松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年7月8日(日)
説教題「救いが分かる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第18章31節〜34節

イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

旧約聖書: 詩編 第22編2〜22節

教会員の方には本日、七月の長老会報告をお配りしました。長老会で話し合われたこと、決められたことが記されていますが、先週の長老会で一番長く時間を取って話し合い、決めましたことは、教会堂の音響設備の整備に関することです。

この教会の音響の設備がいつ頃、導入されたのか、はっきりとは分かりませんが、今から二六年前の写真を見ると、ここにあるのと同じマイクが写っています。少なくとも二六年以上は経っていることになります。最近では少し雑音が入ることもありました。後方のスピーカーが途切れることもありました。ワイヤレスマイクがなかったり、二階の和室の音量調整が出来なかったり、二階の奥の部屋で礼拝堂の音を聴けなかったり、いろいろと不都合や不便があったと思います。

すでに今年度の長期計画会計として、音響整備のための予算を取っていました。今年度の初め頃から検討を重ねてきました。皆様にもアンケートを取りました。そして先月の長老会で、どのような工事を依頼するのか、見当を重ね、業者に見積もりを取りました。その結果が、先月の下旬に出たわけですが、長老会として想定していたよりも、見積金額が高い結果でありました。

先週の長老会で、見積結果を検討したわけです。工事の一部をカットしたりする案も考えましたし、いろいろと議論はしましたけれども、結果的にこちらからお願いしていた工事をすべて行っていただくことにしました。今年と来年と二度にわたって工事をわけて行うよりも、一度にやってしまった方がよいなどの意見が出されましたけれども、やはり決定的な意見は、教会として御言葉を聴くことを大切にしようという意見でした。金銭的なことよりも、神の言葉を聴く環境を整えたい、そのために音響整備をしたい。それが長老会の願いであり、教会の願いであり、私個人の願いでもあります。先週の長老会において、このような教会的な決定をすることができ、感謝をしております。

長老会でも大切にしたこと、説教を聴くということですが、これはプロテスタント教会がその初めから、大切にしてきたことであります。先週の説教の中でも引用しましたし、今日の午後のノアの会におきましてもご紹介する本ですが、加藤常昭先生が『慰めのコイノーニア』という本を出版されました。コイノーニアというのは交わりという意味です。教会が慰めの交わりであるという意味の本です。七月二二日に加藤常昭先生をお招きしますが、特に今回はこのことを教会として学びたいと願っています。

この本のあとがきのところに、加藤先生がこのようなことを書かれました。「説教と魂への配慮のふたつがキリストの教会の働きの急所」である。教会の大切な働きは二つあって、説教と魂への配慮であるというわけです。『慰めのコイノーニア』の本が語っているのは、後者の魂への配慮です。「慰め」という言葉が掲げられていますが、要するに、まことの慰めへと導くことによって、魂への配慮をするわけです。

その魂への配慮と並んで、いやそれ以上にと言ってもよいかもしれませんが、教会が大切にしてきたのは、説教であります。神の言葉を聴くことです。説教は救いの言葉です。救いそのものを語っています。救われるのか、救われないのか、どちらか分からないような、あやふやな言葉ではありません。救いの祝福を告げる言葉です。教会にはその言葉を告げる責任があります。届ける責任があります。音響整備を整えるのも、そのことに直結していると思っています。

説教は救いの言葉であるわけですから、説教を聴けば、救いが分かるわけです。本日の説教の説教題を「救いが分かる」といたしました。救いというのは教会でよく聴く言葉です。初めて教会に来られる方も、いろいろな理由はあるでしょうけれども、救いを求めて来られる方もあります。教会には救いがある。救いを聴くことができる。救いを体験することができる。それでは、救いとは一体どのようなことでしょうか。

先々週になりますが、私たちに与えられた聖書の箇所は、今日の箇所の直前のところになります。金持ちの議員が出てきました。この人が主イエスのところにやってきて尋ねたのは「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(一八・一八)ということでありました。それに対して主イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(一八・二二)と言われました。金持ちの議員はその通りにすることができませんでした。

