうが並んでいます。このぶどうを実らせるために、農家の方々は多くの小さなことを積み重ねてきたのだと思います。肥料をやったり、剪定をしたり、ぶどうの房に袋を被せたり、本当に小さなことの積み重ねです。私たちもその小さなことを積み重ねることができます。

先ほど子どもたちに話しましたが、私たちが洗礼を受ける。このことが神にお返しをする最も大きなことであります。この私が洗礼を受ける。洗礼を受けるとは、自分の主人が神に変わることです。今までは自分の人生は自分のものだと思ってやってきた。しかしそれを改め、自分のことを神に明け渡すのです。洗礼はキリストのものになることです。

洗礼以外にも、私たちには小さなことをさせていただくことができます。今日の礼拝に招かれた私たちです。ここで心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を礼拝することも、神にお返しをすることです。私たちの体を、心を、時間を、他の誰でもない。神のために用いるのです。また、隣人のために、教会のために小さな奉仕の業をするのもそうです。それ以外にも、私たちに与えられている手で祈る。祈りに生きるのも、神にお返しをする一つのことなのです。

私たちの歩みは確かに小さいかもしれません。この私が一体何をお返しすることができるというのか、そう思われるかもしれません。しかし私たちの歩みは小さなことの積み重ねです。小さなことしかできなくても、小さな一歩しか重ねることができなくても、そこには確かな喜びがあります。確かな手ごたえがあります。神にお返しをしている、他では決して得ることができない、その手ごたえと喜びがあるのです。