松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2013年12月22日(日)
説教題「私たちのために救い主が与えられた」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ルカによる福音書 第2章8〜12節

 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

旧約聖書: イザヤ書 第9章1〜6節

私が伝道者になる前、神学校で四年間、学びをしました。その在学期間中、私は神学校のコーラス部に所属をしていました。コーラス部に所属していたと言っても、私は音楽の専門家ではありません。部員のたいていはそうで、初心者でした。讃美をしたい人が集まっていたと言ってもよいでしょう。

そのコーラス部ではどんな曲を主に歌っていたのかと言いますと、ヘンデルのメサイアという曲を歌っていました。ヘンデルやメサイアという名前は知らなくても、その中に含まれているハレルヤコーラスなどは、誰もが一度は耳にしたことのある曲だと思います。

このコーラス部では毎年、十二月にメサイア音楽礼拝というものが行われていました。それぞれのパートをソロで歌う方は、コーラス部の部員ではなく、いわゆるセミプロの方です。しかしコーラス部の私たちは、おそらくお世辞にも上手とは言えなかったと思います。けれども讃美をする人たちは全員が献身者、やがて牧師、伝道者になる人たちです。そんなこともあって、毎年、周辺の教会などから、そこそこに人数の方たちが集まってくださいました。

このメサイアは全部で五三曲から成り立っています。日本ではクリスマスシーズンに、いろいろな合唱団がメサイアを歌っていますが、クリスマスに特化した曲というわけではありません。むしろメサイアには、聖書全体が詰まっていると言った方がよいでしょう。

メサイアはヘンデルという音楽家が作曲したものでありますが、そもそもこのメサイアが生まれたのは、ジェネンスという文学者がヘンデルに作曲を依頼したからです。ジェネンスは聖書の言葉を抜粋して、ヘンデルのところに持って行きました。これに曲をつけてくれと依頼したのです。その聖書の言葉を繋ぎ合わせていくと、一つの壮大な神の物語になるという具合です。第一部はメサイア、つまり救い主の出現の預言とその成就です。第二部は救い主の受難・復活・昇天・福音の広がりです。第三部は救い主の再臨と救いの完成です。ハレルヤコーラスもこの第三部に含まれます。

このような壮大な全五三曲になったわけですが、ジェネンスからの依頼を受け、ヘンデルはわずか二四日でメサイア全体を仕上げたようです。この時期のヘンデルは、身体的にも精神的にも経済的にも困窮状態にありましたが、何かに取りつかれたように作曲にあたった。そして今の時代にまで残されている名曲になりました。

このメサイアの全五三曲は、ソプラノ、アルト、テナー、バスの方がソロで歌う曲もありますし、私たちのメサイア音楽礼拝ではオルガンでしたがオルガンのソロの部分もありますし、もちろん合唱、コーラスで歌う曲もあります。その中で、私が一番好きだった曲は一二番という曲です。英語で、For unto us a child is bornと歌い始めます。日本語は、イザヤ書第九章五節。「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。本日、私たちに与えられた旧約聖書の箇所の箇所です。

この一二番は、コーラスの曲です。もちろん四声のハーモニーも美しいのですが、何よりのこの曲の特徴は、同じメロディーでソプラノ、アルト、テナー、バスのそれぞれのパートが、For unto us a child is bornと歌っていくことです。ソプラノが高い声で、「私たちのために男の子が生まれた」と歌ったかと思えば、バスの低い声で「私たちのために男の子が生まれた」と歌っていく。この連続です。あっちでも、こっちでも、至るところで「私たちのために救い主が生まれた」と、その喜びの声が次々とあがっていることを表しています。

救い主が生まれる。クリスマスの喜びとはまさにその喜びです。あっちでもこっちでも、救い主が生まれたと喜びの声をあげている人がいる。そして自分もその喜びの声に加わる。私たちのために、この私のために救い主がお生まれになった。クリスマスの喜びとは、自分もその中に加わっていく喜びなのです。

