松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年6月10日(日)
説教題「神に顔向けできなくても」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第18章9節〜14節

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

旧約聖書: エズラ記 第9章6b〜15節

二か月か三カ月ほど前に、松本東教会の子どもたちにお祈りを教えることがありました。子どもたちに祈りを教えることは、教会にとって、とても大切だと思います。祈る気持ちなら、私たちの中に自然と生まれてくるかもしれません。しかし誰に対して、どのような言葉で、どのような思いで祈ったらよいのか、初めは分からないと思います。ルカによる福音書の中でも、弟子たちが主イエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」(一一・一)と言いました。そこで主イエスが教えてくださったのが、先ほど私たちも祈りました主の祈りです。

弟子たちは大の大人でしたけれども、子どもたちももちろん祈りを教わることに関しては同じです。二、三か月前に、私が祈りを子どもたちに教えたときに、一冊の本を用いました。とても小さな本です。こどもたちにも分かる言葉で、たくさんのお祈りが載せられている本です。例えば、朝の祈りとか、食前の祈りとか、夜の祈りというように、日常生活に結び付いた祈りが載せられています。また、病気になったときの祈りや、隣人のとりなしの祈りもあります。さらには、試験のための祈りとか、進路の祈りもあります。

今日の話に関連しそうな「くいあらため」の祈りもあります。「イエスさまがよろこばないことをしてしまいました。ごめんなさい。ゆるしてください。…すなおにあやまることができますように。同じことをしそうな時は、イエスさまがストップをかけて、気づかせてください」。そんな祈りがたくさん載せられている本から、子どもたちと一緒にお祈りを学びました。

この本のあとがきのところに、こんな言葉が書かれています。「子どもたちが祈りの扉を開いて、神さまと一緒に過ごす安らぎや楽しさを体験することを心から願って、…祈り集を作成しました。ぜひ声に出して、子どもたちに祈りの言葉を読ませてください。字が読めない子どもたちには、大人の方が読んで聞かせてください。そしていろいろな場面に応じて、祈り集を参考に祈ってみてください。言葉の上手下手など気にしないで、とにかく神さまに信頼して祈ることに、子どもたちがチャレンジするきっかけになれたら、うれしいです」。

このあとがきに書かれている最後の言葉が、特に重要だと思います。祈りの心を教えてくれます。私たちが祈るときに、祈りの言葉だけを整えるのではなく、祈りの心を整える。どのように整えたらよいか。それは、神に信頼して祈ることだと言うのです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所に、主イエスがお語りになった譬え話が記されています。登場人物はファリサイ派の人と徴税人です。両者とも「神様」(一一節、一三節)という言葉で始まる祈りをしています。両者の祈りは後ほど、よく考えてみたいと思いますけれども、ファリサイ派の人の祈りには、どうも問題があったようです。どんな問題だったのか。いろいろな答えが考えられると思いますけれども、要するに、神を信頼していなかったのです。

最初の九節のところは、このように始まっています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて…」(九節)。この聖書の訳は、少し異訳した形になっています。元の言葉のニュアンスを生かして直訳すると、こうなります。「自分自身が義しい者であることに寄り頼む者たち…」。直訳からお分かりになると思いますが、このファリサイ派の人は、神に信頼を寄せていたのではない。そうではなくて、自分自身に寄り頼んでいた、つまり自分を信頼していたのであります。

一一節から一二節にかけて、ファリサイ派の祈りの言葉が記されていますが、「神様」と呼びかけています。しかし神に呼びかけて祈っているように思えますけれども、結局は神を信頼していなかった。一一節に「心の中で」という言葉もありますが、これも直訳いたしますと「自分自身に対して」と訳すことができます。自分で自分に話しかけるように祈っていたのです。ある人は、このファリサイ派は独り言を言っていると評価していますけれども、その通りであります。

ファリサイ派の人は自分に信頼を寄せていたようですけれども、一体どんな自分のどんなところに信頼を寄せていたのでしょうか。そのことは、ファリサイ派の祈りの言葉の中に見られます。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(一一~一二節)。この人は、他の人たちとは違って、ずいぶんと立派な信仰生活をしていたようです。

週に二度の断食をしていると言っています。旧約聖書の中に、週に二度、断食をしなさいという規定はありません。おそらく週に二度というのは、断食をかなり頻繁にしていることになるでしょう。

また、全収入の十分の一を献げているとも言っています。十分の一税のことは旧約聖書に書かれています。ただし、十分の一を献げるように言われているのは、穀物とぶどう酒と油に関してです。このファリサイ派の人は、全収入、つまりすべてのものに関して、十分の一を献げていたのです。私たちの感覚で言えば、お金の収入があればもちろん十分の一を献げる。誰かから貰い物をしたら、その相当額の十分の一を献げる、すべてのものに関してそのようにするというようなものです。徹底的に自分の力で正しいことを行なおうとしたのです。

