松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年7月29日(日)
説教題「今日から新しい心で生きよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第19章1節〜10節

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

旧約聖書: 詩編 第51編12〜15節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
レンブラントの母親(Rembrandt's Mother as the Profetess Hannah) / レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)

レンブラントの母親(Rembrandt's Mother as the Profetess Hannah) / レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)
アムステルダム国立美術館 蔵(Rijksmuseum Amsterdam)
(オランダ/アムステルダム)

クリックすると作品のある「rembrandtpainting.net」のページにリンクします。

以前の説教の中でも何度かご紹介したことがありますが、レンブラントというオランダの画家がいます。一七世紀に活躍した画家です。レンブラントは聖書の様々な場面の絵を描いているのですが、今日ご紹介したいのは、レンブラントが自分の母を描いた絵です。

レンブラントは一六〇六年生まれです。八番目の子どもでありました。そして画家として活躍していた頃ですが、一六四〇年に母を亡くしました。レンブラントが三四歳のときです。レンブラントは八番目の子どもでしたから、母は召されたとき、すでに七〇歳近くなっていたかもしれません。

レンブラントの母の実家はパン屋でありました。結婚するまでは、家業を手伝っていたのかもしれません。レンブラントの父は製粉屋でしたから、結婚後はその店を手伝ったと思います。さらに、たくさんの子どもを育てあげました。苦労も多かったと思います。老年になったレンブラントの母は、どのような思いで、日々を過ごしたのでしょうか。

その老年の域に達した自分の母を、レンブラントは筆をとって描きました。母のどういう姿を描いたのかというと、レンブラントは母が聖書を読んでいる姿を描きました。おそらく、母が聖書を読むというのは、日常の光景だったのだと思います。しかもその絵の背景は真っ黒です。暗い中、レンブラントの母と聖書が浮かび上がっている。レンブラントの母は、右手で聖書をなぞるようにして、聖書を読んでいます。その絵を見ていると、じっくりと聖書の言葉一つ一つを味わって読んでいるということが伝わってきます。

この絵の中で、レンブラントの母が、聖書のどの箇所を読んでいるのかは、はっきりしません。絵の中の聖書には、文字も描いてあるのですが、やはりどの箇所なのかは、はっきりしないのです。しかし、レンブラントの友人が、あるときこの同じ絵を描き直してくれました。レンブラントの絵は母が右の方向を向いていましたが、今度のこの絵は正反対の左側を向いています。

そのような違いもあるのですが、なんといっても大きな違いは、レンブラントの母が読んでいる聖書箇所がはっきり記されているということです。ルカによる福音書第一九章、と描かれているのです。しかも、ザアカイの物語の挿絵まである。ザアカイがいちじく桑の木に登り、主イエスがそこから見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と言わんばかりの挿絵です。この絵によれば、レンブラントの母が愛読していたのは、ザアカイ物語であるのです。

レンブラントの老年の母がそうだったように、多くの人がザアカイ物語を愛読してきました。この物語に心を惹かれるものがあったのです。ザアカイの姿に自分自身の姿を重ね合わせることができます。ああ、自分もかつてはザアカイのように、主イエスを知らずに生きていた。しかし主イエスと出会うことによって変えられた。そんなところが、ザアカイの姿と重なり合うのだと思います。

主イエスはこのとき、エルサレムへの道を進んでおられました。エリコはエルサレムの直前の町です。エリコの町の中を通過されようとしていたのです。エリコという町は、聖書にときどき出てきますけれども、地理的にエルサレムに近い場所にあります。エルサレムの町には神殿がありました。神殿は礼拝する人たちが集まる場所でしたから、神殿に勤めている人も多かった。その神殿に勤めている人は、エルサレムに自分の家があるのではなく、エリコから通勤している人が多かったようです。ですから、主イエスももうすでにエルサレムの間近まで迫っている状況にありました。

ザアカイは徴税人です。当時の社会では、徴税人は罪人の最たる者であると言われていました。ザアカイ自身も、明らかに自分は悪いことをしているという意識があったようです。「だれかから何かをだまし取っていたら」(八節)とあります。だまし取るというのは悪い行いです。ザアカイにはその自覚があった。

ザアカイはそのように生きていて、私腹を肥やして金持ちになっていきましたが、そんな自分に満足してはいませんでした。自分に対してまったく不満を持って生きていました。変わりたい。違う自分になりたい。徴税人として税を取り立てるときは強気であったものの、本当はそんな自分に失望していたと思います。

しかし変わりたい、違う自分になりたいと思っても、結局は変わることはできずにいました。徴税人としての不正な仕事が、自分を不自由にしていたかもしれません。人々から嫌われていたために、ますます自分の心をかたくなにしていたかもしれません。ザアカイは孤独でした。

