松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年6月24日(日)
説教題「人間にはできないことも、神にはできる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第18章15節〜17節

ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

旧約聖書: 創世記 第18章9〜15節

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所には、金持ちの「議員」が登場します。同じ話は、マタイによる福音書とマルコによる福音書にもありますが、マタイによる福音書では、金持ちの「青年」となっています。マルコによる福音書では、金持ちの「男」となっています。金持ちということでは共通ですが、福音書によって、少しずつ表現が違うのです。

ルカによる福音書での「議員」とは一体どういう議員だったのでしょうか。詳しくは書かれていません。それでもどういう「議員」だったのかを知りたければ、方法としては同じ言葉が使われている箇所をたどる方法があります。聖書の元の言葉であるギリシア語で、同じ「議員」という言葉が出て来る箇所を探すと、ヤイロという人物にたどり着きます。ヤイロは「会堂長」(八・四一)でありました。議員というよりは、礼拝を行う会堂の責任者と言った方がよいかもしれません。

さらに別のところを探してみますと、今日の聖書箇所よりも後のところになりますが、主イエスが十字架にお架かりになる際に、裁判を受けました。その地方の政治のトップであったピラトによって裁かれるわけですが、その裁判の席に「祭司長たちと議員たちと民衆」(二三・一四)がいました。この人たちは主イエスのことを「その男を殺せ」(二三・一八)、「十字架につけろ、十字架につけろ」(二三・二一)と叫んだ人たちです。さらには、主イエスが十字架にお架かりになったときに、「議員たちも、あざ笑って」(二三・三五)いました。

この金持ちの議員が、どこかの「会堂長」だったのか、それともエルサレムの「議員」だったのかは分かりませんが、かなりの高い地位にある人には変わりません。マタイによる福音書では、青年として知られていますが、ルカによる福音書では年若い人物というよりも、ある程度の年齢に達し、地位もそれなりにあった人と言った方がよいかもしれません。会堂長ヤイロには、十二歳くらいの娘がいました。その娘が死にかかっていて、実際に死んでしまったのですが、主イエスが生き返らせる出来事がありました。ですから、この金持ちの議員も、それなりの年齢だったかもしれません。

こう考えますと、この議員は「大変な金持ち」(二三節)でありました。かなりの地位にもありました。さらには「子供の時から守ってきました」(二一節)と言えるくらい、神の掟である律法に忠実に生きてきた人です。お金もあれば、地位もあれば、生活までもが整っている。三拍子そろった人物なのです。自他ともに認めるくらい、これ以上はないと言えるような人物なのであります。

そんな人物ではあったのですが、この人ははっきりとした不安を抱いていました。すべてが満ち足りて、平安に生活をしていたというわけではないのです。この議員が主イエスのところに来て、こう尋ねているからです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(一八節)。もしかしたら、人生の晩年になって、今までの人生はこれでよかったのかと思っていたのかもしれません。この議員は自信なさそうに主イエスに問うています。

自分に自信があれば、こんな尋ね方をしなかったでしょう。自信たっぷりに、私は永遠の命を得ていると言えばよかったでしょうし、そもそも主イエスのところに来る必要もなかったと思います。この議員は金もある、地位もある、しかも善い行いを積み上げてきたのです。それでも不安だった。永遠の命を得られている確証がまったくなかったのです。

私たちも、この議員の不安をよく知っているところがあると思います。この人が抱いている不安は、たくさんのお金や高い地位を一瞬にして失うという不安ではありません。たくさんお金を積み上げてみも、高い地位に登りつめても、あるいはどんな善い行いを積み重ねてみても、永遠の命を得ることができたという確証を得られない不安です。この人は人間の限界を知ってしまった。いくらがんばってみても、不安との戦いが続いていったのです。

この金持ちの議員が主イエスのところに来たのは、確証が欲しかったからであります。「善い先生」である主イエスから、あなたは間違っていない、正しく歩んできた、永遠の命を受け継ぐことができると言って欲しかったのだと思います。ところが、主イエスはそうは言われませんでした。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」(二二節)。主イエスはこの金持ちの議員に対しては、財産を捨てることを要求されるのです。