そこで主イエスが問題にされたのが、神の国の入り方です。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(一八・二五)。それを聞いた人々は「それでは、だれが救われるのだろうか」(一八・二六)と口にします。神の国に入るということを、救われるということに置き換えているわけです。つまり、救いとは神の国に入ることであります。

主イエスはこの直後に、「人間にはできないことも、神にはできる」(一八・二七)と言われました。主イエスのこのお言葉が、先々週の説教での鍵となる言葉でした。今日の聖書箇所はその続きで、主イエスがご自分の死と復活の予告をされている箇所です。もう三度目の予告になります。明らかに主イエスの十字架の出来事が言われています。「神にはできる」と言われたことを、どのように神がなしてくださるのか、主イエスはそのことを言われているのです。「今、わたしはエルサレムへ上って行く」(三一節)という言葉で始まっています。「わたし」という言葉を主イエスは「人の子」という言葉で置き換えていますが、主イエスご自身のことを指す言葉です。

ここで主イエスはご自分の救い主としてのお姿を示しています。救い主として自己紹介をしてくださっています。ところが弟子たちはそのことが分からなかった。「何も分からなかった」(三四節)と記されています。もちろん、言葉としては分かったと思いますが、それでも「何も分からなかった」のです。なぜかというと、これが救いのことだとは分からなかったからです。弟子たちはこのとき、救いのことが「何も分からなかった」のです。

ある聖書学者は、主イエスがご自分の死と復活を予告されている三二~三三節のお言葉は、使徒信条をなぞったものであると言っています。使徒信条は先ほど、私たちも告白した信仰の言葉です。これは日本だけではなくて、世界の多くの場所で共通の信仰の言葉です。私たちの信じている神はどのような神なのかを端的に言い表した言葉です。神がどのような神なのかということは、言い換えると、神は私たちを救ってくださるのですから、神がどのように私たちを救ってくださるのかということを、使徒信条は言い表しています。いわば、救いの道筋をつけてくれるのが使徒信条です。

私たちの救いの道をたどっていくと、どうしても主イエスの十字架と復活をたどらなければならない。今日の聖書箇所で言うと、三二~三三節はどうしても必要になる。救いを求めて教会に来られた方が、必ず聞くことになるのが、主イエスの十字架と復活です。なぜ主イエスの十字架と復活が救いの道筋なのでしょうか。

今日の箇所の三一節のところで、「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」(三一節)とあります。預言者というのは、旧約聖書にたくさん出てきます。神から言葉を預かって、それを人々に伝えた人です。旧約聖書に預言者が書いた書がいくつか残されていますが、主イエスが言われたのはそのことです。ただし、具体的にどの旧約聖書の箇所なのか、主イエスははっきりと示してくださっていません。しかし推測することはできます。おそらく、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の詩編第二二編もそうだと思います。

詩編はメロディをつけて歌われることもありましたし、根本的には祈りです。たくさんの祈りが収められています。祈りと言っても、いろいろな祈りがあります。神に感謝をしていたり、讃美していたり、あることを願っていたり、内容はいろいろですけれども、第二二編は嘆きの祈りです。この詩編を祈った人は、どうしようもない苦難の中に置かれていたようです。その嘆きを神に訴えざるを得なかった人です。激しい言葉がたくさん見られます。

そのような詩編第二二編ですが、この詩編はとても有名な詩編です。なぜ有名なのか。それは、主イエスの十字架と結びついた詩編だからであります。例えば、最初の二節のところ、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」(二節)とあります。これは主イエスが十字架上で叫ばれた言葉と同じです。

また、八~九節にかけて、「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』」(八~九節)とあります。十字架上の主イエスを人々はあざけりましたし、「自分のことを救い主だと言っていたのだから、自分で自分を救ってみろ」とも言われました。八~九節にかけてのことも、実際に十字架のときに起こったことなのです。

さらに、一九節のところ、「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」(一九節)とあります。主イエスは十字架上で、着ていた服をはぎ取られ、何もかも奪われて、息を引き取られました。その服を人々はくじで取り合ったのです。一九節の言葉も、主イエスの十字架のときに行われたのです。

