松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年9月2日(日)
説教題「権威ある者として」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第20章1節〜8節

 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

旧約聖書: イザヤ書 第9章1節〜6節

五〇〇年ほど前に、ドイツの教会を改革した改革者、マルティン・ルターという人がいました。本人も思ってもいなかったでしょうけれども、この改革は大きな改革に広がって行きました。ローマ・カトリック教会から独立したプロテスタント教会ができた。私たちの教会もプロテスタントの流れを汲む教会の一つです。

このルターが改革をしたときのスローガンともなる言葉がいくつかありました。「信仰のみ」「恵みのみ」という言葉と並んで、「聖書のみ」という言葉もスローガンとなった言葉です。聖書のみの権威に服する。言い換えると、他のどのような権威にも服さないということです。

「聖書のみ」をよく表している出来事があります。一五二一年のことになります。ルターが改革を始めたきっかけになった出来事が起こったのは、一五一七年と言われていますから、ルターが改革を始めて四年目の年のことです。この年の四月、ドイツのヴォルムスという街で、帝国議会が開催されました。この帝国とは、神聖ローマ帝国と呼ばれる帝国のことです。ローマという名前が付けられていますが、ドイツを中心とする帝国のことで、皇帝の名はカール五世という人でした。

カール五世はドイツを中心にして、イタリアなどの周辺諸国を統一しようと目論んでいました。政治的に統一するためには、政教分離などの時代ではありませんから、教会が一致していなければなりません。そんなカール五世の野望に水を差すかのような出来事が、ルターによる教会の改革だったのです。

自分のおひざ元のドイツで改革運動を起こされてしまい、カール五世も黙っているわけにはいきませんでした。ヴォルムスで開かれた帝国議会にルターを呼びつけます。そしてルターに、今日の聖書箇所のような言葉で問い詰めるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」(二節)。

カール五世からルターに、実際に問われたのは二つの問いであったようです。第一の質問は、会議のテーブルの上に、ルターが書いた書物が置かれた状況で問われました。「今、目の前に置かれているこの書物は、お前の書物であるか」。ルターはその問いに対してすぐに、「そうです」と答えたそうです。第二の質問がルターになされます。「お前は自分の主張が誤りであったことを認めるか」。ルターはすぐにこの問いには答えることができず、翌日まで猶予をもらいました。

ルターはおそらく一晩中、苦悩をしたと思います。そして翌日、議会が再開されました。皆がルターの答えに注目をします。ルターはこのように答えました。「私は聖書と明白な理性によって納得させられるのでないかぎり、…私は教皇と教会会議の権威を認めません。それらが互いに矛盾しているからです。私の良心は神の言葉の虜となっているのです。私は取り消すことができないし、取り消そうとも思いません。…神よ、私をお助けください。アーメン」(『総説キリスト教史・二』、五七~五八頁)。この答えからも明らかなように、ルターは教皇の権威でも教会会議の権威でもなく、ただ聖書の権威に服したのであります。

私たちにとっても、どの権威に従えばよいのか、このことはしばしば大きな問題になります。もちろん私たちは聖書の権威に従います。神の権威に従います。主イエスの権威に従います。しかし時にそれ以外の権威が私たちの目の前に置かれることもあります。それが人の権威であったりします。また自分の権威もあるかもしれません。神に従うよりも、自分に従うこと、つまり自分自身の権威に服してしまうことだってあるかもしれません。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、この権威が問題になっています。まずは一般的な権威とは何か、そのことを押さえておきたいと思います。権威という言葉を広辞苑でひきますと、「他人を強制し、服従させる威力」とあります。別の辞書をひきますと「自発的に同意、服従を促すような能力や関係」とあります。

つまり権威とは、力で服従させることもあるのでしょうけれども、自発的に従わなければならないように思わされることと言えるでしょう。例えば「あの人は数学の権威だ」というような使い方もします。その意味は、あの人は数学に関しては第一人者だということです。数学に関して、あの人が言っていることは間違いがない。あの人のいうことには自発的に同意させられるということになります。

主イエスは一体どのような権威をお持ちだったのでしょうか。主イエスの権威に関することが、マタイによる福音書に記されています。マタイによる福音書の第五章から第七章にかけて、「山上の説教」が記されています。主イエスが比較的、長い説教をお語り下さいました。山の上で語られましたので、山上の説教と呼ばれています。主イエスのこの説教が終わったときの人々の反応が記されています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ七・二八~二九)。

