松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20120812

2012年8月12日(日)
説教題「主イエスをお迎えしよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第19章28節〜40節

 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

旧約聖書: 詩編 第118編19〜29節

先週の水曜日から木曜日にかけて、こどもの教会の夏期キャンプが行われました。週報にもあります通り、参加したのは全部で三九人です。子どもが二四名、大人が一五名です。皆さまの中にも実際に参加をして奉仕をしてくださいました方もありますし、祈りに覚えてくださった方も多いと思います。恵まれた夏期キャンプになったことを感謝しています。

夏期キャンプでは毎年、聖書の物語をじっくりと学んでいます。今年も、こどもの教会教師会でいろいろと検討をしたのですが、普段なかなかじっくりと味わうことのできない旧約聖書から学ぼうということになりました。具体的には、創世記のヨセフ物語です。アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブ、そしてヤコブの子がヨセフです。

私が開会礼拝でヨセフの話をしました。そしてその後、三つのグループに分かれて劇をしました。劇の練習をして、そして二日目にいよいよ発表です。それぞれが創意工夫を凝らし、とてもよかったと思います。

その劇の中で、特に私の印象に残った演出がありました。それは、あるグループが神さまを登場させたことです。劇の始まったところで、まず神さまが登場し、ナレーターのようにこのように言うのです。「これから行われることは、すべて私の計画によるもの」。神がまずそのように言われるところから劇が始まったのです。

ヨセフの家族はどんな家族であったのか。ヨセフの話をここで延々とすることはできませんが、少しだけ話をすると、ヨセフはヤコブの十一番目の子どもでした。上に十人の兄がいて、下に弟が一人いました。ヨセフはヤコブの年寄り子であったので、ヤコブのことを非常にかわいがりました。兄たちは面白くありません。ヨセフのことを憎みます。

そしてその憎しみが募りに募って、ヨセフは大きな穴の中に投げ込まれてしまいます。兄たちがその穴から離れたところにいたとき、旅の商人がやってきて、ヨセフを穴から引き上げて、エジプトに奴隷として売ってしまうのです。しかしヨセフはエジプトの地で、神に導かれながら頭角を現し、エジプトの食糧大臣になりました。王様であったファラオの次に偉い地位です。世界中に食糧飢饉が起こったときに、ヨセフのいたエジプトにだけは食料がありました。世界中の人々がヨセフのもとにやってきます。その中に、ヨセフの兄たちもいたのです。こうしてヨセフの一家は食糧飢饉から救われたのです。

もっと詳しい話は、創世記の後半をあとで読んでいただければと思いますが、ヨセフの家族は、実際にとんでもない家族でありました。父親であったヤコブは、子どもたちを平等に愛したのではありませんし、兄たちも弟のヨセフを殺そうとまで企みましたし、ヨセフもヨセフで弟にしては少々、生意気なところがありました。混迷を深める家族でした。

しかしそのような家族でありながらも、神によって導かれた家族です。神のご計画のために用いられた家族だったのです。ヨセフをはじめとして、誰もが神の計画が進行しているだなんて、まったく気づいていなかったでしょう。しかし、夏期キャンプの劇で神さまのナレーターが言ったように、人間がどうあろうと、神の計画が着実に進んでいたのであります。

ヨセフの話は、これだけでは終わりませんでした。エジプトの食糧大臣になったヨセフのところへ兄たちが行き、家族が食糧飢饉から救われました。めでたし、めでたし、ということでは終わらなかったのです。

ヨセフの父の名はヤコブです。ヤコブはイスラエルという名前が与えられました。そしてヤコブの十二人の息子が、イスラエル十二部族となったのです。このようにやがてヨセフの家族はイスラエルの国になっていきます。イスラエルの国も、本当に紆余曲折がありました。しかしやがてこのイスラエルから、主イエス・キリストがお生まれになるのです。神の計画は切れることなく、ずっとつながっているのです。

そして主イエスが地上の生涯を歩まれる時がやってきます。私たち松本東教会では、ルカによる福音書から御言葉を聴き続け、主イエスのご生涯の歩みをたどってきました。第九章五一節には、主イエスがエルサレムに向かう決意を固められたと記されています。その後はずっとエルサレムに向けての旅を続けて来られました。ルカによる福音書独自の物語も、この箇所以降にたくさん記されています。

そして本日、私たちに与えられた箇所の二八節には、こうあります。「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」(二八節)。ついに主イエスがエルサレムに入られる箇所になります。もっとも主イエスはこれまでエルサレムに何度か行かれていましたが、このときは他の時と決定的に違いました。このとき、主イエスはエルサレムで十字架にお架かりになられたからです。