結局、このファリサイ派の人は、自分で自分を義としようとしたのです。その結果、何が起こってしまったか。神に祈っているようでも、神に祈らないことになってしまいました。神が不要になってしまったのです。神に自分が義かどうかを判断してもらわずに、自分で自分のことを判断する。自分で判断するからには、自分よりも義ではない人が必要です。自分はあのような人でもない、このような人でもない、徴税人でもない。そうなって初めて、だから自分は義なのだと判断することができるのです。自分よりも不義な人を作り出すことによって、自分の義を示すのです。

当然のように、祈りの中にも徴税人のような不義の人たちのことが入ってきます。「この徴税人のような者でないことを感謝します。」(一一節)。このファリサイ派の人の祈りは、ある意味ではとても悲しい祈りになってしまっているのです。

それに対して、徴税人に祈りはどうでしょうか。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(一三節)。徴税人というのは、文字通り、税金を集める仕事をしていた人です。ただし、当時の徴税人たちは、不正な集め方をしていたようです。イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、ローマに税金を納めなければなりません。徴税人たちはユダヤ人たちから税を集めていた。ただし、必要以上の税を集めて、余った分は自分のふところに入れていたようです。みんなもそのことを知っていました。ですから、徴税人たちはとんでもない連中だ。あの人たちは罪人の中で最たる者だと思われていました。いわば、不義の代表者のような人たちなのです。

この不義の代表者が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という、ごく短い祈りをしました。ファリサイ派の人に比べると、祈る姿勢も整っていませんし、祈りの言葉もごく短いものです。しかし祈りの結果は正反対でありました。不義の代表者である徴税人は、祈りを終えて家に帰るときには、義とされていたのです。

なぜでしょうか。なぜファリサイ派の人が義と認められず、徴税人が義と認められたのでしょうか。先ほど、ファリサイ派の人の祈りの問題点をいくつか指摘しました。徴税人の祈りには、その問題点がまるでなさそうです。独り言のように自分自身に祈っているのでもないし、自分で自分を義とすることもしていません。短い祈りの言葉ですが、神に赦しを請い、憐れみを求めています。自分のことを信頼していないことは言うまでもありません。信頼を神に寄せています。そんなところが、神に義と認められたのでしょう。

譬え話としてはそんな話であります。私たちは、ファリサイ派と徴税人の一体どちらでしょうか。この譬え話は実話にしてもそのままありそうな話ですが、譬え話であります。譬え話のよいところは、自分を登場人物に置き換えて考えることができるということです。登場人物の一人だけに限定されません。想像力を膨らませて、あの人にもこの人にも自分を置き換えて、考えることができるのです。私たちは一体どちらか。自分はファリサイ派のタイプだ、あるいは徴税人のタイプだ、皆さまはそのように決めることができるでしょうか。しかし分類することはなかなか難しいと思います。実際に、きれいに分類することは不可能でしょう。

ファリサイ派と徴税人の祈りは、まるで正反対の祈りのように思えますが、実際のところは紙一重のところがあると思います。ファリサイ派は徴税人のことを見下しました。あの人は駄目だと見下していたのです。ところが、この譬え話によれば、却って駄目だったのはファリサイ派だということになる。そのことが分かると、私たちは徴税人の立場に立って、自分を罪人だと認めて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ると思います。その時に、ファリサイ派の人がどうも目について、余計なことを祈りに付け加えてしまうのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。わたしはあのファリサイ派のような者でもないことを感謝します」。

教会に来ると、罪が何であるかが分かってきます。そして教会に来続けていると、自分は罪人だということを自覚させられます。それはそれで結構なことなのですけれども、罪が何であるかが分かってきてしまうと、自分の罪ばかりでなく、他人の罪も却って目につくようになってしまいます。私は罪人だとよく分かっている。自覚もしている。

けれどもあの人はどうも傲慢で、罪人としての自覚が足りない。今日の譬え話で言えば、私は徴税人だということがよく分かっているけれども、あの人は未だにファリサイ派的な根性がある。あの人も自分の罪を知るべきだと思ってしまう。そうすると、「わたしはこのファリサイ派のような者でもないことを感謝します」という祈りを付け加えてしまうのです。

私たちは結局、自分はファリサイ派の人であるとか、徴税人であるとか、明確に分類できないと思います。私たちはファリサイ派の人と徴税人の両方の顔を持っています。あるときは傲慢にもファリサイ派の人のように、自分の正しさを独り言のように主張してしまう。それに気が付いて、今度は徴税人になる。「罪人のわたしを憐れんでください」と祈る。けれども、ファリサイ派のような人を見ると、「あの人のような者でもないことを感謝します」というような祈りをしてしまうのです。私たちはファリサイ派の人と徴税人との間を、行ったり来たりしているのです。

あっちへ行ったり、こっちへ来たりしているおぼつかない私たちであります。そんな私たちのために、主イエスは本当の祈りを教えてくださった。私たちも祈りを初めて習う子どものようにならなければなりません。子どもの祈りの本のあとがきにもありましたように、神に信頼することを覚えなければなりません。