本日のクリスマス礼拝において、お二人の受洗者が与えられました。夫婦での受洗になります。このご夫妻にとっても、イエス・キリストを救い主として信じるようになり、洗礼を受けられて、「私たちのために救い主がお生まれになった」という声をあげるようになった。その喜びの中に加わった。まさにその出来事が起こったと言ってもよいのです。

先週の日曜日の礼拝後、臨時長老会を開き、お二人の面接試問を行いました。洗礼を受けたいと願われるようになった、その経緯などをお聞きしました。お二人が言われていたことで、まったく同じことがありました。それは、もうだいぶ前のことになりますが、キリスト者の方々と接した。そのときに、キリスト者の方々の顔がなぜこんなにも輝いているのか、なぜそんなに平安な心でいられるのか、そのことに驚かれたのだそうです。入口はそこからでした。自分もあの人たちのようになれるだろうか、そこからスタートしたのです。

このことを言い換えますと、このご夫妻はあるとき、「私たちのために救い主がお生まれになった」と喜んでいる方々に出会った。キリスト者の方々です。自分もその言葉を言えるだろうか、その思いをずっと抱いてこられた。そしてそれがついに今日の日に実現をした。「私たちのために」「私のために救い主がお生まれになった」。そう言えるようになったのです。

先ほどのヘンデルのメサイアの話の続きになりますが、一二番がイザヤ書第九章五節の言葉を歌うコーラスの曲でした。続く一三番は、日本語だと「田園交響曲」と言います。英語だとPastoral Symphonyと言いますが、確かにPastoralというのは「田園」と訳すことができます。しかしこの場合は明らかに「羊飼いの」と訳した方がよいと思います。「羊飼いの交響曲」です。この一三番の曲は、本当にゆったりとした、羊飼いたちが草原で羊を養っているような、のどかな曲です。羊飼いたちの日常生活が表れている曲と言ってよいでしょう。

ところが、その次の一四番は、ソプラノがソロで歌う曲ですが、曲の調子が少し変わります。この一四番の歌詞は、ルカによる福音書第二章八~九節です。本日、私たちに与えられた聖書箇所です。羊飼いたちの日常生活に、突然、天使が突入してくる。羊飼いたちのクリスマスの話の始まりです。

メサイアの一三番が表わしているように、羊飼いたちにとっては、いつもと同じことが続いていました。日常生活です。ルカによる福音書の聖書箇所の八節は「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とあるように、ここまでは日常生活です。そんな中、救い主の誕生の知らせが飛び込んできます。天使が現れて告げるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(一〇~一二節)。

日常生活をしている中で、突然このような知らせを聞いたとすれば、どうでしょうか。羊飼いたちはどう思ったでしょうか。これは夢か、幻か、そう思ったかもしれません。しかし夢や幻に違いないと思ったならば、ずいぶん変な夢を見たものだということで話はおしまいになっていたと思います。この後、羊飼いたちは救い主のところに実際に行っています。夢や幻だと思うなら、わざわざ出向く必要はないと思います。羊飼いたちは、もちろん半信半疑なところはあったかもしれませんが、確認しに行った。救い主を見に行ったのです。

クリスマスの出来事の急所がそこにあります。目で見ることができる。確認することができるのです。救い主が生まれた、神の子が生まれた。そんな馬鹿なと誰でも最初は思うかもしれません。しかし見に行くことができる。生まれるというのはそういうことです。母の胎内に子が宿っている場合、お母さんのおなかは大きくなっていますが、目にはまだ見えません。最近ではエコーなどで胎内の様子もだいぶ分かるようになりましたが、やはり目にはまだ見えない。しかし生まれる、ということは、目に見えるようになる、はっきりと分かるということです。

今年もこどもクリスマスが行われました。先々週の一二月一四日の土曜日のことです。今年はとても人数が多く、最高記録だと思いますが、こどもと大人を合わせて百人以上が集まりました。皆で共にクリスマスの祝いをした。