ヨセフの時から、いや、それよりもずっと前から、天地創造の時から、この計画は進行してきました。ヨセフの家族が誕生した。やがてイスラエルになる。これも神のご計画です。そして神のご計画は、主イエスの時に至ります。今日の聖書箇所では、いよいよクライマックスを迎えようとしています。これからエルサレムで十字架の出来事が起こる。神の独り子である主イエスが十字架にお架かりになる。私たちの罪を担い、罪を赦すために十字架にお架かりになるのです。この出来事によって、私たちは赦されました。神に受け入れられました。神の子とされました。これが神の壮大な救いのご計画なのです。

今日の聖書箇所では、主イエスのみが、この計画をご存知であられました。他の弟子たちは誰もそんなことは知る由もありませんでした。主イエスはご自分が背負わなければならない十字架を知りながら、エルサレムに入られたのです。

今日の聖書箇所は、「エルサレム入城」の話としてよく知られています。ルカによる福音書だけでなく、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも、この話が記されています。どの福音書でも同じ話とお思いになるかもしれませんけれども、少しずつ伝え方が違います。特にルカによる福音書では、他の福音書とは違う独自の伝え方をしています。

マタイによる福音書とマルコによる福音書では、主イエスがエルサレムに入られたときに、群衆が迎えている様子が書かれています。例えばマタイによる福音書ではこうです。「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」」(マタイ二一・九)。群衆はエルサレムの町にいた人々のことでしょう。群衆が祝福の言葉と共に、主イエスを迎えるのです。

ところが、ルカによる福音書では違います。群衆が出てくるのは、三九節のところです。「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。」(三九節)。群衆はここで初めて登場するわけですが、どうやらルカによる福音書では、主イエスをエルサレムに迎え入れたのは、自分たちであったようです。

三六節に「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。」(三六節)とあります。ここで出てくる「人々」という言葉は、元の言葉では「彼ら」という言葉です。主イエスの弟子たちを指す言葉です。つまり弟子たちは、自分たち自身で祝福の言葉を叫び、自分たちで服を脱いで道に敷いたのです。自分たちで自前のパレードをしたというところでしょうか。エルサレムの人たちが迎えてくれたわけではないのです。それどころか、そのパレードがうるさすぎたのか、見かねた群衆の中にいたファリサイ派の人が、「先生、お弟子たちを叱ってください」(三九節)と言っているのです。

ですから、ルカによる福音書のこの話は、弟子たちが中心となっている話です。もちろん、あくまでも中心は主イエスですが、少なくとも群衆ではない。弟子たちの言動により焦点が当てられているのです。ルカはそういう伝え方をしています。

今日の箇所では、弟子たちがいろいろなことで奔走をしています。なかなかの活躍ぶりだと思います。少なくとも失敗はしていない。しかし弟子たちは一体どこまで神のご計画を知っていたのかと考えざるを得ません。もちろん、知っていた者など一人もいないでしょう。ただ主イエスのみがご存知であるだけでした。弟子たちは、ただただ主イエスに言われるまま、ついて行くままであったのです。

弟子たちはここでどんなことを主イエスによってさせられているか。まず、二人の弟子が主イエスによって使いに出されました。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」(三〇~三一節)。

なぜろばなのか。馬の方が、威厳がありそうです。馬は戦争でも用いられたので、確かに王にふさわしいと思いますが、旧約聖書に「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリア九・九)という箇所があります。主イエスがお望みになったのは、馬ではなくろばでした。二人の弟子たちはそのろばを用意するために、主イエスに命じられてその役目を果たしたのです。

そのろばに主イエスが乗られます。そうすると、弟子たちが自分たちの服を道に敷いて主イエスを迎えます。弟子たちはこのことを命じられたから行ったわけではなく、自分たちから行ったわけですが、事前に計画を立てていたわけではないでしょう。旧約聖書に見られる王を迎えるときのならわしに従ったのだと思います(列王記下九・一三)。主イエスがろばに乗られて、王としてお迎えすることになったのです。

また弟子たちは声高らかに讃美をしています。「自分の見たあらゆる奇跡のことで」(三七節)とあります。今まで弟子として主イエスに従ってきて、様々な奇跡の力を目の当たりにしてきました。そのことを思い起こし、讃美をしているのです。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」(三八節)。これも弟子たちが事前に計画を立てて行ったことではないでしょう。弟子たちは、旧約聖書の詩編第一一八編を思い起こしたのだと思います。本日、旧約聖書の箇所として合わせてお読みした箇所です。その言葉を用いながら、主イエスを讃美しているのです。

