松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20120715

2012年7月15日(日)
説教題「あなたを導かれる方を見る」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第18章35節〜43節

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言ったそこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

旧約聖書: イザヤ書 第30章18〜20節

神を信じて生きる者にとって、「待つ」ということは大切なことであります。信仰は待つことを求めます。神を信じて生きていれば、待たなくて済むというわけではありません。神を信じれば、自分が欲するものが与えられるわけではありません。話はむしろ逆です。私たちは忍耐して待たなければならない場合が多いのです。

なぜ私たちは待たなければならないのか。それは、私たちが神と向き合っているからです。もし私たちが神と向き合わず、神に背中を向けて、自分でなんとかしようとするならば、私たちは待つ必要はありません。神が何かをしてくださるのを待つまでもなく、私たちが自分から行動を起こせばよいからです。そして自分の力で何とかすればよいからです。しかし私たちはうまくそれができません。だからこそ、神が動いてくださることを待つのです。神を求めることは、神が動いてくださるのを待つことなのであります。

洗礼を受けてキリスト者になった方は、洗礼を受ける前のときのことを思い起こしていただきたいと思いますが、私たちは最初から神に何の疑いもかけずに信じたわけではないでしょう。何らかの葛藤があったと思います。何らかの躓きもあったと思います。教会で聴く話は、イエス・キリストが救い主であって、私たちの罪をすべて担ってくださり、十字架にお架かりになって死んでくださったということです。果たして本当だろうか。私の救い主なのだろうかとよくよく考えてみたことであろうと思います。

そのようなときに、ただ頭の中で考えただけではうまくいきません。論理的に考えたとしても、結局のところは、神を信じるか信じないかの二者択一を迫られるからです。そのような迷いの中で、神を信じるためにはどうすればよいか。皆さまもそのようなときに、祈り始めた方も多いと思います。あるいは信仰の先輩から祈ることを勧められた方もあると思います。「神よ、どうか私に信じる心を与えてください」と祈るのです。そして祈りつつ、信仰が与えられることを待つのです。信仰を得るところにおいても、待つということは大切なことです。

そのようにして洗礼を受けることができた。しかし待つことは卒業にはなりません。洗礼を受けた後も、やはり待つことは続きます。洗礼を受けてキリスト者になった後も、やはり様々な苦難があります。自分の力で何とかしようとするかもしれません。しかしやはりうまくいかない場合も多い。そのようなところで、神を信じつつ、神が何とかしてくださるのを待つのです。神が動いてくださるのを待つのです。私たち信仰者にとって、「待つ」ということは、極めて大切なことなのであります。

これに反するようにして、現代社会はますます待てない社会になってしまっていると思います。先週、あるテレビの番組で取り上げられていたのが、現代社会における「ストレス爆発をどう防ぐか」というものでありました。このテレビ番組は、現代の社会における様々な問題を取り上げているものですが、このテーマが取り上げられたのは、ある事件があったからです。東京のある駅で、人が刺されてしまった。人が刺されたからには、どんな大きな原因があったのかと思いきや、きっかけとなったのは、肩がぶつかったからです。それが引き金となって、たまりたまったストレスが一気に爆発して、そのような事件になってしまいました。

このテレビの番組が言うまでもなく、私たちの社会はストレスを抱えてしまった社会になっています。些細なことでも許容されず、すぐに結果が求められる社会になっています。なぜこのような息苦しい社会になってしまったのか。そのテレビ番組に出ていた有識者も、様々な考えられる原因を語っていました。人とのつながりが薄れてしまったとか、孤独から怒りをためやすくなったとか、いろいろなことが挙げられていましたが、私は要するに、待つことができなくなったからだと思っています。

現代社会では、物でもサービスでも情報でも、何でもすぐに手に入る時代です。利用者もスピーディーに手に入ることを求めています。また、会社で働いていても、すぐに結果が求められます。「即戦力」という言葉がそれを表していると思いますが、企業はじっくりと人を育てるということをあまり考えなくなりました。社会のスピードが上がってきている。それに応えなければならない。待つことが許されない。実際に待つはめになってしまったら、非常に損をした気分になってしまう。ストレス社会の一つの原因ではないかと私は思います。

