松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年8月5日(日)
説教題「神から託されたもの」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第19章11節〜27節

 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

旧約聖書: 箴言 第9章10節

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、ムナの譬えと呼ばれている譬え話が記されています。主イエスは何度も譬え話をお語りになられました。聖書の中にたくさんの譬え話が記されています。これも一つの譬えです。一体何をたとえているのでしょうか。結論を先に言うならば、私たちの信仰生活がたとえられているのです。

まずは譬え話が語られた状況を確認しておきましょう。一一節にこうあります。「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」(一一節)。主イエスはこのときエルサレムに向けての旅を続けておられました。今はエリコという町にいます。エリコからエルサレムは歩いて一日くらいの距離です。もうエルサレムはすぐ近くでした。

主イエスに対する人々の期待が高まっていたのでしょう。このお方がエルサレムに入られたら、もしかしたらすごいことが起こるかもしれない。この町エリコでも、あの徴税人のザアカイが心を入れ替えて悔い改めてしまった。エルサレムでは、もしかしたらもっとすごいことが起こるかもしれない。このお方が王になって、イスラエルを治めてくれる王国が作られるかもしれない。ローマ帝国の支配から解放されて、このお方が中心となる支配が始まるかもしれない。

エリコの町でも多くの人が期待をして、主イエスを迎えました。徴税人のザアカイは、主イエスを見たいと思いましたが、大勢の群衆にさえぎられて、見ることができなかったほどです。来週、私たちに与えられる聖書の箇所は、本日の箇所の次のところですが、ここには主イエスがエルサレムに入られたときの様子が記されています。ここでもやはり主イエスは大勢に人に歓迎されて、迎えられたのです。エルサレムでもエリコでも、人々は王の登場を待っていました。自分たちの理想的な王国を作ってくれる、王を求めていたのです。

そんな人々に対して、主イエスはこの譬え話をお語りになられました。人々はすぐに王国が建設されるかもしれないと思っていました。期待をしていました。しかし主イエスは人々の期待を裏切るかのような譬えを語られるのです。この譬え話には、王の位を受けるために旅に出かける人が出てきます。この人が主イエスにあたります。主イエスが王になるにはなるかもしれないけれども、すぐに王になるのではない。王になるために旅立ってしまう。しばらくの間、いなくなってしまうというのです。

譬え話の中のこの人は、一体何のために旅に出かけたのでしょうか。王の位を受けるためです。それではなぜ王の位を受けるために、わざわざ遠くに旅をしなければならなかったのでしょうか。王になるのならば、自分の国の中で、自分は王様だ、と宣言すればよさそうなものです。

実を言うと、この譬え話はこの当時の社会的な状況を反映していると言われています。主イエスがお生まれになった頃、その地方を支配していたのは、ヘロデ大王と呼ばれる人でした。このヘロデ大王が死んだときに、何人かの息子たちがいたのですが、そのうちの一人、アルケラオという人は、自分が王になることを認めてもらうために、ローマに赴いたと言われています。ローマ帝国の支配下にありましたから、勝手に王になるわけにはいかなかったのです。

しかしその地方の人々は、アルケラオに王になって欲しくないと思っていたので、アルケラオの後を追うように、使節をローマに派遣し、この人が王にならないようにと懇願したのです。結局、ヘロデ大王が治めていた領地はいくつかに分割されました。ここではあまりその話に深入りはしませんが、当時の人々がよく知っていたであろう話を、主イエスはここで持ち出し、ご自分の話として語り直しておられるのです。

主人が王の位になるために旅に出る。この主人は主イエスなのですから、主イエスはしばらく旅に出て、不在になってしまうわけです。そのような状態が続いている。今も続いている。私たちが生きている今の状態もそうなのであります。