言うまでもないことですが、この詩編第二二編は主イエスが十字架にお架かりになられるよりもずっと前に書かれたものです。ある旧約聖書の学者が指摘していることですが、これは一人の人の嘆きではありません。イスラエルの歴史の中で育まれ、多くの人が自分の祈りとして、この詩編の祈りに自分を重ね合わせてきたのです。一人の嘆きではなく、全人類の嘆きがここに込められていると言ってもよいと思います。

この嘆きは今日までも続いてきました。私たちキリスト者も、自分の嘆きをここに重ね合わせることができます。今日の午後、ノアの会を行います。老若男女、誰でも参加できる会です。毎回、いろいろなテーマを決めていますが、今月は加藤常昭先生が二二日に来られますから、そのための事前の学びをします。先ほどもご紹介しましたが、『慰めのコイノーニア』から学びます。

その『慰めのコイノーニア』の中で、別の本が引用されている箇所があります。別の本というのは『魂への配慮の歴史』というシリーズ本です。時代ごとに、それぞれの館に分かれていますが、第一巻は聖書の中に見られる魂への配慮の歴史です。具体的には旧約聖書のヨブ記や、新約聖書のパウロなどが取り上げられていますが、詩編もその中の一つです。

この第一巻で、詩編に関して文章を書いたのは、インゴ・バルターマンというドイツ人であります。ドイツでは、今はどうであるかは分かりませんが、少なくとも第二次世界大戦後に、学校で聖書の授業が行われていました。バルターマンは、その聖書の授業の先生を養成する教師でありました。当然、教師を養成するだけでなく、子どもたちを直接教えた経験もあったのでしょう。聖書の詩編を用いて、子どもの魂への配慮のための授業を行ったのです。

バルターマンは一体どのようなやり方で授業を行ったのか。バルターマンは、詩編の言葉を解説した上で、生徒たちの現実に合うように、聖書の言葉を適用させたのではありません。上から教えるような形ではなく、詩編の言葉そのものを、子どもたちの自分の言葉として読むように、生徒たちと一緒に歩んだのです。

例えば、一三~一五節にこのような言葉があります。「雄牛が群がってわたしを囲み、バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。」(一三~一五節)。たしかに「バシャン」というのは解説が必要かもしれません。バシャンは地名であり、ある川の近くの肥沃な平野のことです。そこの牛は「猛牛」だったのでしょう。けれどもそんなことなど分からなくとも、猛牛に囲まれ、迫ってくる恐怖や、牙をむいて襲い掛かってくる者の怖さは分かるでしょう。「水となって注ぎ出され」というのも、泳ぐことを習い始めた子どもたちにとっては、水に流される怖さを知っています。

実際にバルターマンが教えた子どもたちもそうだったようです。ある詩編の言葉を子どもたちと一緒に味わったら、子どもたちが一斉に不安を語り出したのだそうです。子どもたちは詩編の言葉をなぞるようにして、自分をそのままさらけ出した。不安の言葉を、嘆きの言葉を口にした。そうでもなければ、子どもたちは不安の言葉をひと言も語ることができなかったかもしれません。詩編の言葉は子どもたちの心にあることに、言葉を与えてくれたのです。

ドイツの子どもたちがそうであったように、詩編の言葉は、昔の人の嘆きではありません。たった一人の人の嘆きの言葉でもありません。イスラエルの歴史の中で、何人もの人が詩編の祈りに自分を重ね合わせてきたように、今日の私たちもそうなのであります。すべての人間の嘆きが、この詩編に詰まっているのであります。

その詩編第二二編が、主イエスの十字架と結び合わされました。他ならぬ神の独り子である主イエスが、私たちと同じように、ご自分の詩編としてくださいました。ご自分の嘆きの言葉を重ね合わせてくださいました。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」(二節)。