ここでは律法学者の権威のことも言われていますが、律法学者にはどうやら権威がなかったようです。律法学者は律法の学者でありますから、「律法の権威」であり、律法に関しては第一人者でありました。これは間違いのないことです。人々は生活に困ったことがあれば、律法学者に相談をした。その意味での権威はあったのです。

しかし聖書が語っているのは、そういう権威ではありません。人々は主イエスに権威を感じ取った。マタイによる福音書の山上の説教を聴いた人々はそう感じとりました。今日の聖書箇所での「民衆」もそうだったでしょう。主イエスから「福音」を夢中になって聴いていたのです。しかし祭司長や律法学者たちは、主イエスの権威を認めることができなかったようです。この権威の問題が、本日の箇所で問題となって表面化してきます。祭司長、律法学者たちの考える権威と、主イエスの権威がぶつかるのです。

主イエスはこのときすでに旅の目的地であるエルサレムに到着していました。最初の一節に「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると」(一節)とあります。もうすでにエルサレムにおられ、そしてエルサレムの神殿の中に入られていました。

先々週、私たちに与えられた聖書の箇所は、今日の箇所の一つ前のところです。主イエスがエルサレムの神殿に入られて、その神殿をきれいにされる。いわゆる宮清めの箇所です。神殿は本来ならば祈りの家であるべきでしたが、そこにはたくさんの商売人たちがいる状況でした。主イエスは商売人たちを追い出された。それに対して、「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。」(一九・四七~四八)とあります。民衆が皆、夢中になって主イエスの話に聞き入っていたからであります。

そこで彼らは日を改めました。「祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て」(一節)とあります。そして主イエスにこのように問うのです。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」(二節)。

彼らは自分たちのテリトリーが荒らされたと思ったのでしょう。主イエスはずかずかと神殿の中に入られた。そして商売人を追い出し、宮清めをされた。彼らは商売人と結託していたと言われています。商売人に商売を許す代わりに、自分たちにもその利益が入り込むようにした。それを主イエスに邪魔されたのです。さらに自分たちはそっちのけで、民衆たちに話をしている。民衆たちは自分たちのところには来ずに、主イエスの話に夢中になって聞き入っている。

これはもう我慢のならないことでありました。ここは自分たちが自由にできる場所だった。自分たちの権威が及ぶ場所だった。そんな場所にずかずかと入り込んで来て、好き放題にやっている。一体何の権威でそのようなことをしているのか。彼らの心の中には、自分たちに断りもなくそんなことをやっているのだから、そんな権利はないだろうという考えがありました。

その問いに対して、主イエスも問いを持って返されました。主イエスは直接、彼らの問いに答えることはならず、間接的にお答えになったのです。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」(三~四節)。

主イエスはここで洗礼者ヨハネのことを持ち出されています。ヨハネは人々に洗礼を授けていた人です。人々に悔い改めを迫り、洗礼を受けるように説いていたのです。もうすぐ救い主が来られるのだから、悔い改めて備えをせよと人々に言っていたのです。ヨハネは主イエスよりも少しだけ前に、神から遣わされた人です。

つまり、天から遣わされました。ヨハネはこういうふうに言っています。「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(三・一六)。つまり、ヨハネのことが分かれば、主イエスのことも分かることになります。ヨハネが天から来たのであれば、主イエスも天から来られたことが分かる。主イエスの権威は天からの権威ということになるのです。主イエスは間接的にそのような答えをなさいました。

主イエスは祭司長、律法学者たちに、逆に問いを返されましたが、この問いは私たちに対しても問われている問いです。主イエスの権威は一体どこにあるのか。どこからの権威なのか。なるほど、主イエスの権威は天からである。それならば、あなたはそのことを認めるか。主イエスが天からあなたのところに遣わされたことを認めるのか。そのことを私たちは問われているのです。祭司長、律法学者たちは、自分たちの権威を放棄することができず、そのことを認めませんでした。私たちはどうでしょうか。

私たちも少ならず権威を持っています。自分には権威などないと思われているかもしれません。もちろん「私は数学の権威だ」などとは言えないでしょう。しかし自分自身に対しては権威を持っていると思っているのです。子どもから大人になれば、自分のことは自由に決められるようになります。人に対しては権威はないかもしれないけれども、自分に対しては権威を持っているのです。

私たちが洗礼を受ける前、この権威の問題があったと思います。今日は日曜日。今日、自分は一体何をするか。教会に行くか、家にいるか、それとも教会以外の場所に出かけるか。そのことを自分の権威で決めることができます。ところが私たちが主イエスのことを知るようになる。そうすると主イエスが私たちの中に入り込んできます。聖書には私たちが神殿であると譬えているような箇所もありますので、私たちの神殿の中に入り込んでくる。宮清めをなさる。私たちの中でいろいろな教えを説かれる。福音を語られる。私たちがそれを聴く。そうすると、どうも今まで自分が持っていた権威との具合が悪くなってきます。何でも自分の権威で決めていたのが、主イエスの権威も考えなければならなくなってくるのです。