この議員は、金があり、議員の地位にあることによって、自分が自分として成り立っているような男でありました。もしもそれが取り上げられてしまったら、もはや自分が自分でなくなってしまいます。全財産を貧しい人に施すというのは、言ってみれば美しい行為かもしれませんが、しかし全財産を失うわけです。地位も失うことになるかもしれません。そこにあるのはもはや貧しさだけです。金から自由になって、貧しさの中に飛び込めと主イエスは言われる。自由になって私に従えと言われる。

しかしこの金持ちの議員は、貧しい自分など考えられない人でありました。自分が財産に固執してしまっているのがよく分かってしまったのです。全財産を施せというのは、おっしゃる通りだと思ったでしょう。それが正しいことだと思ったのでしょう。しかしこの人はある意味では正直な人でありました。その言葉通りにできない自分に気付いてしまった。お金なしには生きられない。そんなお金に固執してしまう自分の不自由さに気付いてしまったのです。主イエスの言葉通りに生きることができない自分の不自由さを思い知って、深く悲しんでしまったのであります。

私たちもこの議員の気持ちがよく分かると思います。この議員ほどの金持ちでないにしても、同じことを主イエスから言われたとしたら、この議員とまったく同じようになってしまうでしょう。私たちはこの議員と比べると、なけなしのお金しか持っていないかもしれませんが、しかしだからこそ、却って不自由になってしまっているかもしれません。

こういう生き方しかできない私たちであります。主イエスは議員が非常に悲しむのを見て言われます。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(二四~二五節)。らくだというのは、当時知られていた動物の中で、最も大型の動物であると言われています。反対に針の穴というのは、今でもそうでしょうけれども、当時知られていた穴の中で最も小さい穴です。

主イエスもここでは雄弁な言い方をされていますが、要するに、不可能だと言われているわけです。財産のある者が神の国に入るのは不可能だ。主イエスもある意味では金持ちの議員に対して、絶対に出来ないことを求められているのです。全財産を捨てればよい、そんなことができないことを分かりながら、そう要求されたのです。その可能性はこの議員の中にもありませんし、人間の中にはないのです。ですから、今日の話は、人間の限界を表している話でもあるのです。

ここが私たちの分かれ道になります。人間の限界を思い知らされた私たちです。主イエスも不可能だと言われる。それでも私たちはなおも、自分の力で神の国に入ろうとするのか。永遠の命を私たちの力で得るという、不可能なことに挑み続けようとするのか。それとも、自分の力ではなく、別の方法で神の国に入り、永遠の命を得ようとする道に行くのか。その分かれ道に立たされています。主イエスは分かれ道に立たされている私たちにこのように言われます。「人間にはできないことも、神にはできる」(二七節)。唯一の可能性を、主イエスの言葉に見出すことができるのです。

主イエスは今日の聖書箇所の最後のところで、こう言われています。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(二九~三〇節)。金持ちの議員も、財産を捨てることができればよかったわけです。主イエスが言われている通り、何倍もの祝福をこの世においても受けることができましたし、後の世では永遠の命を受けることができたわけです。しかし主イエスは一方ではこう言われますが、他方では「人間にはできない」とも言われるのです。

ここで「捨てる」ということの意味をよく考えたいと思います。捨てるというと、自分から遠ざけるとか、粗末に扱うとか、軽んじるとか、家族ならば、家族と縁を切るとか、そういうように思ってしまうかもしれません。しかしこの「捨てる」という言葉は、広い意味のある言葉です。捨てるという言葉は、自分の手から放す、「手放す」ということを意味します。手放したのですから、「なすがままにさせておく」という意味にもなります。先週の聖書箇所に「子供たちをわたしのところに来させなさい」(一八・一六)という主イエスの言葉がありました。実はここにも「捨てる」と同じ言葉が使われています。「子供たちをわたしのところに来ることを『なすがままにさせておきなさい』」という意味です。

このように「捨てる」というのは、単に文字通りに捨てるという意味だけでなく、幅広い意味があります。そしてこの箇所で主イエスが言われているのは、財産や家族を軽んじるように捨てるということではなくて、「手放す」「なすがままにする」という意味なのです。金持ちの議員のように、財産をつかんで「手放さない」のではなく、いつでも「手放す」用意をしておくことであります。