このこどもクリスマスでは、教会のこどもたちによるクリスマスの劇が行われます。毎年のことですが、今年も劇が行われました。なぜ劇をやるのでしょうか。せっかくのクリスマス、こどもクリスマスの時間も二時間もある。だからクリスマスの劇でもしないといけないのではないか。そういうわけではありません。教会は、昔からクリスマスの劇を大切にしてきたのです。

ヨーロッパなどを旅行しますと、クリスマスの木製の人間のセットを見かけることがあります。外国語ではクリッペと言います。飼い葉おけに寝かされている幼子イエスの人形がある。その傍らにマリアとヨセフの人間がある。羊飼い、天使、博士、家畜の人形もあります。これらが一つのセットになり、クリスマスの場面を表わすのです。

今では飾られて、それを眺めるだけかもしれませんが、昔はこのような木製の人形が、劇の中で実際に用いられたようです。子どもたちがその劇を眺める。目でクリスマスの出来事をやはり見るのです。なぜこのような劇が成り立つのか。それは、目ではっきり見える形で救いが現れたからです。天使たちも「これがあなたがたへのしるしである」(一二節)と言っていますが、目に見える「しるし」です。天使がそうはっきり言うことができたのは、救い主が目に見える形でお生まれになったからです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所でも、やはり見るという言葉が二度にわたって使われています。すぐに発見することができるのは、一二節です。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。もう一箇所はどこか。実は、私たちが用いています新共同訳聖書では、訳されていないのですが、一〇節です。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。見るという言葉の訳が抜けてしまって、非常に私は残念だと思いますが、実際のところは「恐れるな。見よ! わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と天使は言っているのです。つまり、天使は二度にわたって、見るという言葉を使っているのです。救いを見てごらんなさい。そのしるしを見てごらんなさい。ここに救いがあるでしょう。天使はそのように告げるのです。

クリスマスは、いろいろな言い方をすることができるかもしれませんが、神が目に見える形で、はっきりと、具体的に、私たちに救いを用意してくださった出来事です。もちろん主イエスがお生まれになった出来事は、二千年前の出来事ですので、今の私たちにとっては直接、目に見ることはできないかもしれません。しかしそれは些細なことです。救い主、神の子が私たちのところに、目に見える形で現れてくださった出来事は変わりがないのです。「私たちのために救い主が生まれた」、「生まれた」とはっきりと言えるようになったのです。

今日はお二人の方が洗礼を受けられましたけれども、このお二人とも受洗のための様々な学びをいたしました。いろいろな質問を受け、お答えをしました。洗礼を受けるためにはどうすればよいでしょうか。何か条件はありますか。救われるためにはどうしたよいでしょうか。そんなご質問もありました。

その問いに対して、いろいろな答え方をしたと思いますが、実際のところ、答えは一つなのであります。とても単純な答えです。ほら、もう救いはあなたのところに来ましたよ。それが答えです。そう言われると、驚かれるかもしれません。いつ、どこに救いが来たのですか。クリスマスのときです。そう答えることができる。私たちが悩んだり、苦しんだり、求めたりする前から、神はすでに救いを与えてくださった。その神の愛を、神の招きを信じるか。すでに神が与えてくださっている救いを受け入れるか。問われている信仰はそのことだけです。

このことを受け入れる者たちが、喜びの声をあげます。「私たちのために救い主がお生まれになった」。あっちでも、こっちでも、この喜びの声があがります。そしてこの喜びの声に自分も加わる。「私のために救い主がお生まれになった」。クリスマスの出来事から二千年経った今でも、この声が途絶えることはありません。今日、洗礼を受けられた方々だけではない。すでに洗礼を受けられた方もそうです。そしてまだ洗礼を受けておられない方も、この喜びの声を共にあげていただきたいと思います。多くの方々と共にこの喜びの声をあげることができますように。