主イエスはこのとき、エルサレムに向かって旅をされていましたが、エルサレムで十字架にお架かりになられました。主イエスは十字架で死なれる。墓に葬られる。そして三日目に復活されます。しばらく弟子たちと一緒に過ごされましたが、天にあげられます。主イエスが旅に出られてしまったのです。神の王国の王となるために、旅に出られた。帰ってくるときには、神の国の王として即位され、神の国を支配されます。

今、私たちは主イエスが二千年前に一度来られ、そして天にあげられた後の状況の中に置かれています。主イエスはまだ、お戻りになられていません。やがて戻って来られます。しかし今は主イエスが不在なのです。その中を私たちがどのように生きたらよいのか。この説教の冒頭に、この譬え話は私たちの信仰生活を示していると申し上げましたが、主人から託されたムナを用いて、どのように私たちが生きたらよいのかということが、この譬え話によって語られているのです。

このムナの譬えと非常によく似た譬え話が、マタイによる福音書にも記されています。似ていますが違いもいくつかあります。大きな違いは、お金の単位が違うということです。ルカによる福音書ではムナ、マタイによる福音書ではタラントンです。ムナやタラントンという単位が聖書の中に出てきたときに、私たちの助けとなるのものが、聖書の後ろのところにあります。聖書の一番最後にはヨハネの黙示録という文書がありますが、この文書の記述が終わった直後のところに、単位表があります。これは聖書の中に出てくる様々な単位を説明してくれる表です。

それによると、タラントンというのは、六千ドラクメであると記されています。ドラクメも単位表で調べますと、デナリオンと等価、と書かれています。デナリオンというのは一日分の賃金です。つまり一タラントンは六千日分の給料ということになります。二十年分くらいの稼ぎということになるでしょうか。一タラントンといえども、相当の額になります。

ルカによる福音書のムナはどうでしょうか。ムナは単位表によりますと百デナリオンと等価と書かれています。百日分の賃金、三カ月ほどの稼ぎということになるでしょうか。決して少ない額ではありませんが、タラントンに比べると六十分の一ほどの額にしかなりません。主人は「これで商売をしなさい」(一三節)と言っていますが、商売をするには少ない元手であるかもしれません。

このようにマタイとルカの譬え話では、お金の単位がまず違うわけですが、もっと大きな違いがあります。それは、主人からもらった額に差があるのか、それともないのかという違いです。マタイによる福音書では、主人は僕たちにそれぞれ、五タラントン、二タラントン、一タラントンという違う額を渡しました。これに対して、ルカによる福音書では、住人の僕に十ムナを渡したわけです。はっきりとは書かれていませんが、おそらく一人に一ムナずつ、公平に渡したのです。これがもっとも大きな違いだと思います。

マタイによる福音書のタラントンというお金の単位は、やがて英語でタレントという言葉になりました。才能という意味です。日本でもタレントという言葉がありますが、それは人前に出ることができるくらい、才能に恵まれた人という意味です。神から人それぞれに与えられたタラントンが異なる。つまり才能が異なるというのが、マタイによる福音書の理解です。

しかしルカによる福音書のこの譬えでは、マタイと同じことは言えないと思います。人それぞれ違う才能が与えられているという話ではないのです。そうではなくて、誰もがみんな同じものを与えられている。同じ一ムナが与えられている。一ムナとは何か。はっきりと聖書には何であるかは書かれていません。ある説教者はこれを信仰だと理解しました。確かにその理解は成り立つと思います。

私たちは神を信じるようになった経緯は様々であるかもしれませんが、誰もが等しく同じ信仰に生きるようになったからです。その等しく与えられた一ムナという信仰をもって、私たちがどのように生きていけばよいのか、そのことがこの譬え話で語られているのです。

私たちの生き方が最終的に問われるのは、譬え話の表現で言えば、主人が王の位を受けて帰ってきたときのことです。言い換えると、主イエスが再び来られた時です。このときを再臨あるいは来臨と言います。このときに何がなされるのかというと、裁きがなされます。譬え話では一五節のところです。「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」(一五節)。

