松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年6月17日(日)
説教題「子どものように神を受け入れよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第18章15節〜17節

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

旧約聖書: サムエル記 第3章1〜18節

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、小見出しが付けられています。いつも申し上げていることですが、小見出しはもともと聖書にあったわけではありません。読者の利便性のために付けられているものです。ですから、聖書朗読をする際には、決して朗読することはありません。今日の聖書箇所の小見出しは、「子供を祝福する」とあります。同じ話は、マタイによる福音書とマルコによる福音書にも記されています。お開きになる必要はありませんが、やはり小見出しが付けられていて、同じく「子供を祝福する」とあります。この話は文字通り、主イエスが子どもたちを祝福する話であると理解することができます。

しかし、三つの福音書それぞれが、まったく同じ言葉で同じ出来事を伝えているわけではありません。少しずつ伝え方が違います。言葉遣いも違います。例えば、小見出しには「子供を祝福する」とありますが、本日のルカによる福音書の箇所の一体どこで、主イエスが子どもを祝福されているでしょうか。少し答えるのに困ってしまうかもしれません。

しかしマルコによる福音書の箇所を見ますと、終わりのところにこうあります。「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」(マルコ一〇・一六)。マルコによる福音書では、きちんと祝福の場面が記されていますが、ルカによる福音書では、残念ながらその場面は記録されていません。もっとも、最初にあります「イエスに触れていただくため」(一五節)というのは、祝福するためには触れなければなりませんから、この言葉に祝福が含まれていると考えることができます。

このように、福音書によって、少しずつ伝え方が異なっているのがお分かりになると思います。ルカによる福音書は、主イエスがあるときに連れて来られた子どもたちを祝福した、その祝福の出来事そのものよりも、もっと伝えたいことがあるように思われます。ああ、イエス様は子どもが好きだったのだとか、イエス様は大人だけでなく、子どもも受け入れてくださるとか、そういうことではなくて、ルカは子どもを祝福する出来事を通して、もっと大切なことを伝えたかったのだと思います。

そのことは、主イエスのお言葉に表れていると思います。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(一六~一七節)。神の国という言葉が出て来ています。これまでに何度も、ルカによる福音書には出て来た言葉です。そのたびに、私もいろいろな説明をしてきました。神の国とは、神がおられるところだとか、神が支配なさっているところだとか、いろいろな説明をしてきました。

そして、本日私たちに与えられた箇所も、一つの説明として、今までの説明に加えることができると思います。「神の国とはこのような者たちのもの」、つまり「神の国とは子どもたちのもの」と言うことができるのです。主イエスは、子どもを祝福する出来事を通して、このことを私たち伝えようとされているのです。

先ほど、三つの福音書は同じ出来事を少し違う言葉遣いで伝えていると申し上げました。それではルカはどんな伝え方をしているのか。ルカによる福音書の特徴は何か。それは、最初の一五節にある「乳飲み子」(一五節)という言葉であります。一五節で「乳飲み子」という言葉が用いられていたにもかかわらず、一六節からの主イエスのお言葉の中では、「子供」という言葉が用いられています。これはもともとのギリシア語の言葉が違うから、このような訳の違いが生じるわけです。この「乳飲み子」という言葉を使っているのはルカだけです。子どもが連れて来られた。いったいどのくらいの年齢の子どもだったのか。ルカによると、それは生まれて間もない「乳飲み子」だったのであります。

このように、一概に子どもと言われても、その年齢は様々であります。松本東教会には、「こどもの教会」があります。どの年齢の子どもが参加してよいのか。明確な決まりはありません。生まれて間もない乳幼児から、高校生までを一応の対象にしています。今日の午後の「こどもの教会」の教師会がありますが、教師会で話し合われるときに、子どもの年齢はやはり考慮しなければなりません。小学生前の子どもたちには、はさみを使うのが大変だから、工作をするときにはあらかじめ大人が切っておいた方がよいのではないかとか、夏期キャンプのときに、小学校高学年はもう自分一人で布団を敷けるのではないかとか、やはり年齢によってだいぶ具合が変わってきます。

ルカがここで「乳飲み子」と記したのは、ルカにとってかなり重要なことだったと思います。乳飲み子が連れて来られた。子どもでしたら、自分で歩けるかもしれませんが、生まれたばかりの乳飲み子です。母親か、あるいは父親の腕に抱かれて連れて来られる以外にありません。ここに連れて来られた子どもは、右も左もわきまえていない、そんな「乳飲み子」だったのであります。

松本東教会で、今から一年ほど前のことになりますが、幼児祝福式を行いました。二人の子どもの幼児祝福式を同じ時に行いました。幼児と言っても、生まれたばかりのゼロ歳児、それこそ乳飲み子であります。日曜日の午後の時間に、三〇分ほどの短い礼拝として整えられた幼児祝福式を行いました。

礼拝の間、二人の乳飲み子はずっと母親の手に抱かれたままでした。讃美歌を歌う時に、母親が立ち上がったときも、やはり腕の中です。説教の間も腕の中です。そして礼拝の最後のところで、祝福の祈りをします。お母さんに抱かれて、お父さんも一緒に前に出て来てもらい、そして私が乳飲み子の頭の上に手を置いて、祈りをいたしました。やはりこのときも、乳飲み子はずっと母親の腕の中に抱かれていました。