このように考えると、すべて弟子たちが計画をして、さあ、イエス様どうぞ、という形で事が運んだわけではないのです。主イエスが主導して、先頭に立って進み、弟子たちを使いに出したりしながら、すべてを導いてくださったのです。弟子たちはただその中にいることを許された。神のご計画のために用いられたのであります。

私たちも弟子たちと同じであると思います。私たちが主導して、すべてを整えて、さあ神さまどうぞ、などということはできません。むしろ話はまったくの逆で、神がご計画を立てて導いてくださり、私たちが気付かない中でも、そのご計画の中に私たちを入れていてくださる。これが実際に起こっていることなのであります。

子どもたちの夏期キャンプで学びましたヨセフの話もそうでした。ヨセフの家族は大混乱に陥りました。憎み合い、いがみ合い、家族が引き裂かれ、混迷を極める家族になってしまいました。しかしそんな家族も神のご計画の中にいました。

弟子たちも同じです。弟子たちは今日の聖書箇所では、かなりの優等生のように思えます。大きな声で讃美をしています。しかし数日後、弟子たちの口から讃美の声が消えてしまいました。讃美をするどころではない。主イエスの一番弟子でもあったペトロは、主イエスのことを知らないとまで言ってしまう。主イエスが十字架にお架かりになる直前に、弟子たちは主イエスのことを見捨てて逃げてしまうのです。主イエスが捕えられて、弟子たちも大混乱に陥りました。こんな弟子たちも、神のご計画の中に確かに用いられたのです。

そんな弟子であることを知りながら、主イエスはご自分についてくることをお許しになりました。そんな頼りない弟子でしたけれども、主イエスはお見捨てになることはなかったのです。

弟子たちは本当にこのとき的確に讃美をしていました。三八節の讃美には「天には平和、いと高きところには栄光」(三八節)とあります。クリスマスの出来事を思い起こしておられる方もあると思います。天使たちが羊飼いのところに現れ、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ二・一四)と讃美しています。これから救い主が地上にお生まれになるクリスマスのときには、「地には平和」(二・一四)と讃美しましたが、弟子たちは「天には平和」(三八節)と讃美しています。

ある聖書学者が指摘していることですが、これから主イエスが十字架にお架かりになる。三日目に復活をされて、天に登られる。主イエスが天にお戻りになられるから、「天には平和」なのだと言っています。そうすると弟子たちは、そのことを踏まえた讃美をこのときしていることになります。それほどの讃美を弟子たちはすることができたのです。弟子たちはそんなことまで知る由もなく、ただこの讃美をしただけかもしれませんが、このようなすごい讃美の言葉が与えられた。たとえ弟子たちが讃美をしなかったとしたら、石が讃美の声をあげるくらいの讃美をすることができたのであります。

私たちも弟子たちと同じであります。弟子たちのように、私たちも讃美の深い意味も知らずに、讃美をしていたこともあったでしょう。祈りの深い意味もよく知らずに、ただ祈りの言葉にアーメンと声を合わせていただけのこともあったでしょう。しかしその時にも、神が私たちに後ろからついてくることをお許しになってくださった。私たちも神のご計画の中に、そのときから入れられていたのです。

新約聖書のエフェソの信徒への手紙の最初の方に、このような言葉があります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ一・四~五)。神がお立てになったご計画は、天地創造の前から立てられたものであったというのです。私たちを愛して、神の子にしようとお定めになった。罪を犯した私たちを、もう一度、ご自分のものにしようと、主イエス・キリストの十字架をご計画くださったのです。私たちは赦され、神の子になることができました。

そのことを知らずにずっと過ごしてきた私たちであるかもしれません。こどもの夏期キャンプでは、大人は一生懸命、準備をして、子どもはとても楽しんでくれたと思います。おそらく子どもたちは大人がこれほど準備をしていたとは知る由もないかもしれません。私もそうでした。私も子どものときは、大人が準備をしてくれたキャンプを本当に楽しみました。大人になり、こどもの教会の教師をするようになって初めて、ああ、大人がこんなに準備をしてくれていたのか、ということを知りました。

これと同じように、神も私たちのために、私たちが知らなかったところで、これほど大きな救いのご計画を準備してくださっていました。実際にその通りに実行してくださいました。ヨセフからイスラエル、イスラエルから主イエス、そして主イエスから私たちにまで至る計画です。私たちが知らないときから、私たちをその中に入れてくださった。神の子にしてくださったのです。そして今、私たちは神の子として、神が私たちのためにしてくださったことを知ることができる。神が私たちをこれほどまでに愛し、ご自分のものにしようとご計画を立ててくださっていたことを知るのであります。