しかし、私たちの信仰は、現代社会のようにはいきません。いくら社会がスピーディーになったからといって、信仰を持つのもスピーディーになるわけではない。むしろ、昔から人間は忍耐して待たなければなりませんでした。神が生きておられるゆえに、私たちは忍耐して、神が働いてくださることを待つ以外にない。教会というところは、時代に逆行して、あるいはたとえ時代が移り変わったとしても、いつでも神を待つことができる場なのであります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、一人の盲人が出てきます。この人は信仰者です。「あなたの信仰があなたを救った」(四二節)と主イエスに言わせたほどの信仰者です。どんなにか立派な信仰の持ち主だったのかと私たちは思います。しかしこの盲人もまた、神を待ち続けた人なのであります。救いが自分のところにやってくるのを、救い主が自分のところにやって来られるのを、待ち続けた人なのであります。

この人は盲人であり、「物乞い」(三五節)でありました。当時の社会では、目が見えないゆえに、働くことができなかったのだと思います。この人がどこで物乞いをしていたのかというと、「道端」(三五節)であります。人通りが多いところの方が好都合だったのでしょう。彼は物乞いとして物をもらっていたばかりでなく、たくさんの情報も得ていたと思います。目が見えなかった分、聴く能力は長けていたのかもしれません。

彼が耳にした情報の中で、最も興味を惹かれたのは「ナザレのイエス」に関する情報でした。ナザレという街の出身でいるイエスという男の評判です。彼の耳に入ってきた情報によると、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(七・二一)というものでありました。優れた教えを語るだけでなく、病を癒すことが出来る。死者まで生き返らせている。もしかしたら、自分の目を開けてくれることでお出来になるかもしれないと考えていたでしょう。

けれども私がとても不思議だと思うのは、彼が「ナザレのイエス」に関してはたくさんの情報を耳にしていたでしょうけれども、彼の近くに主イエスが通りかかったときに、「ナザレのイエス」と彼が叫んだのではなく、「ダビデの子イエス」(三八節)と彼が叫んだことであります。なぜ彼は「ナザレのイエス」を「ダビデの子イエス」と言い換えたのでしょうか。

ダビデというのは、実際の人は旧約聖書に出てきますが、イスラエルの王様の名です。優れた王様でありました。イスラエルの国も絶頂期を迎えていたときの王です。新約聖書の中にも、そしてルカによる福音書の中にも、ダビデの名前は何度か出てきます。

第一章と第二章の中に、何度か出てきます。主イエスがお生まれになる、クリスマスのときの話です。野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに、天使たちが現れます。そして羊飼いたちに告げます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(二・一一)。

第三章には、主イエスの系図があります。たくさんの人物の名前が記されています。主イエスから始まって、父親のヨセフの名前、その後、祖父、曾祖父とどんどんとたどっていくと、あるところでダビデが出てきます。さらにさかのぼると、人類最初の人であるアダム、「そして神に至る」(三・三八)と書かれて系図が閉じられています。主イエスの系図をたどっていくと、ダビデに行き着くのです。

第六章のところで、主イエスがダビデのことを口にされていますが、それ以降、ダビデという名前はまったく出て来ていません。本日の聖書箇所で、ひさびさにダビデの名前が出てきたわけです。盲人が「ナザレのイエス」を「ダビデの子イエス」に置き換えてくれたから、出てきたのです。

「ダビデの子イエス」というのは、一体どういう意味が込められているのでしょうか。私たちの理解の助けになると思われるのは、少し先取りするようですが、同じルカによる福音書第二〇章四一~四四節の箇所です。この箇所はダビデの子についての問答です。問答と言っても、主イエスが一方的に話しておられるのですが、四四節にこうあります。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(二〇・四四)。

主イエスがこのとき発しておられる問いから推測できるのは、「ダビデの子」、つまりダビデの子孫から救い主がやってくるというのが、この当時の人々の共通認識だったことです。「ダビデの子」が自分たちを救ってくれる救い主であるということです。

盲人は、驚くべきことかもしれませんが、そのことを悟っていたのです。人々は「ナザレのイエス」でした。ところが盲人は、どういうわけか分かりませんが、あのお方は「ナザレのイエス」ではない。「ダビデの子イエス」である。私たちが求めてきた救い主なのだということを、見抜いていたのであります。