子どもは、胎内にいるときから、親の声を聴いて、声を聴き分けることができるようになるそうです。生まれてからも、親の声を聴いては安心します。また、だんだんと目が見えるようになってきますが、やはり親を見つけては安心します。乳飲み子は親に抱かれているのが一番安心だと分かっています。親が見えなくなってしまったり、親の声が聴こえなくなると、急に不安になって泣き出してしまうでしょう。こういう存在が乳飲み子なのであります。

主イエスは、このような「乳飲み子たちを呼びよせて」(一六節)、言われるのです。「神の国はこのような者たちのものである。」(一六節)。子どもたち、それも乳飲み子たちのものであると言われる。うっかりして、私たちは誤解してしまうかもしれません。神の国は大人、プラス、子どもたちなのではありません。大人が神の国での食事のテーブルを占拠しているところに、ほら、少しスペースを空けなさい、そのようにして子どもたちのスペースが作られるのでもありません。神の国は乳飲み子たちのもの。もしも大人になってしまったのであれば、子どものようになりなさい。それも乳飲み子のようになりなさい、主イエスはそう言われるのです。

今日のこの説教を聴いておられる皆さまのほとんどは、大の大人であります。主イエスはそんな私たちに、乳飲み子のようになれと言われる。一体どのようにしたら、乳飲み子のようになることができるでしょうか。どのようにしたら、親の腕に再び抱かれる乳飲み子のようになれるのでしょうか。

このことを考えるために、お一人の方の生き方をご紹介したいと思います。その方は、今から一年半ほど前に召された教会員の方であります。学校の教員として、四〇年にわたって勤められました。いくつかの学校の教員として働かれましたが、一番長く勤められたのは、ろう学校でありまして、一六年にわたったようです。この方は、ろう学校に勤めておられる間、教育の雑誌にたくさんの文章を書きました。教員として、キリスト者として、様々な問題に取り組み、考えて来られました。

そして教員を引退され、人生の晩年におきまして、教員時代に書いた文章をまとめて、一冊の本として出版されました。『喜びと希望と感謝』というタイトルが付けられている本です。この本が出版されたのは、二〇〇六年のことになります。召されたのは二〇一〇年でありましたから、召される四年前ということになります。もうすでに病院や施設に入っておられる頃だったのではないかと思います。私はこの本をいただきまして、特にこの方が召された時に、この方のことをもっと知りたいと思って、手に取って読ませていただきました。

いろいろな言葉に感銘を受けたのを覚えていますが、この説教の準備をするにあたって、特にあとがきに書かれている言葉を思い起こしました。あとがきの文章は、この本の編集が終わって、最後の最後に書かれたのだと思います。こういう文章を、あとがきにお書きになられました。「私のたった一回だけの人生の晩年を迎えている今日この頃の年金生活者としての人生の中で最も訴えたいことは何であろうか。私のために私の罪を私に代ってになって十字架の死を死んで下さったイエス・キリストを心より感謝して信じて、キリストの中に本当の自分を見い出すことである。童心に立ち帰って愛の愚かさに徹する人生を持ちたい」。

最初に私がこのあとがきの文章を読んだときに、おや、と思いました。愛の「愚かさ」という言葉に、おや、と思ったのです。ミスプリントではないかとさえ思いました。普通ですと、愛の「賢さ」だとか、愛の「知恵」だとか、愛の「豊かさ」に徹する人生に生きたい、と書くべきかもしれません。ところが、「愚かさ」という言葉であった。ミスプリントかと思いましたが、続く文を読んで、すぐにこれはミスプリントではなかったと気付きました。「イエス様が幼子のようにならなくては天の御国に入ることが出来ない、と言われた」。

神を信じて生きるということは、神の愛の愚かさの中に生きるということです。私たちは乳飲み子から、子どもを経て、大人になります。乳飲み子だったときの、親の腕に抱かれて、親に頼り切ることをやめてしまいます。大人になるにつれて、自分で生きるようになります。自分のことは自分で考え、自分で行動し、自分の責任でなんでもするようになります。愚かさから卒業し、知恵がつくようになります。そうなると、もはや親の腕に抱かれない。他人の腕にも抱かれない。そしてもしかすると、神の腕にも抱かれないということも起こってしまうかもしれません。

しかし愛の愚かさに生きるというのは、そういうのとは逆方向です。もう一度、親の腕に抱かれるように、神の腕に抱かれるようになることです。自分の知恵では生きない。神の腕の中に飛び込む。神の腕に抱かれて、神の愛の中に生きる。このことが、主イエスが求めておられる、乳飲み子になるということなのであります。

しかもこの方は、人生の晩年になって最も訴えたいこととして、「私のために私の罪を私に代ってになって十字架の死を死んで下さったイエス・キリストを心より感謝して信じて、キリストの中に本当の自分を見い出すこと」と言っておられます。キリストの腕の中に抱かれたとき、そのときに私たちが見出すのは、十字架にお架かりになった手に抱かれているということです。その手は祝福の手であります。その手は、私たちの罪を赦す手です。自分が傷んでまで、私たちを愛してくださる手です。この圧倒的な愛の中で、私たちは乳飲み子になることができます。もはや、私たちの何の知恵も役に立ちません。自分の知恵の賢さではなく、神の愛の愚かさに生きるのであります。

本日の箇所の最後のところに、主イエスのこのような言葉があります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(一七節)。「…でなければ、…できない」というように、否定的な言葉になっているかもしれませんが、これは主イエスから私たちへの招きです。神の愛がある。その愛の中で、私たちは子どもになることができる。すでに大人になっていたとしても、子どものようになることができる。ならなければいけないというのではありません。なることができるのです。このような生き方に生きる者こそ、神の前に乳飲み子になる生き方なのであります。