松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年6月3日(日)
説教題「気落ちせずに、神に祈り続けよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第18章1節〜8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

旧約聖書: 詩編 第86編1〜10節

私が伝道者になる前に通っていた神学校では、毎年四月に新入生を迎え、入学式が行われます。入学式はもちろん入学してくる新入生を迎えるための式でありますが、入学式の中で、始業講演というものも行われます。私の通っていた神学校では、前期と後期の二学期制になっていて、それぞれのスタートのときに、始業講演があるわけです。入学式は前期の始まりでもありますから、始業講演も入学式の中で行われます。

始業講演は教授たちが持ち回りで、それぞれの研究成果を発表する講演会です。とても長い話がなされます。一時間以上の時間はあったと思います。私は四年間、神学校に通いましたから、全部で八回の始業講演を聴いたわけです。

最初に聴いた始業講演は、もちろん私が入学したときでありました。緊張した新入生たちがいる入学式の中で行われます。始業講演が始まるとき、担当の先生がこのように話し始められたのをよく覚えています。「これから話すことは、新入生の皆さまにはさっぱり分からないと思いますが、大丈夫。卒業するときには必ず分かるようになります」。実際にそのときは、その始業講演の一割も理解することはできませんでしたが、卒業する頃には、だいたいの内容を理解することができたと思います。

そして翌年も入学式のときがやってきました。そのときは新入生としての立場ではなく、すでに一年間の学びを経てきた在校生として、始業講演を聴きました。そのときの担当の先生が、このように話し始められたこともよく覚えています。「神学校で必要なのは、忍耐することです」。そのようにして、一時間以上の長い話が始まりました。これも忘れられないことです。その年には忍耐という言葉が私たちの間で流行り、クラスで「忍耐」という文字が背中にプリントされたTシャツを作ったくらいです。

その始業講演にあった通り、たしかに神学生は忍耐を強いられます。しかしこれは何も神学生だけではありません。神を信じて歩むすべてのキリスト者にとってそうであります。私たちが忍耐することができなかったら、信仰を持つことすらできないでしょう。聖書の中にも「忍耐」という言葉や、「耐える」という言葉がたくさんあります。神を信じたらすぐに結果が出るというわけにはいきません。結果が出るまで忍耐を強いられる。神を信じるとはそういうことなのです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、主イエスがお語りくださった譬え話が記されています。一人のやもめが出てきます。夫を失った。そしておそらく息子もなく、身寄りのない人だったのでしょう。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(二節)、あるいは「不正な裁判官」(六節)に対して、必死に自分の主張を訴え続け、ついにその裁判官を動かすことに成功した人の話です。

このやもめはなぜ裁判官を動かすことができたのか。それはこのやもめのしつこさゆえにです。言い換えると、やもめが忍耐していたからです。もしやもめに忍耐力がなかったとすれば、すぐにあきらめてしまって、事態は何も変わらなかったでしょう。しかしやもめが忍耐強く、毎日のように裁判官のところに行き続け、訴え続けたからこそ、裁判官を動かすことができたのです。

主イエスがこの譬え話を語られた目的は、私たちに忍耐することを教えるためです。それも忍耐強く祈るためにであります。最初のところにこうあります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」(一節)。主イエスは、祈りには忍耐強さが必要であると言われます。一度や二度、祈ればそれでよいと言われるのではありません。神に向かって何度もしつこいくらい祈れと言われるのです。なぜなら、神は人格的なお方だからです。

神は人格的であるという言葉を、聞いたことのある方もあると思います。神が人格的であるということは、神は非人格的ではないということです。以前の説教で、これも祈りがテーマでしたが、神は自動販売機ではないという話をしたことがあります。自動販売機というのは機械です。所望の飲み物を手に入れるために、お金が必要です。缶ジュースならば一二〇円、ペットボトルのお茶ならば一五〇円というようにです。

私たちがジュースやお茶が欲しいならば、唯一の条件はそれに見合うお金を持っているかどうかです。持っていれば機械的に与えられます。持っていなければ、どうやっても得ることはできません。いくらしつこく、忍耐強くせがんでも駄目です。神が自動販売機、つまり非人格的なお方ならば、このようになってしまいます。しかし神が人格的なお方であるから、やもめのような話が成り立つのです。神が人格的なお方だからこそ、忍耐強く祈ることができるのです。

聖書にはたくさんの祈りの言葉が記されていますが、なんといっても詩編であります。詩編は祈りの宝庫です。詩編は一編ごとに一つの祈りになっています。本日、お読みした詩編第八六編も祈りであります。この詩編の祈りを祈った人は、ずいぶん大きな苦悩の中に置かれていたようです。それでも神に信頼して、人格的な神に対して祈っています。