一番目の人が出てきます。この人は一ムナを元手にして十ムナをもうけました。二番目の人は五ムナをもうけました。主人はもうけが少なかったことを咎めたりはしません。ここまではよかった。けれども三番目に登場してきた人は、同じような扱いにはなりませんでした。この人は主人から託された一ムナを、布にくるんでしまっておいたというのです。そしてその一ムナをそっくりそのまま主人に返しているのです。

先ほども申し上げましたように、一ムナというのは百日分の賃金です。大きな額かもしれませんが、商売を始めるには少なすぎるでしょう。この人には、たったこれっぽちで商売せよと言われても、という思いがあったかもしれません。主人から託された一ムナを信用していない。そしてたった一ムナしか渡さなかった主人をも信用していないのです。

しかもこの人にとって、この主人は厳しい人でした。恐ろしい人だと思っていました。この一ムナを失うことがあったら、どんなことになるか分からない。だから一ムナを布にくるんでしまっておいたのです。マタイによる福音書のタラントンの譬えでは、一タラントンを預かった人は土の中に埋めています。一タラントンといえども、莫大な金額だったため、持ち歩くことはできず、土の中に埋めました。

しかしルカによる福音書のこの人は、一ムナを布の中にしまっておいた。この布は、どうやら頭などに巻く布であったようです。肌身離さずに持っておくことができました。おそらくびくびくしながら持っていたのだと思います。無くしたら大変。銀行も信頼しない。誰も信頼しない。主人も信頼しない。この人はそんな生活を送っていたのです。

この人は他の二人とはまったく違う評価になってしまいました。なぜ最初の二人と評価が分かれたのか。それは、主人に対する信頼が原因です。この人は主人を信頼せずに恐れていた。これが評価を分けてしまったのです。

こう考えますと、この譬え話が私たちに教えているのは、主人に対する信頼の大切さです。私たちもこの布の中に一ムナをしまっておいた人と同じように思ってしまうこともあるかもしれません。私には一ムナしか与えられていない。これっぽっちではどうにもならない。しかもあの主人は恐ろしい。そんなふうに思って生きてしまっていることが、私たちにもあるかもしれません。

しかしこの主人はこのように言ってくれるのです。一七節のところですが、「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だった」(一七節)と言ってくれるのです。一ムナで十ムナをもうけることは、大きなことであるかもしれません。しかしこの主人は、まず何よりも小さなことに忠実であったことを褒める。ここに、私たちの生きる道が示されていると思います。

先週の木曜日、いつものようにオリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを学ぶことができる会です。先週もいろいろな話が出て、とても楽しかったのですが、ある方がこんな話をされた。世界の貧困に関する話ですが、飢えている子どもたちをテレビなどで観ると、いたたまれなくなる。けれども結局、自分には何もできない。テレビの放送が終わったらすぐに忘れてしまうくらいだ。そんな話が出ました。

また別の方は、最近、盛んに報じられているいじめの問題を取りあげられました。いじめの問題も、単に学校だけの問題ではなくて、家庭の問題や社会的な問題も絡んできます。自分もなんとかしたいと思うけれども、大きな問題であるがゆえに、自分ではどうすることもできない。世界の貧困の問題にしても、いじめの問題にしても、問題が大きすぎて、私たちは無力感を味わうかもしれません。しかしこのようなときも、いきなり問題を解決することは私たちにはできませんけれども、私たちは小さなことから始めることができるのです。

先々週、加藤常昭先生をお招きいたしました。私が加藤先生の説教と午後の懇談会で語られたことをパソコンで文章化し、皆さまにも先週の日曜日の礼拝の後、製本作業を手伝っていただきました。その中の文章を改めて皆さまにも読んでいただき、じっくりと考えていただきたいと思いますが、午後の懇談会で加藤先生がいじめの問題を取り上げて、お話をしてくださいました。