改革者のマルティン・ルターが、ある説教の中でこの二節のことを、このように言っています。「この節についてこれまで既に多くの論争がなされてきましたが、それが何を意味するのでしょうか。私どもはどんなふうにしても、やはり、理解することはできません。私どもの救い主であるべき方が、自分は棄てられたと叫んでおられるのであります」。

つまり、十字架で神に見捨てられた主イエスの嘆きがいかほどのものだったのか、どれほど深い嘆きであったのか、人間には本当のところは理解できないのだとルターは言っています。人間が極めるほどができないほどの深みにまで、主イエスは降ってくださった。全人類の嘆きを、いや、全人類の嘆きをさらに超える嘆きを、主イエスが引き受けてくださったのであります。それが、主イエスの十字架で起こったことなのであります。

ルカによる福音書に戻りますが、このとき主イエスはエルサレムに向かっておられる旅の途上です。もう間もなくエルサレムです。ご自分の死の予告をされるのは、これで三度目です。ますます十字架が色濃くなってきています。主イエスはこの道を進んでくださいます。私たちが本来ならば嘆かなければならなかった最も深い嘆きを、私たちの代わりに引き受けてくださいます。私たちをそこから引き上げてくださいます。主イエスはこういうお方です。こういう救い主です。救いの道筋をつけてくださるお方なのであります。

この説教の冒頭で、説教は救いを告げることであると申し上げました。救いを告げるために、どうしても私たちは主イエスの十字架と復活を避けて通ることができません。救いを伝えるということは、救い主である主イエスを伝えることです。言い換えると、救い主である主イエスをご紹介することが、説教なのであります。

先月、信州説教塾がありました。数名の牧師が定期的に集まり、説教を学んでいます。その日も、あらかた学びを終えて、最後に雑談の時間になりました。説教塾という場でありますから、当然、雑談でも説教のことが話題になります。そのときの話題は、説教のテーマをどのように決めるかということでありました。

説教者は、やみくもに聖書箇所を決めているわけではありません。決め方にもいろいろとあります。例えばその日ごとのテーマを決める。このような説教の仕方を主題説教と言います。今日の主題はこれ、来週の主題はあれ、というような形で、主題に沿う聖書箇所に基づいて説教を語ります。私たちの松本東教会では、主題説教ではなく、講解説教という形を取っています。ルカによる福音書から御言葉を聴き続けていますから、連続講解説教と言います。聖書の言葉を解いていく説教のスタイルです。

そのような説教に関することを雑談の中で話し合っていたときに、ある牧師が別の牧師に「月ごとのテーマを決めたらどうですか」と提案をしていました。「例えば、イエスとは誰かという月のテーマを決めて、それに関連するテーマをその月に語るというのはどうですか」と、さらに具体的に提案がなされていました。

松本東教会ではルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。毎回、少しずつ聖書を解いていき、テーマがないように思われるかもしれません。しかしそれでもテーマはきちんとあるのです。ルカによる福音書は、徹底的に主イエスに集中しています。ルカも「イエスとは誰か」を伝えるために、この福音書を書いたのであります。「イエスとは誰か」、少しずつ明らかにしていっています。ルカが書いた物語に沿って、私たちは「イエスとは誰か」という御言葉を聴き続けているのではあります。

今日の聖書箇所では、主イエスが救い主としてのご自分のお姿を自己紹介してくださったにもかかわらず、弟子たちはそのことが分かりませんでした。しかし別のときに、主イエスはほぼ同じような言葉を、弟子たちに示してくださっています。ルカによる福音書の最後、第二四章の四四~四八節のところです。

「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(二四・四四~四八)。

「心の目を開いてくださる」とあります。弟子たちは三回目の予告のときは、「隠されていた」ために理解できませんでした。しかし主イエスが十字架にお架かりになり、復活されて、心の目を開いてくださり、救いを理解させてくださいました。そして、今度は弟子たちがそれを伝える者になったのです。今日の聖書箇所では、弟子たちの無理解が記されていますが、私たちは心の目を開かせていただいた光のもとで、今日の箇所を味わうことができる。主イエスは「神ならできる」と私たちの救いの道を拓いてくださったお方なのであります。