「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。」(一節)。「主よ、憐れんでください。絶えることなくあなたを呼ぶわたしを」(三節)。「主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります。主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。」(五~七節)。詩編の詩人もまた、神が人格的なお方であることをよく知っています。おそらく苦難の中、忍耐強く祈ったのでしょう。やもめと同じく、神をも祈りによって動かそうとしたのです。

私が神学校に入学したとき、多くの方からお祝いの言葉をいただきましたが、その中のある方が、私に一冊の本をプレゼントしてくださいました。フォーサイスという人の『祈りの精神』という本です。フォーサイスは一九世紀から二〇世紀にかけて活躍したイギリスの神学者で、植村正久といった日本の初代の牧師たちにも大きな影響を与えた人です。フォーサイスには多くの著書がありますが、その代表的なものが、祈りについて関して『祈りの精神』であります。教会の図書にもありますから、興味のある方はお読みいただければと思います。

神学生になったばかりの私は、早速、いただいたこの本を読んでみました。当時の私にとっては、少しばかり難しい本でありました。それでも、とても印象深い言葉といくつも出会うことができました。未だに忘れることのできない言葉です。例えば、こんな言葉です。「祈りは、実際に神の意志を変えることはできないが、意向を変えることはできる。」(『祈りの精神』、五〇頁)。

少し説明が必要であると思います。神の意志を変えることはできないというのは、神がイエス・キリストによって私たち人間の罪を赦し、救い出すという意志を変えられないということです。その意志はどんなことがあっても変りませんが、その意志を達成するために、神は臨機応変に行動なさるとフォーサイスは考えます。その意味で、神の意志は変えることはできないけれども、意向を変えられる。私たちは神に祈ることによって、神の意向を変えられると言うのです。

フォーサイスがこの言葉を書いたところは、『祈りの精神』の第二章のところです。第二章のタイトルは「ねばり強い祈り」というものです。文字通り、ねばり強く祈ることが勧められていますが、こんな言葉も書かれています。「祈りは戦い、どちらかが譲歩するまで続けられる合戦である。」(五〇頁)。フォーサイスがこのように言うことができるのは、もちろん聖書に基づいていることです。特にフォーサイスが意識しているのが、今日のやもめの譬え話なのです。

そこで、フォーサイスは私たちの祈りに対して、こんな批判を展開しています。「われわれはあまりにも早く「み心がなりますように」と祈りやすい。」(四九頁)。どういうことでしょうか。「み心がなりますように」という祈りは、先ほど私たちが祈った主の祈りの中にもある言葉です。もちろん私たちが祈るべきで祈りでありますが、フォーサイスは最初から祈るべきではないと言うのです。「あまりにも簡単に事態を神の意志として甘受することは、怠惰を意味するのである。神の意志に打ち勝つほどに祈ることが神の御心なのであり、…頑強にねばり強い祈りを捧げることが、さらに御心にかなうことなのである。」(四九頁)。

例えば、愛する家族を信仰に導きたいと思っているとします。ねばり強く、忍耐強く、神を動かすくらいに祈るべきです。しかしそういう祈りをせずに、最初から「み心がなりますように」という祈りを、フォーサイスは批判しているのです。今の状況では、家族が信仰を持つなどということはまったく見込みがないことに見えるかもしれない。半ばあきらめたように、とりあえず「み心がなりますように」と祈る。そうではなくて、まったく見込みはないように見えるかもしれないけれども、その事態を神に変えていただくように、祈るべきだとフォーサイスは言うのです。

このような祈りが成り立つのは、神が人格的であられるからです。神は自動販売機ではありません。あるいはすべてを始めからプログラムされているわけでもありません。もしもそうだとすれば、私たちに祈る余地はなくなってしまいます。すべての出来事があらかじめ決まっているのですから、祈ったところでむなしく終わるだけです。諦める以外ありません。やもめももし最初から諦めていたとすれば、この話は成り立たなかったでしょう。裁判官を動かすことなど不可能だ、せいぜい「み心がなりますように」ととりあえず祈る、それだけで話は終わってしまったと思います。

しかし主イエスの譬え話では、忍耐強く祈ることが説かれます。しかも大切なのは、ただただ忍耐せよ、それだけで話が終わっていないことです。やもめは不正な裁判官の心を動かすことに成功したのです。裁判をしてもらうことができたのです。

この譬え話は五節のところで、ひとまず閉じられています。六節からは、譬え話を受けての主イエスのコメントです。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」(六~八節)。