いじめの問題が報じられているけれども、これは教会に対する問いだと加藤先生は言われた。いじめを受けて、自殺までしてしまう子がいる。その子が教会に来られればよかったのに。どうしてその子が、教会に来ることができなかったのか。教会に問題はないのか。教会の問題として考えて欲しいと言われていました。

これは私たちの教会の問題でもあると思います。幸い、私たちの教会にはたくさんの子どもたちが与えられています。先日行われた教会で遊ぼう!夏、にもたくさんの子どもたちが集められました。しかも半数くらいは初めての子どもたちでした。私たちに与えられている子どもたちから、小さなことかもしれませんけれども、何かできることがあると思います。この社会全体のいじめの問題を解決することはできないにしても、教会にすでに来ている子どもたち、教会に初めて来た子どもたちの隣人なる、慰め手になることはできると思います。私たちにも小さなことはできるのです。
私たちの手元には一ムナがあります。五タラントンくらいあれば、大きな問題も解決できてよかったのにと思う必要はありません。一ムナでもよい。神が私たちに託してくださったものがある。神を信頼し、神が託してくださった一ムナを信頼し、小さなことから始めることができるのです。

私たちの信仰生活も、このようにあるべきだと思います。大きなことをなす必要はない。小さなところから始めればよいのです。十ムナもうけた人も、いきなり十ムナを手に入れたのではないでしょう。こつこつと一ムナずつをもうけていったのだと思います。あるときは失敗して、手元のムナを減らしてしまったこともあったかもしれません。五ムナの人も同じだと思います。この譬え話に出てくる僕は三人だけですが、十人の人に一ムナずつを渡したのですから、

他にもいろいろな人がいて、いろいろな結果があったでしょう。ある人は商売に失敗して、一ムナをすっかりと無くしてしまった人もいたかもしれません。別の人はもうけるどころではない、借金を作ってしまった人もいたかもしれません。しかし主人を本当に信頼して、結果的にそうなってしまったのならば、この主人は咎めることはしなかったと思います。一ムナを布にくるんでしまっておいた人は、主人を信頼していなかったゆえに、裁かれてしまったのです。

この譬え話に出てくる主人は主イエスのことです。主人は僕たちを裁きます。しかし主イエスは数日後にはエルサレムで十字架にお架かりになられました。十字架は何よりも裁きです。主人自身が裁かれたのです。神の独り子が十字架で裁かれたのです。この裁きは人類全体の裁きです。一ムナを布にくるんでいた人は主人に裁かれました。その他にもたくさんの裁かれるべき人がいます。私たちもそうであります。いや、人類全体が本来ならば裁かれなければなりませんでした。しかし人類全体の裁きが、十字架でなされたのであります。

聖書には、裁きの言葉が多くあります。この箇所にもずいぶんと厳しい言葉がたくさんあると感じられた方も多いと思います。こういう言葉があると、私たちも裁かれるのではないかと不安になるかもしれません。神は恐ろしい方だ、一ムナを布にくるんでしまっておいた人のように感じてしまうかもしれません。

しかし聖書が私たちに伝えているのは福音です。福音、よき知らせです。たしかに裁きはある。主人が帰って来られる。どのくらいもうけたかを問われる。しかし私たちが裁かれるべきところを、実際に裁かれたのは主イエスであった。主イエスが十字架で裁きを私たちの代わりに受けてくださったのです。もうすでに裁きがなされた。私たちの裁きは終わったのです。これが私たちにとって、何よりのよき知らせです。この十字架の裁きによって、神が私たちを赦してくださるお方だということが分かったのです。神は

私たちを赦しくださるお方です。だから私たちは神を信頼することができるのです。
神は私たちに一ムナを与えてくださいました。一ムナという私たちの誰もが等しく与えられている信仰です。この信仰とは、神が私たちを赦してくださるお方だということ、そのことを信じる信仰です。これが、私たちが手にしている一ムナなのであります。