なぜ盲人だけが、主イエスの本当のお姿を見抜くことができたのか。ルカによる福音書の記述を丁寧に追うならば、少なくともこの箇所までに、主イエスのことをこれほどまでに見抜いていた人はいないでしょう。なぜ分かったのか。彼は「ナザレのイエス」の話を人々から聴き続けました。そしてよく考えたのでしょう。「ナザレのイエスとは誰か」、そのことを真剣に問うたのであります。その意味で、この盲人は信仰を求める求道者でありました。

そしてあるとき、盲人の目が開かれた。「ナザレのイエスとは誰か」、その答えが分かったのであります。いや、分からせていただいたのであります。このお方は「ダビデの子イエス」である、と。聖書は、なぜ盲人が分かったのか、その説明は一切ありません。私たち自身を振り返っても同じだと思います。「なぜあなたはイエスという男を信じたのか」「なぜイエスが救い主であると信じたのか」、そう問われたとしても、ただこう答える以外にありません。「私はただそのことを信じたからです。その信仰が与えられたからです」。

盲人もその信仰が与えられたのです。しかしそうは言っても、盲人はやはり何もできませんでした。毎日の物乞いの生活が続いたのだと思います。「ダビデの子イエス」にお会いすることを望みつつ、ただひたすらその日を待ち続けたのであります。

そしてある日、盲人にとって人生最良に日がやってきました。自分から出向いたのではなく、事もあろうか、「ナザレのイエス」が向こうから出向いてきてくださったのであります。盲人は、いつも通りに道端に座っていましたが、いつもとは違う雰囲気を感じ取りました。そして道行く人に尋ねるのです。「これは、いったい何事ですか」(三六節)。そして「ナザレのイエスのお通りだ」(三七節)と聞くやいなや、自分に与えられた信仰を叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」(三八節)。

この叫びは、よほど大きな叫びだったのでしょう。盲人はたった一回叫んだだけなのに、人々は叱りつけて黙らせようとします。普段の状況ならば、彼はすぐに言うことを聞いて黙ったと思います。この人は物乞いです。人からの憐れみにすがって生きていました。人々に嫌われようものなら、大変なことになります。しかし彼はめげません。その後は何度も、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(三九節)と叫び続けるのです。

この叫びは、盲人が知っているたった一つのことでありました。盲人に与えられた一筋の信仰です。他のことはあまりよく知らなかったかもしれません。しかし主イエスは、このわずかな信仰をご覧になり、盲人の信仰を認めてくださいました。「あなたの信仰があなたを救った」(四二節)と言ってくださり、救いの宣言をしてくださったのです。

盲人は見えるようになりました。盲人は主イエスのところに連れて来られ、短い対話をした後に癒されたのですから、目が開かれた直後、視界に飛び込んできたのは、主イエスのお姿だったでしょう。お会いしたいと待ち望んでいた「ダビデの子イエス」のお姿を、実際の目で見ることができるようになったのです。

しかしそのわずか数日の後、盲人だった人にとって、思いもよらぬことを見なければならなくなりました。盲人だった人は、「神をほめたたえながら、イエスに従った。」(四三節)とあります。目を開いていただき、主イエスの後に従って歩むことができるようになったわけです。一体、この盲人だった人は、どこまで従ったのでしょうか。エルサレムでの十字架の出来事は、おそらく、盲人と出会った日から一週間ほどで起こりました。盲人がそのときまで主イエスに従って歩んでいたことは十分に考えられます。彼は思いもよらぬことを見なければならなくなったのです。

この出来事は、盲人だった人にとって、皮肉な結果になったかもしれません。目が見えるようになったために、救い主である「ダビデの子イエス」が十字架にお架かりなって殺されてしまうお姿を見なければならなかった。そんなことは予想さえしていなかったと思います。

しかし、これは彼にとって、なくてはならぬ体験となりました。この人の目は、私たち信仰者を代表しての目であります。救いを見るというのは、救い主の十字架のお姿を見ることだからです。教会は十字架を掲げます。十字架はただのシンボルではありません。「ダビデの子イエス」の命が献げられたことを表す、何よりのしるしです。ここに私たちの救いがある。

盲人だった人は、目が開かれて、私たちの代表者として主イエスの十字架を見たのです。神の独り子、ダビデの子、世界の救い主、そして私たちの救い主であるお方の命が十字架の上で献げられた。それほどまでに神が私たちを愛して、救いの中に入れようとしてくださっている。目が開かれて、主イエスの十字架を仰ぎ見るとき、私たちは神の愛の中に生かされていることを知るのであります。