そこへ主イエスが通られるという話を耳にするのです。ザアカイのところにも、主イエスの噂が届いていたと思います。イエスという人は、すごい男らしい。病気は癒し、死者までも復活させる。ついこの間は目の見えなかった盲人の目を開いたらしい。しかも人を分け隔てしない。徴税人と食事まで一緒にしてくれる。ザアカイは興味を持ちました。自分は友だちは一人もいないけれども、もしかしたらこのイエスという男ならば、自分とかかわりを持ってくれるかもしれない。ザアカイはそう思ったのです。

けれども、ザアカイは自分からは積極的に行動に出ることはできませんでした。中途半端な行動しかできません。大の大人が木に登るなどということは、普通の大人の行動ではなく、ある意味で大胆な行動だと思いますが、しかしザアカイの行動は結局中途半端なものでありました。木に登って、会いたい人に会うというのです。会うというよりも、遠くからどんな人か、一目見られればよいと思ったのでしょう。

木に登るというのは、明らかに人と積極的なかかわりを持とうとしているのではないことは確かです。盲人は「わたしを憐れんでください」と叫び続けましたが、その点ザアカイは一言も主イエスに語りかけていない。本当は主イエスとかかわりを持ちたかったのでしょうが、あらゆることが邪魔をしてしまい、ザアカイから主イエスに積極的にアプローチすることができなかったのです。

私たち自身のこととして、このことを考えてみてもよいと思います。私たちが主イエスとかかわりを持ち始めるときは、どうだったでしょうか。あるいは、私たちが教会とかかわりを持ち始めるときは、どうだったでしょうか。もしかしたら、ザアカイのようだったかもしれません。一方ではかかわりを持ちたいと願いながらも、他方ではいつでも身を引くことができるようにしていたかもしれません。片方の足は主イエスや教会とかかわりをもち、他方の足はいつでも逃げられるようにしていた。そんなどっちつかずの中途半端な状態だったかもしれません。

このことに関して、私が思い起こすことがあります。あるとき、青年修養会が行われました。その青年修養会のテーマは、エウティコでありました。エウティコというのは、使徒言行録の中に出てくる人の名前で、青年でありました。このエウティコは、日曜日に礼拝に来ていました。礼拝とは言っても、朝の礼拝ではなく、夜の礼拝です。当時はまだ日曜日は休みの日ではありませんでしたから、日中は働いていたのだと思います。

一日の務めを終えて、エウティコは礼拝にやってきた。疲れていたと思います。このときの説教者は、使徒パウロでありました。パウロの話が長々と続いた。ついつい、エウティコはうとうととしてしまい、そして三階の窓から転落して死んでしまったのです。人々が下りていき、パウロが抱きかかえると、エウティコは息を吹き返しました。そんな話であります。

青年修養会に出席していたある青年が、この話を聴いて、まるでエウティコは自分のようだと言いました。どういうところがエウティコに似ていたのか。それは、自分も教会に片方の足を入れているけれども、もう片方の足は、教会の外に出ているという点です。教会の端っこにいる点が自分とよく似ているというのです。エウティコは三階から転落してしまいました。窓際に、部屋の端っこにいたのです。片方の足は部屋の中に入っていたかもしれませんが、もう一方の足は、窓枠をまたぐようにして、外に出ていたかもしれません。

この点で、エウティコはザアカイと似ているところがあると思います。ザアカイはいちじく桑の木に登りました。この木は大きな木で、枝が比較的、下の方から伸びていて、登りやすい木です。しかも葉っぱがたくさん茂っている。登って身を潜めるのには最適な木だったのです。そのように自分を隠しながら、主イエスにお会いしたい。主イエスに興味はあるけれども、積極的に主イエスの前に出て行くことはできない。ザアカイは、はっきりしない男でありました。今の自分をやめて変わりたい。主イエスとお会いしたい。けれどもそれができないような、なんとも中途半端な男だったのです。

そんなザアカイに、主イエスの方からお声がかかりました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(五節)。ザアカイと主イエスは初対面です。初対面でいきなり泊まりの話です。しかも主イエスは「あなたの家に泊まりたい」と言われていますが、原文ではもっと強いニュアンスです。「あなたの家に泊まらなければならない」とまで言っている。英語の聖書を開くと、mustという言葉、ねばならないという言葉を使っています。

ザアカイはそのように言われましたが、とても喜びました。急いで木から降りて来ました。自分からは、どうぞ私の家に泊まってくださいとか、私の家に来てくださいとか、一切言うことができなかったのです。それがこともあろうに、主イエスご自身が話しかけてくださった。木の中に隠れていたのに、見つけ出してくださった。主イエスの方から、かかわりを持ってくださったのであります。