主イエスは私たちに手を開きなさいと言われています。財産に執着をするのではない。私たちを不自由にさせるものを、ギュッとつかんだまま手放さないのではない。それだとますます不自由になってしまいます。手放せなくなってしまいます。そうではなくて、手を開きなさいと言われる。その手の上に、必要なものを神が乗せてくださいます。不必要なものを神が取り除けてくださいます。いつでも神を神として、その準備をしておく。私たちが自分からつかんだり、手放したりというよりも、神が乗せて、取り除けてくださる。主イエスは私たちにそういう生き方をせよと言われているのです。

主イエスは、私たちが自分で手を開くことは「人間にはできない」と言われましたが、「神にはできる」とも言われました。神はどのようにして私たちの手を開いてくださったのか。それは、神が私たちに最も必要なものを与えてくださることを保証してくださったからです。金持ちの議員は、最も必要なものの確証は得られませんでした。他のもの、金とか、地位とか、財産などはつかんで手放せなくなっていましたが、肝心の最も必要なものである永遠の命の確証が得られていなかった。

しかしもしもこの金持ちの議員が、最も必要なものである永遠の命、神の国を得ることができる確証があったとすれば、どうだったでしょうか。金持ちの議員も、全財産を施すということができたと思います。主イエスに従うことができたと思います。私たちも同じです。私たちが捨てることができるのは、手放すことができるのは、手を開くことができるのは、神が最も必要なものの確証を与えてくださったときに、初めてできるようになるのであります。

「神にはできる」、主イエスはそう言われました。主イエスはこれからそのことを実現されようとしています。今日の聖書箇所の後に続く箇所で、主イエスはご自分の死と復活の予告をされています。もう三度目のことです。主イエスはこれからエルサレムに向かい、十字架にお架かりになろうとされていた。

この説教の冒頭で、この金持ちの議員はもしかしたらエルサレムの議員だったかもしれないと申し上げました。この人もエルサレムに戻り、主イエスの十字架の裁判の席にいたかもしれません。少なくとも、同じような生き方をしている仲間は、この裁判の席にいたでしょう。そして「その男を殺せ」(二三・一八)、「十字架につけろ、十字架につけろ」(二三・二一)と叫んだのです。いわば、金持ちの議員のような生き方が主イエスの十字架を生んでしまったのです。金持ちの議員の生き方は私たちの生き方でもありました。「人間にはできない」と主イエスが言われた生き方に、不自由にも執着してしまった結果が、十字架を生み出してしまったのであります。

ところが、なんとも不思議なことに、これが私たちの救いとなりました。十字架による大逆転が起こったのです。不自由な生き方しかできず、正しく生きることのできない私たちの罪を背負って、主イエスが十字架で死んで下さったからです。本来ならば永遠の命、神の国からほど遠い不自由な生き方をしていた私たちであります。その罪を赦すために、主イエスが十字架にお架かりになってくださった。私たちは主イエスを十字架につけてしまいましたが、その十字架が私たちの救いとなったのです。これが、神のご計画でありました。これが「神にはできる」と主イエスが言われたことであります。

このようにして、主イエスは「神にはできる」ことを実現してくださいました。このお方が私たちの救い主であります。私たちは永遠の命を受け継ぐことができます。この金持ちの議員も、永遠の命は自分で獲得するのではなく、「受け継ぐ」ものであることを知っていました。神は受け継ぐべき永遠の命を与えてくださいます。神の国に入ることを許してくださいます。最も必要なものをまず神が与えてくださいます。

ここに私たちが「捨てて」生きることができる唯一の道が拓かれました。本当に必要なものが保証されたからこそ、手放すことができるのです。金持ちの議員は逆でした。本当に必要なものが得られなかったからこそ、それ以下のものさえ手放すことができなかった。しかし私たちは本当に必要なものが保証されたからこそ、手を広げることができます。手放すことができます。私たちは永遠の命を受け継ぐものなのです。もはや金持ちの議員のように不安から問わなくてもよいのです。主イエスに従って生きる私たちは、まことに自由な者なのであります。