そこで主イエスは私たちに問われます。私はもうあなたの中に入り込んでいる。宮清めも行っている。福音も語っている。さあ、あなたは私の権威を認めるか。それとも認めないのか。私たちもそのように問われているのです。

祭司長、律法学者たちの答えはどうだったでしょうか。彼らの答えは何とも中途半端な答えでした。あれこれと考えた挙句、出した答えは「分からない」(七節)でありました。このような答えはとても便利な答えだと思います。自分の立場をはっきりさせたくないときは、極めて便利です。「分からない」「知らない」「記憶にない」と答えておけばよいのです。

彼らは本当のところは「人からのものだ」と答えたかったのだと思います。でも民衆がヨハネは天から遣わされたと信じていましたから、民衆の支持を失うことも怖かった。そこで自分たちの立場を隠すようにして、「分からない」と答えた。中途半端な立場に終始せざるを得なかった。自分たちの存在も中途半端になってしまっていたのです。

私たちも主イエスからの問いかけに対して、中途半端になるようなことはないでしょうか。主イエスの権威はどこからか、天からか、人からか問われたときに、本当は天からだと答えたい。しかし、主イエスの天からの権威は認めるけれども、公に言い表すことに躊躇を覚え、洗礼をなかなか受けられないこともあります。主イエスの権威の半分は認めるけれども、残りの半分は自分の権威も残しておきたいと考えるかもしれません。そういうとき、私たちはなんとも中途半端な、はっきりしない人間になってしまっているのです。

私自身も、以前は中途半端な存在でした。私は幼児洗礼を受けていました。幼児洗礼といえでも、洗礼は洗礼です。キリスト者と言えばそうであったかもしれません。しかしある程度の年齢になってから、自覚的に信仰を言い表さなくてはなりません。これを信仰告白と言います。早い人ならば、中学生、高校生の頃に信仰告白をするのでしょうけれども、私が信仰告白をしたのは大学三年生のとき、二一歳のときでした。

私は子どもの頃から教会に通っていましたので、神を信じていることには信じていたと思います。心では信じているかもしれないけれども、なかなか公に言い表すことができない。信仰告白をすることができない。半分キリスト者でありながらも、完全にそうであることはできなかった。なんとも中途半端な状態であったのです。

しかし二一歳で信仰告白をして、自分の存在がはっきりしていったことを、その後、自覚していきました。もう自分は中途半端ではない。自分はキリスト者。自分が何者なのかがはっきりとしたのです。キリスト者は主イエスの権威に服する者です。自分の権威によって生きるのではなく、キリストの権威によって生きる者なのです。

キリストの権威は、私たちの罪を赦す権威です。キリストはただお一人、赦すことができる権威をお持ちの方です。そのために主イエスは十字架への道を進まれた。主イエスはこのときはエルサレムの神殿で、多くのことをお語りになってくださいました。ルカによる福音書の第二〇章と第二一章は、すべてエルサレムの神殿での出来事であり、主イエスがお語りになった言葉がたくさん収められています。

今日の箇所はその口火を切られた箇所でもあります。この一連の箇所が終わると、いよいよ主イエスを殺す計略が実行されることになります。主イエスは天からの権威をお持ちでした。天から遣わされたからです。何のために遣わされたのか。それは十字架にお架かりになるためです。私たちの罪を代わりに担ってくださり、それゆえに私たちの罪を赦す権威を得てくださったのであります。

本日、合わせて旧約聖書のイザヤ書をお読みいたしました。この箇所は、クリスマスにしばしば読まれる箇所でもあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(イザヤ九・五)とあります。この箇所は救い主である主イエスのことが預言されていると、私たちは読みます。そしてその次の箇所ですが「権威が彼の肩にある」と続きます(イザヤ九・五)。この権威をお持ちの唯一のお方がキリストです。これ以外にいかなる罪の赦しもなければ、救いもあり得えないのです。

私たちはこの権威にすべてを委ねることができます。私たちもこの権威以外のどんな権威を求める必要はない。この権威が私たちの罪を赦してくれるからです。この権威が私たちを赦された者として生かしてくれるからです。この権威が私たちをキリスト者として生かしてくれるからです。キリストのものとして、自分の存在がはっきりして、私たちは生きることができる。この権威によって生きるのが、キリスト者なのであります。