主イエスが言われているコメントの中で、「すみやかに」という言葉があります。神はすみやかに裁いてくださる。不正な裁判官は、ようやく重い腰を上げて、やもめのために裁判をしてくれました。「すみやかに」ではありませんでした。「まして神は」(七節)とありますから、神は不正な裁判官のようにではなく、「すみやかに」裁いてくださるというのでしょうか。

ところが、私たちの思いとしては、神は「すみやかに」裁いてくださっていないという思いの方が強いと思います。詩編の詩人のように、苦難の中に置かれていて、祈らざるを得ないことが多々あります。フォーサイスが言うように、私たちはねばり強く、しつこいくらいに祈らなければならない状況に置かれています。今日の譬え話で、主イエスは忍耐することを説かれたわけですが、神が「すみやかに」裁いてくださるのであれば、そもそも忍耐する必要もないのです。主イエスは、一方では忍耐せよと言われて、他方では「すみやかに」裁いてくださると言われた。このことを一体どう考えればよいのでしょうか。

先週の説教を思い起こすとよいと思います。先週はこの聖書箇所の一つ前のところから、御言葉を聴きました。先週の説教をここで繰り返すことはできませんが、簡単に言うと、こういう話です。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活された。その後、弟子たちと四〇日にわたって過ごされましたが、天に挙げられました。今、主イエスは天におられます。

そしてやがて、主イエスが再び来てくださる。主イエスが来てくださることを、再臨と言います。再臨の日に何が起こるかというと、裁きが起こります。私たちが裁かれる。しかし私たちはその日を恐ろしい日としてではなく、神がイエス・キリストによって私たちを救い出してくださったのだから、私たちの救いが完全に実現する日として、再臨を待つことができる。そんな御言葉を私たちは聴きました。

今日の聖書箇所もその続きです。最後の八節のところで「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(八節)と主イエスは言われています。再臨のことです。主イエスが再び来られたときに、地上には信仰があるだろうかと主イエスは言われています。言い換えると、忍耐強く、祈り続けて、主イエスが再び来られることを待ち続けている者たちがいるだろうかということです。

私がこの説教の準備のために、いくつかの説教を読みました。特に今日の聖書箇所は有名な箇所でありますから、たくさんの説教を読むことができました。その中のある説教は、説教の冒頭が、こういう語り出しで始まる説教でした。「私どもは、「人の子が来られるときに、信仰を見出すことがおできになれるように」と、ここに集まってまいりました。私どものところにも見出していただくためです。…この方に信仰を見出していただくことを目指して働くために、私どもは召されたのです。」(『説教黙想集成』第二巻、五九七頁)。

この説教は、牧師とその配偶者が集まるところでなされた説教であるようです。牧師とその配偶者たちが集まり、何らかの集いを行っている。その集いの中で礼拝を行っている。説教が語られている。私たちがここに集まっているのは、人の子が来られたとき、つまり主イエスが再臨されたときに、私たちの集いにおいて、信仰を見出していただくためだとこの説教者は言うのです。

これは何も牧師だけの話ではありません。牧師の家族だけの話ではありません。この教会に集う者たちも同じであります。私は今日の説教をそのように始めようかと思ったくらいであります。この説教者に倣って、「皆さまがここに集まっておられるのは、主イエスに信仰を見出していただくためなのだ」、そう語り始めようと思ったくらいです。主イエスは忍耐して祈り続けよと言われましたが、忍耐して祈り続けているのが教会に集う者たちです。世界中どこを探しても、これほど忍耐している人たちはいないのではないでしょうか。「すみやかに」裁いてくださるという約束を信じ、二千年にわたって、祈り続けてきたのです。

なぜ忍耐することができたのでしょうか。それは、終わりの約束が変わらないからであります。フォーサイスが言いましたように、神の意志は変わらないからです。神の意向は臨機応変に変わるかもしれませんが、イエス・キリストによって、私たちの罪を赦し、救い出すという神の意志に変わりはないからです。

ですから、私たちは忍耐しなければならないという状況に置かれているというよりは、私たちは積極的に、忍耐ができる者たちなのです。現代はますます忍耐しにくい時代になっています。忍耐強く待つのではなく、すぐに結果が求められます。そんな状況に置かれている私たちです。「すみやかに」と言われながらも、私たちは忍耐強く、待つことができるのです。祈り続けることができるのです。終わりの約束が確かなものであるからであります。私たちは忍耐できる者たちなのです。

この忍耐力は、私たちにとって非常に大きな財産です。私たちが生きていく上でのこれ以上はない大きな力です。神が私たちに与えてくださった何よりの賜物だと思います。どんなことがあっても忍耐強く、祈り続けることができる。神の意向を変えるくらいに、しつように祈り続けることができる。これが信仰を持つということです。主イエスはそのようにしている私たちの中に、信仰を見出してくださるのです。