このようにして、ザアカイは本当の自分のあるべき姿に変っていくことができました。「ザアカイ」という名は、義しき者という意味があります。ルカによる福音書を書いたルカは、ザアカイの物語を書き記してくれました。他の福音書にはない、ルカによる福音書独自の物語です。

しかもザアカイという名前入りで物語を書いてくれました。聖書の中に、いろいろな話が書かれています。話によっては、登場人物の名前が記されている話もありますし、名前が与えられておらず、無名の人の話もあります。今日の聖書箇所の直前の箇所には、盲人の癒しの物語が記されています。ここでは盲人は無名です。名前は与えられていません。ところが、マルコによる福音書を開くと、同じ盲人の癒しの話が記されていますが、マルコでは盲人には名前が付いているのです。バルティマイという名前です。なぜマルコではバルティマイという名前があり、ルカでは無名なのでしょうか。

私が神学生だった頃、説教学演習という授業がありました。この授業では一年間をかけて、説教を作成するプロセスを学びました。課題として与えられていた聖書箇所が、ルカによる福音書の盲人の癒しの箇所だったのです。ある授業のときに、クラスの中でディスカッションをいたしました。なぜマルコではバルティマイで、ルカでは無名なのか、と。あるクラスメートはこのように言いました。バルティマイという名前があると自分の話だとして思えなくなってしまうから、ルカはわざと名前を消したのではないか。ルカには人の名前を無名にする傾向があるのではないか、と。

私はすぐにそれに反論をしました。確かにルカでは盲人は無名になっているかもしれないけれども、すぐそのあとのザアカイの話では、きちんとザアカイという名前が出てきているではないか、と。そうしたら別のクラスメートが言いました。ルカの教会にとって、バルティマイという名前が知られていなかったのではないか。だからルカは無名にしたのではないか、と。

これは私が神学校にいたときに、神学校のクラスの一コマで話し合われたことです。しかし多くの聖書学者もこのことに同意をしています。ルカが教会生活を送っていた教会では、バルティマイの名は知られていなかったけれども、ザアカイの名はよく知られていた。伝説によると、ザアカイはある教会の司教、つまり牧師になったと言われています。

これはあくまでも伝説にすぎませんけれども、ルカの教会の人々はザアカイをよく知っていた。もしかしたら、ザアカイ先生がルカの教会の中にいたかもしれません。先生でなくても、ザアカイ長老であったかもしれない。あのザアカイさんは、主イエスにお会いしたことによって、あんなふうに変わったのだ。ザアカイも、何度も何度も飽きることなく自分の話をした。周りの人たちも飽きることなく、その話を聴き続けたのです。

聖書の中には、実にたくさんの人が、こんなふうに変ったことを報告しています。ザアカイもそうです。主イエスの一番弟子であったペトロもそうでしょう。ペトロは主イエスの弟子でありながらも、主イエスが十字架にお架かりになるとき、主イエスのことを知らない、主イエスとかかわりがないと言ってしまった。しかし復活された主イエスに出会った後、ペトロは劇的に変わったのです。

また、使徒でパウロもそうです。パウロも教会を迫害する者から、主イエスにお会いすることによって、教会の伝道者となりました。劇的な回心です。いずれも主イエスとお会いすることがきっかけとなりました。過去に犯した罪や失敗の出来事を、聖書ははっきりと書いています。しかしそれ以上に、主イエスと出会い、罪赦され、新たな人として生きている姿を書いているのです。

そのような姿が、私たちの姿と重なり合います。聖書に出てくるザアカイやペトロやパウロだけが変わったのではありません。レンブラントの母も、ザアカイに姿を重ね合わせました。私たちも自分たちの姿を重ね合わせることができます。かつては主イエスを知らなった。しかし主イエスにお会いし、神を信じる信仰者となり、新たな人として歩ませていただいている。そんな自分の姿と重なり合うのであります。

私たちの物語にしている一つのキーワードは、「今日」という言葉であります。これは今日の物語です。五節と九節のところに、今日という言葉があります。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(五節)。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(九節)。いずれも、主イエスが「今日」と言ってくださいました。私たちが主イエスと出会う日が今日になります。私たちが主イエスに声を掛けられる日も今日になります。

私たちがわき役であると思っていたその日、ザアカイのように主イエスに出会い、主役の座に引き出されます。もちろん、主イエスご自身が本当の主役であることは言うまでもありません。ザアカイのように、突然、私たちにとっての「今日」が始まる。今日から私たちは新しい人になることができるのです。今までは中途半端だったかもしれません。しかし本当になりたい自分になることができる。主イエスと出会い、罪を赦され、新たな心で生きる人になることができるのであります。