「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(一三節)というのは、本当に短い祈りです。聖書の中にも、たくさんの祈りが記されていますが、最も短い祈りの一つではないかと思われます。この最も短い祈りは、礼拝の中で整えられて、実際に用いられました。「キリエ・エレイソン」という言葉を、聞いたことのある方もおられると思います。これはギリシア語の言葉を、ラテン語読みにしたものです。「キリエ」というのは「主よ」という呼びかけです。「エレイソン」は「憐れんでください」ということです。つまり「主よ、憐れみたまえ」という祈りです。

教会によっては、今でも礼拝の、たいていは最初のところですが、みんなで「キリエ・エレイソン」と声を合わせて唱えます。何回も繰り返して唱えます。これから礼拝を行うにあたって、罪人の私たちを「主よ、憐れみたまえ」と唱えて、礼拝を始めるのです。徴税人と同じ祈りです。ただ神のみに信頼して、そう祈るのです。

聖書の中に、たくさんの祈りが記されていると先ほど申し上げましたが、本日私たちに与えられた旧約聖書の箇所もそうです。比較的長い祈りの言葉です。エズラ記というのは、あまりなじみがないかもしれません。しかしエズラ記と、続くネヘミヤ記は旧約聖書の中でも重要な書です。イスラエルの人たちは、あるときバビロニアという国に滅ぼされて、主だった人たちがバビロニアの国に捕囚民として連れて行かれました。数十年後に、再び国に戻ってくることができましたが、そのときに国が滅んでしまったわけですから、いろいろなことを再建しなければなりません。その再建の中心となったのが、神殿と城壁の修復です。エズラ記、ネヘミヤ記はそのときの様子が記されているのです。

イスラエルの人たちは、自分たちの国がなぜ滅んでしまったのか。なぜ捕囚民にならなければいけなかったのか。なぜこの悲劇が起こったのかを考えざるを得ない状況に置かれていました。そのことが、この祈りの言葉にも表れていると思います。祈りの最初のところですが、「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達しています。」(エズラ九・六)と祈り始めています。徴税人と同じように、自分たちの罪を悔い改めなければならないと思っていたのです。

さらに祈りの最後のところでは「イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」(エズラ九・一五)と祈っています。これも、ただ憐れみを求めた徴税人と同じです。

エズラ記の祈りは、比較的長い祈りになっていますが、結局のところは徴税人と同じ祈りをしているのです。自分たちは罪を犯してこんなことになってしまったけれども、今、戻ってくることができた。これから神殿や城壁を修復する。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈っているのです。

徴税人は、神が憐れんでくださることを信じて、神を信頼して祈りました。しかし徴税人は自他とも認める不義の者です。義からはほど遠い人です。なぜこの祈りだけで、徴税人は不義から義へとされたのでしょうか。一三節に祈りの言葉がありますが、続く一四節でいきなり徴税人は義とされています。一三節と一四節の間に、大きな飛躍があります。なぜ罪人の最たる者が赦されて、義とされるのでしょうか。どんな原理が働いたのでしょうか。

このことを考えるために、この譬え話をお語りになられた主イエス・キリストの存在を忘れるわけにはいきません。しばしば、主イエスが譬え話をお語りになられますが、その譬え話の中に、主イエスが登場して来られないのではないかと思わされることがあります。今日の譬え話もそうです。ファリサイ派の人と徴税人しか出て来ない。その二人が父なる神に祈る。それでは主イエスはこの譬え話のどこにおられるのか。出て来ないではないかと思わされます。

けれども、徴税人がまったくの不義から義とされた、このような飛躍を成り立たせるためには、主イエスがおられなければ成り立ちません。主イエスはこの譬え話をお語りになったときには、もうすでにエルサレムに近づいておられました。まもなく主イエスはエルサレムで十字架にお架かりになろうとしていたのです。この後すぐに、三度目の十字架での死と復活の予告までされます。主イエスは私たちの不義を引き受けてくださり、私たちが罪赦されて義とされるために、十字架にお架かりになられたのです。

新約聖書が私たちに伝えるメッセージも、そのことに集中しています。義という言葉を、ほんの一部ですが探してみると、こんな言葉があります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ三・二四)。「キリストの血によって義とされた」(ローマ五・九)。私たちが義とされるのは、実際に飛躍があったからではなく、キリストが十字架にお架かりになってくださったからなのです。そのことによって、私たちは神の恵みによって義とされたのです。徴税人が義とされて家に帰ることができたのも、キリストの十字架があったからです。同じように、私たちの祈りを聞いて、義としてくださるのも、キリストの十字架のゆえなのです。主イエスの十字架がなければ、私たちの義も成り立ちませんし、この譬え話すら、成り立たないのであります。

祈りにおいて、私たちに唯一必要なのは、へりくだることです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくださる者は高められる。」(一四節)。主イエスがへりくださる私たちを高めてくださいます。ファリサイ派の人のように、自分で自分を高める必要がない。神が義としてくださいます。そのことを信じ、私たちはただ信頼して、祈ることができるのであります。